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【オリジナル小説】ハギノさん家のハッピー・ニュー・イヤー④

第1話
第2話
第3話(前回)


 やめとけよ。たった五文字を兄が絞り出すまでに三台の車がアパート沿いの生活道を抜け、カップ麺も出来上がるだろう間、私は沈黙を貫いていた。

「既婚者なんかに手ぇ出して、ロクなことにならないぞ」

 耳から入った月並みな警告を一息で鼻から逃がす。

「わかってるって。お兄には関係ないでしょ」

 世間を過剰に騒がせるゴシップの数々が、それを証明し続けてきた。

「関係ねえけど、知って無視もできないだろ」
「じゃあ何? お母さんにでも言う気?」
「そんなガキみてえな真似して母さんの心配事を増やせるか」

 自身がその一つにカウント済みなのは気づいているらしい。自分事すら他人事と同じく無関心な兄が、食い下がるのは予想していなかった。

「だいたいバレたらどうすんだ。職場にだっていられなくなるだろうし」
「どうもこうも、別の学校に飛ばされるんじゃないの。まあ、そうなったら辞めた方がマシかな」

 兄は三口ほど残したコーラを底で回しながら、乱暴にため息を吐く。
 健全な人間らしさからほど遠い部屋で、存外まともなセリフを聞けているのがおかしかった。
 常識と呼ばれる、誰かが作った偏見を掲げるのが専売特許みたいな職に就いているのだ。自分が"外れてしまった"自覚はある。

「あいつ、どう見ても奥さんと別れられるような奴じゃないぞ」
「だろうね。わかってるよ」

 だったら、と言いかけた言葉を結ばず俯いて、愚痴らしくこぼした。

「……馬鹿だろ」

 私はもう十八の子供ではない。淡雪のような期待を大事に抱えてもいなければ、訪れない未来の可能性にすがってもいない。現に先生も、一度だって即席の甘言で私を酔わせようとはしなかった。
 つまり、始めから終わりを見据えている。ただ、その決定打を一日一日と先へ伸ばして、今日はとりあえず見ないふり。そうやって一年が過ぎた。

 人生と同じだ。いずれは死ぬと知りながら、けれど誰だって今日は、明日は、生きたいと望んでいる。異なるのは、目を背けた分だけ罪を重ねている点だった。

 取り返しのつかない場所に足を踏み入れてしまったら、代償を払うばかりで何ひとつ残らない。そういう行為を馬鹿だと、兄は言うのだろう。

「大ごとになろうが向こうの家庭が壊れようが、どうせツグは選ばれないんだからな」

 捨てられるという言葉を使わなかったのは、兄なりの気遣いだろうか。実際に重たい前髪から覗く瞳は、不快感よりもむしろ何かを弔うときに似た悲しげな色をしていた。

「向こうは面倒くせえなとか、馬鹿なことをしたなとか後悔するぞ、たぶん」

 わかってる、と繰り返そうとした声は喉に詰まり音にならない。視線を逸らした先の窓辺は、雪明りで変に青白く輝いていた。

「まあ、それでおまえらが社会的に死ぬのは自業自得だけど、向こうの奥さんが気の毒だよ」

 聞いてんのかと兄が声を低くした。

「聞こえてるよ。ただ、それに関してはふうんって感じで。会ったこともない人に申し訳ないとか、正直あまり思えないし」

 先生はもちろん意図してだろうが、奥さんに関しての話をしたことがない。だから私は、親同士が勧めた二歳年上の女性と見合い同然の結婚をした、という、同僚として得た情報以外は持っていなかった。人となりどころか顔すら知らない。

「何? なんか言いたいことあるの?」
「いや、呆れて返す言葉もわからん」
「あっそ。じゃあ帰っていい?」
「好きにしろよ。ツグが勝手に来たんだから」

 あまりに肩透かしな返答に、膝の力が抜けて立ち上がりながらバランスを崩した。

「お兄ってさ、こういうときにイゲンがないよね」

 すぐに諦めた表情をするから、私たちや母にいいように使われてきたし、きっと上司や部下、過去の恋人にも軽んじられていたに違いない。

「これ以上いろいろ言ってどうするんだよ。昔から俺が怒ったところでなんも聞きゃあしねえし」

 兄は杢グレーのスウェットから毛玉を毟って不機嫌そうに続ける。

「だいたい、人の言葉で動いたところで納得なんかできねえだろ」
「……そうかもね」

 手にしていたのがコーラのペットボトルでなければ、兄も大人になったのだと感心したはずだ。毛玉だらけのスウェットは、大学の頃に私とメグミが送ってあげた安物だった。靴下の親指には穴が空いている。

