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【オリジナル小説】ハギノさん家のハッピー・ニュー・イヤー②

第1話(前回)

「そういえばさあ。お兄が離婚したって、聞いてる?」
「いや知らないけど――痛っ」

 脳が言葉を理解するのと、頓狂な声が漏れるのと、動揺で親指の爪を五ミリも抉ってしまったのは同時だった。

「うそ!? というか、そういえばで話すことじゃないでしょ」

 凶器の爪切りを放り、指を咥えながら出す声は間が抜けている。

「会社も辞めて先週こっちに戻って来たんだってさ」
「待って待って、全部初耳だから。詳しく教えてよ」

 あたしも知らなーい、と電話口でカラカラ笑うメグミとの会話は、彼女ののろけ話で幕をあけ、先月オープンしたパン屋の評判で約十分。防犯カメラまで持ち出して、一円の不足を調べた、という銀行員の都市伝説じみた苦労話が続き、ついでのように兄の話題へとシフトした。

「久しぶりに家帰ったらお兄がいてさあ、夏頃からそういう動きになってたんだって。お母さんたちには言ってたみたいだけど」
「ついに捨てられたか……」
「いや逆逆。お兄から切り出したらしいよ。理由を聞いてもだんまりだから、向こうの両親が怒っちゃったとかで」

 返す言葉もなく、長い呼吸のあと兄の顔を浮かべた。最後に会ったのはいつだろう。ちょうど一年前、今年の年始だったはずだ。もともと口数の少ない兄は、私たちの話に「うん」とか「ああ」とか気のない返事をしながら、啜るように雑煮を食べていた。

 隣にいた奥さん――もう元奥さんか、は私とメグミが気に入っているぴーなっつ最中をたくさん買ってきてくれたし、テキパキと手伝いをしてくれたが、しかしなるほど、確かに二人の睦まじい姿は見ていないかもしれない。

「お母さんが珍しく心配してるの。お兄さあ、精神的にどっかおかしいんじゃないかって。桜町駅の近くにアパートを借りたみたいだから、ツグ近くじゃん? 気にかけてやってよ」
「ええ……おかしいのはもとからじゃないの? やだよ」

 国立大学を出て、大手メーカーの子会社へ就職し、二年前には不釣り合いに美人な女性をつれてきた兄だ。おまけに今年の春には二十七歳の係長という、出世街道も開いて両親を喜ばせた。
 昔から上手に生きているように見せるのが特技みたいなところがあったのに。けれど表面の結果が真実とは限らないみたいだ。

「それにしてもなんで離婚なんか。いい人だったのにね、お兄にはもったいないくらい美人で、バリキャリ? っていうのかな。頭もよさそうだったし」
「さあね、音楽性の違いじゃない?」

 メグミはふざけた鼻声を出した。メイク中らしい。

「バンドか。いや、本当にさ」

 私は義姉が嫌いではなかった。好き嫌いを判断するほど接点がなかった、という方が正しいのか。

「そんなに意外? 別れた今だからこんなこと言えるけど、お兄あまり幸せそうに見えなかったよ、最初から」

 大学で他県に移った兄とは、結婚後も疎遠だった。だからメグミの言葉の真偽を確かめようにも、霞がかかり記憶をたどれない。

「ツグ、覚えてないの? お兄に初めての彼女ができたとき、すっごい気持ち悪かったじゃん。デートのたびに『服はこれでいいか』『髪はおかしくないか』『鼻毛は大丈夫か』『手土産はいるか』って……いるわけねーだろって思ってたけどさあ。いっつもケータイ見てニヤニヤ浮かれてたから、結婚式の真顔が怖かったわ、あたし」
「いい歳してあのままなら、ただのばかだよ。大人になったってことでしょ」
「そうかなあ、ただのばかじゃない? お兄は」

 そうかなあ、とオウム返しの声が数秒前のメグミと同じ響きで、一人静かに笑う。
 けれど、彼女が言うのならその通りなのかもしれない。名前に「一」の字を冠する長子の兄と、次の実りで「次実(ツグミ)」とつけられた私。そして、双子が生まれて慌てた両親の意思が現れた「恵末」。安易なナンバリングをされた私たちは、末子にいくほど洞察力が長けていく、という特徴がある。

「お兄がばかなのは同意として、今のあんたも大概だよ」

 軟体動物みたいに芯のない声で、メグミは私の言葉を否定した。
 平日の午後十時。隣町の彼氏から「トイレットペーパーを買ってきてほしい」との要請を受け、今から買い出しへ向かうらしい。

