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家族をつなぐもの〜ちょっと思い出しただけ、な料理の話

先週に引き続き、今週末も料理をした。
お盆のうちに終わらせたい仕事があってずっと閉じこもっているので、いい気晴らしになるなと思いながら、ちょっと料理についての記憶を掘り起こしてみたので今回はそのことを書いてみる。

いちばん最初に料理をしたのは小学1年生のときだった。
その頃、母と二人暮らし。
小学校に上がるまでは母とは別々に暮らしていて、わたしは母の実家の長崎に預けられていた。
小学校に進学するときに母に引き取られて東京で一緒に暮らすことになった。
その頃、編集プロダクションを立ち上げてバリバリ働いていた母は毎晩遅くまで働いていて、なかなか朝は起きられなかった。
だから学校に行く時間ギリギリで朝ご飯を食べることが多かった。
朝ご飯と言っても、だいたいロールパンかトースト、ソーセージがあればいい方、あとは牛乳、そのくらいだったと思う。
ときどき石井のハンバーグをパンにはさんで、ハンバーガーと言って食べてたのを覚えている。
まだマクドナルドへは行ったことがなかった。
ハンバーガーはマンガの中の食べ物だった。
朝はだいたいテレビでアニメの再放送を見ていた。
それから1日が始まる。
昔から早起きだったというより、考えたらアニメを見るために早起きの習慣がついたのかもしれない。
朝の再放送と言えば「マジンガーZ」。
6時台だったと思う。
毎朝「マジンガーZ」を見るために早起きしていた。
それが終わったらピンポンパンを見て、ポンキッキ。
毎朝のルーティーンだった。
ある日、まったく母が起きてこなくて、ふと思った。
「朝ご飯、自分で作れないかな」
そう思って自分でやってみた。
作るなんてたいそうなものじゃない。
ただロールパンをトースターで温めて(たしか少しこげた)、牛乳をコップに注いで、そのくらいだと思う。
いつも母がしているのを見てマネした。
ロールパンを皿においた記憶くらいしか残ってないのだけど、そうして母の分も準備して、母を起こした。
母がとても驚いていたことを覚えている。
たったこれだけのことで、こんなに人は喜んでくれるのか。
それからときどき朝ご飯の用意を自分でするようになった。
母もほとんど料理をしない人だったので、何か料理を習うということはなかったけど、レトルトのハンバーグの温め方とか、目玉焼きの作り方くらいは教えてもらったと思う。
幼いながら自分で何かをつくって食べるのは、人につくったものを食べてもらうのは、とても気持ちのいいことだなと思った。

小学4年生になった頃、生活が変わった。
田舎から祖母がやってきて一緒に暮らすことになった。
料理や家事は祖母の担当になった。
祖母はそれまで料理をほとんどしないできた人だった。
理由はよく知らないが、長崎の実家はそこそこの大家族で、料理を作るのは祖母以外の人だった。わたしはおばちゃんと読んでいたが、母の叔母にあたる人だったのか実際の関係はよくわからない。
何にせよ孫との生活が始まって、祖母ははじめてに近い料理をすることになった。
もともとつくれるものがなかったら、テレビの料理番組や料理本に載っているレシピをそのままつくっていた。
それがよかったのか、祖母の料理は新しいものが多かった。
昭和のスパゲティと言えばナポリタンかミートソースしかなかった時代に、祖母がつくる料理はビーフストロガノフとか、舌平目のムニエルとか、カジキマグロのホワイトソースとか、意外にハイカラな料理が多かった。もちろん、おでんとか、煮物もあったけど、ありとあらゆるものをレシピ本通りに忠実につくるのが祖母の味だった。
それまでの母とふたりの生活で、ハンバーグとかカレーとかわかりやすものしか食べてこなかったわたしはかなり偏食で、学校の給食でも食べられないものが多かったのだけど、祖母の料理のおかげで食べられるものが少しずつ増えていった。
苦手だと思っていた食材も料理次第では食べられることを知った。
例えば「なす」。
大嫌いだった。口に入れるだけでおえってなってた。
でも鶏肉のそぼろあんかけで食べた「なす」が「おいしい」って思えて、以降は別の料理でもなすをすんなり食べられるようになった。
いまではおそらく全食材の中で1、2を争うほどなすが好きだ。
味の苦手は好きに変わることをこのとき知った。
むしろ以前食べられなかったものの方が好きになっていくのが不思議だった。
なす、カボチャ、さつまいも、にんじん、しいたけと以前嫌いだったものが、好物に変わっていく。
「苦手」は「好き」の入り口なのかもしれない。
いつのまにか食べられないものはほとんどなくなっていた。

そんな祖母がわたしが大学生の時に大きな病気をして入院した。
家の近くの病院に入院したので毎日お見舞いに行った。
病院の食事がまずくて食べられないという祖母に、何か食べたいものはないかと聞いたら「『およごおし』ば食べたか」と言う。

