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ボブ・ディランは問いかける:フォーカシング=カンフー論(1)補論

はじめに


以前、『「考えるな、感じろ」の本当の意味:フォーカシング=カンフー論(1)』という記事を投稿し、多くの方々か関心を持っていただきました。

続きを書く前に、補論というか、記事を投稿後に色々と調べた中で気がついたこと、考えたことをまとめておきたいと思います。

前回の要約

上記の記事の内容は、よく知られている"Don't think, FEEL!"の意味を、それがどのような対話の中で語られた言葉なのかに立ち戻って理解するというものだった。『燃えよドラゴン』の冒頭、少年に武道の稽古をつける中で、いい蹴りの決まった少年に対して、「今の良かったな!何か感じたか?(How did it feel to you?)」と問いかけるブルース・リー。少年が「えぇっと…(Let me think…)」と戸惑うと、リーは頭を叩き、「考えるな、感じろ(Don't think, FEEL!)」と凄む、というシーンだ。

リーの武道自体が、水のように相手と呼応する柔軟さが本質であるように、この「考えるな、感じろ」という言葉も、少年との関わりの流れの中で理解する必要がある。むしろ、その前に登場する、リーが少年に問いかけた「何か感じたか?(How did it feel to you?)」という問いかけ、自分の内側を見つめさせる問いかけは、もっと注目されてよいように思う。

『燃えよドラゴン』の公開は1973年。60年代前後の心理療法研究の集積から、新たにセルフ・ヘルプ技法やカウンセリング応答として70年代に発展した、ジェンドリンの「フォーカシング」も、緩やかに同時代性を持っている。身体の感覚を問いかけること。ありふれた行いではあるものの、60年代に渡米してアクション俳優として活躍したリーも、何か当時のアメリカの「空気」を共有していたようにも思える。

そう思えたのは、「誰かの"feeling"に問いかける」ということを、60年代のアメリカでやり、革命的なムーブメントを起こした人がいたことに今更ながら気がついたからだ。ボブ・ディランである。

ライク・ア・ローリング・ストーン:1965年


言わずと知れた、20世紀最大のアーティストの1人であるボブ・ディラン(Bob Dylan)。フォークシンガーとして、デビュー後に『風に吹かれて(Blowin' in the Wind)』など、プロテストソングを多数発表した後、反戦運動の象徴としての位置づけを毛嫌いしてロックシンガーへ。大ブーイングを受けながらもそのスタイルを確立させていった、革命と伝説のアーティストである。

2016年にディランがノーベル文学賞を受賞した際に、改めてその楽曲をサブスク配信か何かで聞き直してみたことがあった。『風に吹かれて』や『時代は変わる』は聴き覚えがあったけれど、聴いていてとかく不思議、というか何だかよくわからなかったのが『ライク・ア・ローリング・ストーン(Like a Rolling Stone)』という曲だった。
まず自分の英語力のなさを差し置いても、何を言っているか分からない。歌詞を見ても、訳詞を見ても、何を言っているのか分からない。有名な曲らしいのだが、全くピンと来ない…。それが率直な感覚であった(こういった評は当時からあり、レコード会社の役員も「何言ってるか分からないから取り直すんだろ?」と言ったとか)。

そもそも『ライク・ア・ローリング・ストーン』は生まれた当初から"規格外の曲"だったようだが、それでも特にこの曲は、ここで扱う必然がある。
新書『ボブ・ディラン ロックの精霊』の冒頭に近い部分に、ディランについてこうある。

最大のヒット曲は、「ライク・ア・ローリング・ストーン」だ。二分から、長くて四分がポップスの常尺だった一九六五年のことだ。それが、ディランのこの曲では六分もある。しかも、ラヴ・ソングでもなく、ストーリーをたどったバラードでもない。人生をしくじった者に「どんな気がする?」と問う、皮肉な歌だ。蛙を踏みつぶしたような声だの、蟬が鳴いているような歌などとしばしば揶揄されたが、この曲は今も愛聴され、六〇年代アメリカン・ロックのランキング企画で、しばしば最上位に冠される作品だ。
湯浅学『ボブ・ディラン ロックの精霊』

『ライク・ア・ローリング・ストーン』はディランがイギリスにコンサートにいった後、辟易して飛行機の中で「吐き出すように書いた」という逸話が残っている、物語調の詩のような曲である。さらに6分という破格の長さ。当時のレコードは技術的に片面3分ほどが適切だったのでレコード会社は販売に難色を示したという。差し当たり曲を途中でぶった斬って作ったデモ版をDJに配って聞かせたところ、「これは絶対に世に出すべきだ」という声意見が殺到してリリースされたという、破格エピソード満載の曲である。

How does it feel?


