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「ぼんやりした目標」を「小さな行動」に変える

やっぱり具体的に「何をどうするか」を決めないとダメなんだな…。

今年のはじめに立てていた目標で、なかなかうまくいかなかったことあって、どうしたものか…と思っていたんだけど、ようやくその一歩目が見えてきた。

今年の1月のnoteに書いていたこと。

それで、今年の正月に「今年のぼんやりした目標」を2つ決めて、ひとつは今やってる習慣が4月でひとつ終えられるので、その時間を使ってやると決めてるんだけど、もう一つが全く何もできてなくて、そろそろ1月も終わるので、簡単にひとつくらいは手をつけておこうかなと思って、こんなことを書いてる。

このうち最初のひとつが「短歌」のことだった。
今年は短歌をやろうとぼんやり考えていた。
1月に一度とりあえずやってみたんだけど挫折した。
やり方を変えて4月から再挑戦してそれからは毎日短歌をつくっている。

もうひとつが、「写真のことをしっかり考える」ということだった。
今年は真剣に写真に向き合おうと、もっと写真の解像度を深めていきたいと、そういう目標だったんだけど、いざ「しっかり考える」ってどうすりゃいいの?って感じでまったく具体性がない。
「しっかり考える」このぼんやりしたテーマをどう具体的にするのか?
このことがなかなか答えが見つけられないでいた。
写真集を買ってみるとか、いくつか行動を起こしてみたんだけど、いまいちピンとこなくて、もうどうしていいやら。

なかなか何もできないまま半年が過ぎていたんだけど、6月の終わりに3ヶ月に一度のひとり反省会をして(3ヶ月ごとの月の最後の日曜日にひとり反省会をやっているのです)、このままじゃ何もしないで終わるなと思ったので、7月にひとつ小さな行動を起こすことにした。

具体的にできて、習慣化できそうな「小さな行動」を考えてみた。

・気になる写真展に行く
・ブログにその写真展で感じたことを書く

なんてことないことではあるんだけど、こうやって具体的にしてみないと、ほんとに何もしないままただ時間が流れてしまう。
何でもいいからやってみることだ。

やると決めたらいつやるのかを決めること。
何かのついでにそのタイミングを作ることにする。
頻度は多すぎず少なすぎず毎月1回にする。
これなら無理はない。
毎月一回、決まったタイミングで写真展に行くことにする。
必ず都内に出かけるのが月初めのサンクチュアリ出版での会議の日なので、その日に写真展を見に行くことに決めた。
カレンダーの「会議」の日に「写真展に行く日」という予定を書き込んだ。
決めたら、その場で書き込む。
まずやったことはこれだけ。
本当にこれだけなんだけど、「何を」「いつ」が決まると、それだけで世界って変わる。

まずその日に見に行く写真展の情報を調べ始める。
これだけでもふだんはあまりやらないこと。
「写真に触れる時間」が日常に自然に生まれる。
そして「これ気になる」という写真展を見つけたら、その情報をカレンダーのメモに書き込む。

最初に見に行こうと思ったのは、この写真展。
コロナ禍の東京の住宅の不透明な窓のみを捉えた写真の展示。

会議のある7月6日に見に行った。
写真展「windows」、六本木の小さなギャラリーでの展示。
ただ見るのではない。この展示を見て感じたことを文章に起こすと決めて見た。
「書く」と決めて写真展を見るのはたぶん人生で初めてだ。
なるほど「書くこと」を前提に「見る」と見方がだいぶ変わるものだと、今さらながら当たり前のことに気がついた。
そして書いたブログの文章が以下。

六本木でちょっと気になっていた奥山由之の写真展「windows」を見てきた。
東京の家の窓を撮った写真。外から室内をガラス越しに撮った写真が並ぶ。
つまり家の中を盗み見ている。
しかしガラスが透明ではないため中のものは不鮮明でもやがかかっている。
エフェクトがかかって油絵の絵画のようにも見える。不鮮明な家の中。
家というものの持つ不透明性そのもののようでもある。
外からは見えない家の中という得たいのしれない空間。
この写真が撮られたのがコロナ禍であることもとても意味深だ。
みんなが移動の自由をうばわれて家に閉じこもった。それを盗み見る。
かすかにわかる家の中のものは、決して見られるためにそこに存在してしない。
そこに映っている生活の断片は、家の中にいる人のために置かれており、外にいる誰かに見られるために置かれてない。だから窓の外には背を向けている。
無造作にゆがんだ家の背中のような抽象的な世界の切り取り方が面白い。
効果的なのは写真集より展示だ。
飾られた額の中の写真がまるで窓そのものだ。
写真の前にガラスが1枚はさまれていることがまた実物感をあげている。
個人的にはとても好きな写真だった。


つづく8月もやはり月初め会議の日に写真展へ行くことにする。
まず会議の日程が決まったら、その日のスケジュールに「写真の日」と書き込みをして、見に行きたい写真展の情報をネットで検索し、その情報をスケジュールに書き込む。