「およごし」これは祖母がお気に入りの料理で、いわゆる野菜の白和えのことだ。
豆腐とほうれん草などの野菜を和えたもの。
わたしはときどき祖母がつくるこの「およごし」が食べられなかった。
まず名前だ。
なんだ「お汚し」って。汚い。きたなすぎる。
見た目もひどい。
野菜がぐちゃぐちゃになってて、そこに豆腐もぐちゃぐちゃで、これ本当に食べ物?という様相だ。少なくとも当時のわたしにはそう見えていた。
だからこればかりは食べたことがなかった。

その「およごし」が食べたいという。

祖母には内緒で、つくってみることにした。
それとなく祖母に作り方のメモがある場所を聞いて家に帰ってそれを確認した。
そして食材を買いにスーパーへ行く。
ぼんやりしか覚えてないけど、ほうれん草、にんじん、こんにゃく、木綿豆腐あたりの材料を買ったはずだ。
下ゆでをしたりでけっこう手間がかかった記憶がぼんやりある。
こんにゃくを手で触ったのはこのときが始めてだったと思う。
下ごしらえしたものをぐちゃぐちゃに手で混ぜた。
そうか、あの得体の知れない物体はこうやってできあがっていたのか。
自分でつくってみると、正体がわかる。
正体がわかれば、食べられる。
食べたら意外に美味しかった。

翌日、祖母に持っていった。
あまり感情を表に出さない、どちらかというと仏頂面の祖母が顔をぐちゃぐちゃにして喜んでいた。
「すごかね、美味しかね〜」
あとで病室の他の入院患者にも振る舞ったらしい。
そのことで仲良くなったという同室の入院患者さんがのちに家に遊びに来たりもした。孫を連れてきた。わたしよりちょっと年下の女の子だった。マンガだったらその娘とすてきなロマンスでも始まりそうなところだけど、生粋のオタクだったわたしにそういうのは難しかった。

そのあと、祖母が長崎へ帰り、母が家を出て地方に働きに出て、わたしはひとり暮らしをするようになった。
そしてよく料理をするようになった。
なんとなく食べたいなと思ったものを適当につくる適当料理。
インターネットもまだそれほど普及してない時代なので簡単にレシピは検索できないし、何よりレシピを見るのは面倒だった。
ハンバーグって牛だけの方が美味しいんじゃない?って適当につくったら、固くてパサパサで食べられなくて、これをどうしたら美味しくできるのか、研究してそれなりに食べられるハンバーグの作り方を見つけたり、カレーにはありとあらゆるものを入れてみてウスターソースはけっこう神と思ったり、ゲームをやり続けたくて家にこもるときは、焼きそば麺と野菜と豚肉と卵を大量に買ってきて、永遠に家から出ないで5分でつくれる目玉焼きを乗せたやきそばを作り続けて食べ続けたり。
食べるのが自分だけだからいくらでも実験できるし、同じ物をずっとつくっても、つくったものがまずくても誰にも文句も言われないし、そうやって実験改良していくのはなかなか楽しかった。
そういえば祖母がつくった料理の中でも一番好きだったポテトコロッケを再現したくて、どんなふうにつくっていたか記憶を頼りに再現してみたこともあった。
イチからつくると下ごしらえがくそ面倒な上に、それぞれの具材を冷ます時間も必要だったり、こんな面倒なことを毎日やっていたのかと頭が下がった。
そんな祖母も14年前に他界した。
お葬式の悼辞で食べさせてもらった物を思い出す限り列挙して感謝した。
人生に「食べる」ことの喜びを教えてくれた人だった。

わたしが社会人になるのとほぼ同時に地方で働くようになった母は、ときどき地方から帰ってくると、家で羽を伸ばす人になった。
お盆とか正月とか、帰ってくると母はいつもぐでっと寝ていて、ご飯の支度はほぼわたしの担当だった。正月のお雑煮だけは母担当だったけど、それ以外は「腹減った」「何か食べさせて」が母の決まり文句だ。ふつう逆じゃね?と思うけど…。
8年前に母が仕事をやめてからは、月に一回ご飯をごちそうするのが決まりのようになって、どこかで外食するか、母の戻った実家に行って何かご飯を用意するのが定番化した。
いまも施設にいる母を月に一度病院へ連れて行って、その帰りに一緒に外食して帰ることを続けている。

昨日は生きていたらもうすぐ誕生日を迎える祖母を思い出しながら、施設にいる母の面会に行ってきた。
「美味しいわね、これ」って一口食べるごとにはじめて食べたような顔をしながら、口の周りにたくさんプリンをつけて母は笑っていた。

結局、食べ物で家族ってつながってるんだな、ってそんなことを考えた週末だった。

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