この曲において特に特徴的なのが、曲中でサビの部分で何度もリフレインされる"How does it feel?(どんな気分だい?)"という問いかけである。

How does it feel, how does it feel?
To be without a home
Like a complete unknown, like a rolling stone
Bob  Dylan ,Like  A Rolling Stone

この曲は、「ミス・ロンリー」と作中で呼ばれるある女性に向けて語りかけるように書かれている。まーしゃるさんのLyricList(歌詞ブログ)がとても参考になったのでそれをふまえて書くと、ブルジョワ層を連想させる気取った彼女が、周りの忠告を無視して調子に乗って落ちぶれてしまい、そんな彼女に対してディランは「どんな気分だい?」と問いかける。帰る家もなく、知り合いもいなくなり、まるで転がる石ころのようになって。

この"a rolling stone"というのはこのミス・ロンリーについてのメタファー(隠喩)であり(この場合は"like"がついているので直喩的だが)、「転がる石に苔はつかない(A rolling stone gathers no moss)」という有名なことわざを連想させる。
このことわざ自体には、「よく活動している人は一つの場所にとどまらない」という肯定的な意味と、「落ち着きのない人は大成しない」という否定的な意味を両義的に含意されている。
ミス・ロンリーを形容するなら、この”like a rolling stone”は否定的なニュアンスの方が合うように思うが、これは取りも直さず、当時この詞を書いたディラン自身に重ねられている。
虚構に満ちた生活に対して、辛辣に皮肉を込めて語られたこの"like a rolling stone"という表現は、同じくディラン自身に向けられた"How does it feel"という問いかけによって、ディラン自身と交差する。"feeling"への問いかけは、表現と感覚との交差のトリガーとなる。

先日、ゲンロンのイベントで漫画家の浦沢直樹さんが哲学者の東浩紀さん、批評家のさやわかさんとされていたトークイベントの配信で、浦沢さんがディランに言及されていて、そこでまた改めてこの曲を聴き直した。

浦沢さんは、漫画家として大成功を収めた後のある夜、CDでディランを聴いていた。ご自身もシンガーソングライターである浦沢さんは、もちろん子どもの頃からディランに陶酔していて、『ライク・ア・ローリング・ストーン』も数えられないほど聴いていた。そんな浦沢さんが、その日この曲を聴いていると、サビの"How does it feel?"が「あたかも、他でもない自分自身に、問いかけられているように感じられた」のだと、当時を思い出して語っていた。そして"既存の作品の成功にあぐらをかいてはいられない"と、次回作の構想に入ったのだそうだ。

感じを問う時代と「存在への関心」


浦沢さん曰く、この曲の"How does it feel?" がまるで自分に向けられているように感じる現象は、自分だけでなく多くの人が体験談として語っているを見たことがあるそうだ。それだけ非常に強い影響力を持ってきたこの『ライク・ア・ローリング・ストーン』の問いかけは、今この曲を聴く私たちに、自分の感覚を感じることを突きつける。

60年代の波乱と革命の時代。キューバ危機(1962年)やケネディ大統領暗殺(1963年)というイデオロギーの混乱に満ちたアメリカで、1965年に『ライク・ア・ローリング・ストーンズ』が登場した。ちなみに、フォーカシングもその系譜として言い続けられる分野である、人間性心理学会がアメリカで設立されたのは1962年。自由や自分らしさを探求する人間性心理学の主張は、自分たちが本当にどう感じるのかを突きつけるディランのこの曲と同様に、当時のアメリカにおいては、今では実感しがたいようなリアリティがあったのではないかとも想像する。

こういった時代の流れの延長線上に、70年代にリーは映画『燃えよドラゴン』で「考えるな、感じろ」と映画の観客に一撃を喰らわせ、ジェンドリンは世界で最も危険なら街とも言われたシカゴの街で、「感じること」の重要性を説いたフォーカシングを考案し、人々とコミュニティを形成しようとした。彼らが主張した感じるとことへのシリアスさは、当時の時代を知ることで、より際立ってくる。

彼らは私たちに問いかける。「あなたはどう感じる?」と。「こう感じろ!」と何かを押し付けるのではなく、「どう感じてもいいじゃない」という肯定のようである種の無関心を含む態度でもない。「感じる」という、その人にしか分からない、あるいはその人にも実際のところ自分がどう感じているか分かり知らないこともある、その感じを、真っ直ぐに問いかける。そういった「誰か」の存在、聴き手でもあり、自分の言葉の宛先でもある「誰か」との関係をいやが上にも際立たせるこの問いかけのインパクトが、今の時代にどう響くのかは、再考の余地があるように思われる。

"How are you?"という表現はよくある挨拶であるが、ジェンドリンはこの問いかけのラディカルさについて言及する(Gendlin, 1978/792018)。ハイデガーの「情態性(Befindlichkeit)」との関連から、この"how-are-you"という表現は、あえて直訳すれば「あなたはどのように存在していますか?」を問いかけることであり、現存在の存在への関心というハイデガー哲学との根幹を共有する。"how does it feel?"というような、この種の問いかけは、「自己発見(self-findings)」であり、「感じやその状況、その人自身を見つける再帰性(The reflexivity of finding oneself; feeling; and being situated)」の体現である。

「どう感じる?」という問いかけは、他者の「存在の関心」に目を向けるだけでなく、問いかけるその人に、その人自身の「自分自身の存在自体に関心を向ける」ためのトリガーであり、自分自身と自分の状況、生との交差を促すトリガーでもある。フォーカシングでも、自分の感覚に問いかけるための促進的な応答を「誘発的問いかけ(triggering questions)」と呼ばれている。

ディランの"how does it feel?"がそうであったように、「どう感じる」という問いかけは、時にとても強烈な威力を持ち、荒ぶる何かを呼び起こすトリガーとなる。人によっては、そしてクリティカルにこの問いを”真に受ける”ことになった人ほど、往々にして手痛い思いをするに違いない。しかしこの問いかけは、次なるあり方への変化を促すためのトリガーにもなる。

60年代の「問いかけ」の思想。まるでまっすぐ何かを突きつけられているような、切実さを含むこの表現。今となっては、手厳しさすら感じうるこの問いかけの系譜には、当時、社会に蔓延していたラディカルさが反映されているように思える。

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