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一年間だけ博報堂にいたが、クリエイティブチームの打ち合わせは、本当に長かった。

10人くらいが大きめの会議室に集まり、一つのお題について、夜11時から朝6時までぶっ通しでやる。そんなことはザラにあった。一応若手がアイデアを持ち寄るが、ほぼヨーイドンで考え始め、ビッグアイデアが出るまでやる。企画書の流れが見えるまでやる。一体どれだけ居たんだというくらい、出力された紙とドリンクの缶が机の上に散らばっている。だれも時間なんて気にしていなかった。

僕のような新人は、打ち合わせの中で飛び散った大量のアイデア熱にボーッとしながら、生存本能のままに近くの松屋で牛丼をかっこみ、隣のファミマで無印のトランクスとTシャツを買って、ビルの地下にあるシャワーを浴び、レッドブルで無理矢理に目を覚まして、昼のプレゼンに向けて企画書をつくりはじめる。そんなのが日常茶飯事だった。最初は「こんなのおかしい。打ち合わせの時間長すぎる!」と思っていたが、日々それが当たり前のなかで働いてると感覚はバグっていく。

先輩たちはよく「昔はこんなもんじゃなかったぞ」と言っていた。あの頃は楽しかったなぁと。そういう人たちが昨今の急速な働き方改革と、リモート化によって窮屈になっているという話を聞く。余白がなくなった、と。雑談がなければクリエイティブなアイデアなんて生まれない、と。もちろん会議論としては分かるが、根本的にはそういうことじゃない。何かがパラダイムシフトしている。

ちなみに僕は今、ニューピースという会社を経営しているわけだが、打ち合わせの時間は極力短くしている。事前にアジェンダで論点を洗い出し、30分で終わらせるものも多い。ドキュメントでの共有を基本にして、参加者も最小限にしている。人数が多くなると何かと無駄に時間がかかり、また喋らない人間の同席は場の活力を奪うからだ。

では、その空いた時間で何をしてるか。一つはコミュニティづくり。6curryやREING、thinktankなど、それぞれの掲げるテーマの元に仲間を集め、議論したりアウトプットしたりしている。それはめっちゃ平たく言えば、社会を良くするためのアイデアを考えるおしゃべり。何時間も、何日間もかけて。もちろんそこから生まれるアウトプットが世の中に価値を出していくわけだが、根っこにあるのは議論だ。それが面白いからみんな参加する。それはSNSも、このnoteも同じだ。そういう知的な遊びが一番楽しいってことを本能的に感じているから、みんなやっている。

今になって、ようやく分かった。代理店のあの長い長い打ち合わせは、最高の遊びだったのだ!僕らがコミュニティでやってることと、先輩たちが会議室でやっていたことは、同じ快楽なのだ。それが仕事なのか遊びなのか、そのパッケージが違うだけで。

あれを強制的な業務、そういう意味での仕事だと捉えるから効率化の対象になるし、鬱になってでもやらなきゃと苦しむ人が出てきてしまう。72時間働けますか、なんて遠い過去の話で、近い将来、週4日出勤や1日6時間労働になっていく。いわゆる会社の仕事はどんどん小さくなっていくだろう。でもそれは20世紀の常識に縛られているからだ。

仕事なのか、遊びなのか。それが問題だ。

遊びは本来、楽しいもの。その人間の好奇心が赴き、誰かに言われなくてもやりたいと感じるもの。むしろ大人が止めようとしてやってしまうもの。時間を忘れて。片付けるのも忘れて。もちろん遊びにも、チャレンジやリスクはある。ただそこには大好きな仲間もいる。そういう遊びの顔をした仕事が広がっていくだろう。そこにはブラックやホワイトのような境界線はないのだから。またあの頃の先輩たちと終わらない打ち合わせとモノづくりができたらいいな。