8月に見に行くことにしたのはこの写真展。

気になってた写真展を見に品川へ。
浅田政志写真展「Canon Colors」。
キャノンギャラリー50周年記念の写真展で、キャノンの社員たちを撮った写真。
実に作家性が発揮された気持ちの良い展示だった。
Canonに働く人の写真ではあるのだけどまったくドキュメンタリックではなくて、仕事をある意味でごっこ遊びのように楽しんでいる大人たちとしてとらえている。仕事するってなんか楽しそうじゃん!そう思えてくる写真だ。
仕事をする人の背景を解説したキャプションも味わい深くて、じっくり読んでしまう。カメラ好きがそのままカメラの仕事に就いたって人もいれば、浅田真央に会えるかもという謎の勧誘を受けて入社した人もいて、それぞれの働く人の背景は単純に面白い。
それを伝えるために演出を凝らして作り込まれた写真。
楽しそうだし、実際見ていて楽しい。
働くこともカメラも写真も楽しい。それがダイレクトに伝わる。
企画として見事だと思った。


9月も同じく会議の日に。
同じように会議の日が決まったらそこに見に行く写真展の情報を書き込む。
ただ、この日は会議と打ち合わせが長引いてしまい、写真展の会場に行ってみたら展示時間に間に合わず閉館していて見ることができなかった。
急遽、近くのギャラリーで何かないか探した。
写真展ではないのだけど、たまたま案内をもらっていた別の展示に行くことにした。
写真ではなくイラストの展示だったのだけど、行って展示を見てみたらそこに「写真」を感じた。実際にカメラでスナップを撮って、そこからイラストを起こしているとのことだったので、9月はこの展示でイラストの写真性について書くことにした。

実に写真的だなと思った。
イラスト展の案内をもらったので、ずいぶん行ってなかった原宿のギャラリーに行ってきた。松木直紀個展 「スクランブル」。
ギャラリーに入った瞬間に思ったのは、写真的だなということだった。全て渋谷の風景を描いたイラスト。街の切り抜きかたが、とてもスナップっぽい。
そして渋谷のどこかというのが見てすぐにわかるくらい忠実にその場所が描かれている。何気ない街角や駐車場やただ地面を描いただけのイラストでも、それがどこの場所なのか写真以上によくわかる。
おそらくそれは描かず省略している部分があるからなのだろう。
特徴がより際立つ。
ぼかされた看板群の中にスペイン坂の昔よく行っていたスペイン料理の「びいどろ」の看板を見つける。それはぼかされずに描かれている。それを見るだけで少し嬉しくなる。画の中に思い出の場所が描かれるとなんでこんなに嬉しくなるのだろう。
絵の奥にいる重心を横にずらしてたたずむ少女が妙に実在感があり、そういった人の様子がやはりスナップ的なものを感じさせる。そして道ゆく人たちがもれなくマスクをしている。
ここに描かれているのは2年前の渋谷の風景だという。
一種のドキュメンタリックさをまとっている。
やはりきわめて写真的である。
そういえば何年もこの風景の中を歩いていない。
久しぶりに渋谷を歩いてみたくなった。

写真展には行けなかったけど、ダメだったときは、少しやり方を変えてみる。
こういう柔軟さも必要。
完璧さを求めない。
大事なのはやると決めたらやること。自分との約束を守ることだ。

まだはじめて、たった3ヶ月。
でもひとつ具体的にすることで、小さな一歩目を踏み出せた気がする。

「写真のことをしっかり考える」がこういうことなのかはわからないし、言ってみたら「何、そんなこと?」くらいのくだらないことでしかない。
ただこんなんことでも具体的にしないと何も始まらない。

・毎月気になる写真展に行く(月初めの会議の日)
・ブログにその写真展で感じたことを書く

「写真のことをしっかり考える」というぼんやりした目標を「何をどうするか」という「小さな行動」に変えた。

これがスタートだ。

あとはやっていきながら考えていけばいい。
くだらないことでもいいから具体的に何かを始めてみる。
そして、この後どうしていくかはやりながら考える。
続けていけばたぶん自然に何かが変わるはずだ。
まずはこんなことでも、続けてみることだ。

やっぱりこれが大事なんだよね。
きっと。

ちなみにやっぱり9月もしっかり写真について書こうと思って、昨日気になる別の写真展を見てきた。

写真展を見た。「北島敬三UNTITLED RECORDS :REVISITED」
人っこ一人写っていない寂れた風景の大判の写真。
それはかつて何かであっただろう場所であったり、見過ごされ、忘れらそうな風景だ。震災後の被災した建物だったり、多くは東北だが、時に沖縄だったり東京だったり、日本各地の忘れられそうな場所が混在している。
そしてやはり人は一人も写っていない。
湖の中に建物が埋まったような写真がある。なんのための建築物なのかはわからない。
ただ鉄骨を組み上げたような物体が湖に埋まっている。
かろうじて姿の見える建物と呼べるのかわからない部分に向けて電線が一本伸びている。つまりそこに電気が通っている。そのなんだかわからない建物は何か機能を果たしているのだろう。
雪山の広がる雪原にポツンと一軒小さな小屋が建っている。
建っているというよりポツンと置かれている。人が住んでいるのかはわからない。しかしそこに向かってやはり電線が一本伸びている。そこに電気は来ている。
それがなんであるのかわからない建物にどうしても意味を探してしまう。
「週刊現代」という巨大な立て看板を前にした今は廃業していると思われる店。
窓に貼られた「ソフトオンデマンド」の文字、そしてアダルトグッズを売っていたようなポスターがかすかに残るその店の入り口に、BOOKSという文字がある。
かつては町の書店だった場所が、アダルト店になっていき、やがて廃業したのだろうか。微かな痕跡がその場所の歴史を物語る。
何物かわからない建物たちにもかつて何か役割があったはずで、それはもしかすると今も機能しているのかもしれない。
ただ寂れただけに見える景色が何かを語りかけてくる。
そんな展示だった。


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