 みすぼらしい姿の兄に背を向けると、外で降る雪よりもかすかな声が耳に入った。

「楽だよな。自分はクズだって思ってりゃ、どんなことをしてもしなくても『仕方ねえ』の一言で見限れるもんな」

 言葉尻を上げない言い切りは、私から返答の余地を奪った。独り言じみたそれは歪んだ自己防衛を見透かされた気がして、ドアノブを握る力が強まる。

「でも、そういうのってさ、いき過ぎるとどんどん鈍くなっていくぞ」
「何に?」
「人の痛みとか……自分自身に」

 はっ、と乾いた笑い声が出る。振り向きざまに半分中身の残ったペットボトルを兄へ投げつけた。

「知ったような口をきくなハゲ」
「なっ、ハゲてねえだろ」
「遅かれ早かれハゲるんだよ。頭おかしい部屋で一生哲学してろ」

 建付けの悪いドアを無理やり引いて、ダイニングと温度差のない廊下へ出る。

「おいツグミ!」

 声の荒さとは裏腹、緩慢にノソノソと追いかけてきて兄は右手を突き出した。

「持っていけって言っただろ」

 揚げ出し豆腐のタッパーが、ご丁寧に飲みかけのコーラも添えて薄っぺらいレジ袋入っている。

「おまえは昔から言い出したら聞かねえよな。褒めはしねえけどさ、ちょっと羨ましいよ」


 いっそすべてを否定してくれた方がマシだったのに。兄の半端な穏やかさは却って私を冷静にさせ、横たわる現実をありのままに見せつけた。

 築古の二階建てアパートを後にして、春には鮮やかな桜並木が続く目抜き通りを目指す。クリスマス直前の金曜日とはいえ、しょせんは地方の中央地区だ。二十三時もまわると、街はすでに眠り支度をはじめていた。街路樹や電線から滑り落ちる雪の音を聞きながら、暖簾の降りた居酒屋が続く枝道を歩く。

 商店街と住宅街の狭間に位置する公園にさしかかったとき、ふと足を止めた。冬芽だけになったドウダンツツジの垣根に、雪をかぶったバスケットボールが挟まっている。近所の小中学生が忘れていったのだろう。

 指先で雪を払いのけ、ボールを手にした。空気入りは良くない。錆びついたバスケットゴールがひとつあるだけの公園は、止んだばかりの深雪が中途半端に積もり、一歩ごとにブーツの底がぬかるみへ沈んだ。

 ドリブルなどできるはずもないその場所で、膝を曲げながら右足を半歩前へ出す。胸の前でボールを抱えた。何もかもが懐かしい。ふくらはぎの力を太ももから腹へ移していく。肩、そして腕へ。呼吸は短く、跳躍は素早く。

 白くけぶった吐息が消えるより先に、勢いをつけて地面を蹴った。空になった指先が指す方向へ、ボールは緩やかな放物線を描いて飛んでいく。

 そこには意思があり、帰る場所を知っているみたいだった。ネットのないゴールへ吸い込まれたあと、ボールはぬかるんだ地面で鈍い音を立てた。伸ばしたままの右腕に雫が一滴伝う。

 試合だったら三点が入ってくれただろうか。

 大学を卒業してからバスケとは無縁な生活を送っていたので、動きのひとつひとつにぎこちなさがあった。それでも、何万回と繰り返した動作を身体は覚えていたらしい。

 今でも社会人サークルでバスケを続けているらしいメグミに時どき誘われるが、そういう気分にもなれずにいた。
 春に女子バスケットボール部の顧問を任されそうになったときは、本気で退職願を書きかけたくらいだ。

「バスケに関わっていて給料がもらえるなんていいじゃないですか」
 あの頃はそう先生を羨んだけれど、顧問など無給なうえに拘束時間ばかりが長い。
 いいだろー、と合わせて笑ってくれた新米教師より気づけば年上になっていた私は、同じ立場に立ったら先生のような指導ができるだろうか。

 少なくとも、あのときかけてもらえた言葉を言える自信は、なかった。

【続き:第五話↓】

【第一話】


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