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【ショートエッセー 202407】教養はソップのように ※落選作

 鶏鍋とちゃんこ鍋の違いは何かと訊かれて当惑したことがある。調べても具材や作り方に明確な違いはなさそうである。相撲部屋によっては鶏肉以外の畜肉やシーフードも入ったちゃんこ鍋を作るところもあるようだが、それは家庭で作る鶏鍋についても言えることで、「鶏が入っている鍋」だからと言って「鶏しか使ってはいけない」わけではない。結局、作り手が一般人か力士かどうかの違いでしかないのだろう。

 個人的に好きなのは、鶏がらでとっただしに、醤油ベースに調味して、さらに具材を入れて煮る「ソップ炊き」である。「ソップ」は「スープ」の転らしい。

 具材は何でもいいからこそ、何を入れるかで味が決まる。選んだ具材の旨味はすべてソップに溶け込み、そこへ飯やうどんを入れて軽く煮たのを〆に食べると本当に美味しい。一番食べたかったのは〆ではないかと思うくらいである。

 以前、坂口安吾の「わが工夫せるオジヤ」というエッセイを読んだときは、さすが安吾と舌を巻いた。出来上がるまで最低三日はかかるそのオジヤが滅法美味しいであろうことは、頭では分かるのだけれど、尋常でない手間暇に気後れして実際に作ったことはない。 

 ここで藪から棒に話を教養に変えるのは、教養はソップのようなものではないかと思うからである。

 興味のある分野だけ気を入れて勉強した方がよいと主張するひとが増えたように思う。興味の持てない、当座の役に立たなさそうな学問の習得に時間を割くのは無駄である--三角関数、古文漢文、果ては文学国語も不要だと断ずるひともいる。

 わたしは、好きな分野を習得するのに多くの時間を割くことには異論はないが、あまり興味のないことも一通り勉強しておいた方がいいという立場である。今役に立たないと思っていることが将来も役に立たないという保証はどこにもないからである。たとえば、英語が好きなひとが英語しか勉強しないでいると、どこかで行き詰ると思う。英語で表現する際、自然科学や人文科学の知識がないと難しいこともあるだろうからである。

 何より、当座の役に立つ専門的な知識や技能しか身につけていない仕事人こそ、他の誰とも取り替え可能ではないだろうか。

 必要なことしか学ばなくていいと公言して憚らないひとには、鶏がらスープと醤油と化学調味料だけのソップのような物足りなさを感じてしまう。啜れば美味しいのだろうが、作りかけの未熟なソップだとがっかりしてしまいそうである。

 一見あってもなくてもいいような具材から出る旨味が加わってこそ、あの滋味、ソップと呼ぶにふさわしい格が出てくると思う。

 知っていたところで給料が上がるわけでもない百人一首や漢詩を諳んじられる専門家は人間として信用できる気がするのである。

(終わり)

※この作品の著作権は作者・本木晋平にあります。無断での引用・複製・転載を固く禁じます。

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