「なんなの? アホでしょ。今トイレの中でキバってる最中なの?」
「ううん、なんとかかんとかってゲームのイベントが忙しいんだって」
「手で拭け」

 クラクラと視界が揺らめいた。ため息が漏れる。

 高校時代ポイントガードとして4番を背負い、県の準決勝まで部を導いたメグミの判断力は、あまり人を褒めない琢磨先生の折り紙つきだ。それが人生という局面では深刻なエラーを起こし、彼女は二ヶ月前から、自称ミュージシャンのフリーターに入れ込んでいる。二十七歳、マッチングアプリで知り合ったらしい。

「ねえ、あんたの彼のその、なめろう君さ」
「よしろう君ね」
「うん、そいつ。わかってると思うけど、ろくな人じゃないよ」

 肩書については、好意的な言葉で過剰包装をすれば、夢を追う純粋な人だと言い換えられるけれど、ゲームを理由に彼女へトイレットペーパーを買ってこさせる行為は、どうだろう。国語教諭の全力をもってしても、擁護の表現が探せない。

「本当、しょうもないよねえ。そんな理由であたしが来ると思ってるんだよ」

 しかし彼女には今、目にビー玉、頭には綿あめが詰まっている状態だ。

「しょうもないけど、可愛いからさあ。一緒にじゃがりこ買ってくとすごい喜ぶんだよ」

 いまだに消えないエクボが好きだとか、聞いてもいないことをまくしたてる。なにもダメンズ図鑑に載りそうな奴を探してこなくてもよかろうに、とアプリのプログラムを呪いながらも、3回目となる応酬に、今日は半ばあきらめていた。

「あっそ。どうぞ末永くお幸せに。……人生の先輩の言うことは聞いておいた方がいいと思うけど。というか、やだなあ、そんな奴が弟になったりしたら」
「ならないんじゃない? どうせ、よしろう君とは結婚なんてしないしさ」

 は? と息が漏れるだけになった私に、ツグは世間話のひとつであるかのような声色で締めた。

「そういうとこ、ツグは真面目で潔癖だよねえ。今どき付き合ったからって、すぐに将来なんて意識しないよ。ツグも少しは遊んだら? 人生の後輩からのアドバイス。じゃ、マツキヨ閉まるから」

 私の返事も待たずに通話が切れるのと、電話越しからドアの開閉音が響くのは同時だった。

 『人生の先輩後輩』というフレーズは、私たちが互いに気に入っているギャグだ。私は3分だけ、メグミの人生の先輩になる。

「……あきれた」

 遊ぶという単語は、何にかかるのだろう。人生か恋愛か。軽薄な妹の真意を探るのもおっくうで、視線だけをサイドテーブルの上に這わせる。
 
 誕生日とクリスマスのプレゼントとして先生がくれたネックレスが、部屋の照明でシャンパンゴールドの輝きを放つ。ボールチェーンを二重にしたチョーカーで、先端に勿忘草のような天然石がついている。

 大柄で首も太い私に似合うかどうかは深く考えなかった選択も、両親のように誕生日とクリスマスをまとめてしまうところも、先生らしかった。正月も一緒だ、なんておどけたが、そんなものは混ぜないでほしい。

 どうせ似合わないから手首に絡ませてみた。流れるように垂れる金色の光は、真面目さとはほど遠く、清さなど欠片もない。

 深爪になった親指の先に、赤黒い血だまりができていた。昔は不思議と、けがをする箇所まで同じだった。私とメグミの話だ。
 両親さえ見間違えていた私たちが、少しずつ差異を覚え始めたのはいつからだろう。

 色違いの同じ服、同じ靴、同じ鞄に同じ帽子。趣味嗜好が似ていた私たちは身にまとうもの欲しがるもの関心事の類も同じで、けれど今は、服も靴も鞄も帽子も違う。アイプチを続ければ二重になれると信じているメグミと、早々に諦めて雑なアイシャドウだけを引いている私。染髪を禁止されニュアンスパーマで対抗しようとする妹を、お金がもったいないと笑う私は、産まれながらの直毛でだらだらと背中を隠す。

 大人になり離れて暮らすようになって、どうしてかようやく、私たちは別の人間だったなんて、当然のことに納得したりする。

「ねえ、五十嵐先生って、なんか良くない?」
「ええ? やる気のないオッサンじゃん。チビだし」

 思えばそんな些細なズレがはじまりだったのかもしれない。彼女は私ではないともう知っているから、手首で光るプレゼントの出所は、生まれてから妹にする、初めての隠し事だった。

 私も大概なんだよなあ。そうひとりごちた声は夜に溶けていく。

【続き:第三話↓】

【第一話】


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