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永遠の傑作『ジョゼと虎と魚たち』の魅力について語らせて欲しい。

『ジョゼと虎と魚たち』という邦画を知っているだろうか?
恋愛映画の傑作として有名な作品だが、15年以上も前に公開された作品だけに10代では知らない人もいるのではないだろうか。

私にとっては邦画のオールタイムベスト10に入るくらいに好きな作品だ。実は先日まで、渋谷シネクイントの復活2周年記念で『ジョゼと虎と魚たち』のリバイバル上映をしていた。せっかくの機会なので観に行ったが、これが想像以上に素晴らしかった。

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劇場で観たのは今回が初。映画館という映画にひたすら没頭できる空間で観たというのが大きいだろうが、予想を超える感動だった。何でも無いような場面で涙が出そうになったり胸が熱くなったりもした。

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映画の鑑賞法は多種多様あって良いが、
映画館でしか体験できないものもある

ここまで自分が感動するのは何故なんだろう?
いや、私だけでなく多くの人を感動させ、傑作と呼ばれるのは何故なんだろう?今回の記事では、『ジョゼと虎と魚たち』の魅力を改めて考えてみたので、それを語っていきたい。

※がっつり内容のネタバレをしているので、未見の方、興味持った方はまず先に作品を観ることをお薦めします


【作品情報:映画『ジョゼと虎と魚たち』とは?】

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製作年:2003年 製作国:日本 監督:犬童一心

あらすじ:ごく普通の大学生・恒夫がアルバイトする麻雀店では、近所に出没する謎の老婆の噂が話題となっていた。その老婆は決まって明け方に現れ、乳母車を押しているのだという。明け方、恒夫は坂道を下ってくる乳母車に遭遇。近寄って中を覗くと、そこには包丁を振り回すひとりの少女がいた。ジョゼと名乗るその少女は足が不自由で、祖母に乳母車を押してもらい散歩していたのだ。不思議な魅力を持つジョゼに惹かれた恒夫は、彼女の家をたびたび訪れるようになる。

映画.com様参照

原作は、故・田辺聖子先生が1984年に発表した短編小説。
原作を調べた時に驚いたのは、小説内の舞台設定が映画から20年も前ということ。ネタバレになるので控えるが、原作と映画は内容に決定的に違う部分がある。

原作を読むと、よくこの短編からあんな脚本を作り上げたなと感心してしまう。興味ある人は、映画と合わせて原作を読んでみることもお薦めしたい。

【理由①:誰もが経験する恋の喜びと痛みに共感できる】

本作の魅力の一つは脚本にあると考える。今回見返して、改めて脚本の秀逸さを思い知らされた。

まず、序盤の2人の出会いからして面白い。
物語は、恒夫が働く麻雀店での噂話から始まるが、その内容はまるでホラー映画の導入部のよう。本作の内容を知らずに観たら、これが恋愛映画だと思わないだろう。

「大学生の恒夫が、麻雀店の店長の飼い犬の散歩中に偶然出会う」というシチュエーションにも妙なリアリティがある。恒夫のキャラクターはモデルになった人物、シチュエーションがあるのだろう。想像の産物、テンプレ的なキャラクターではなく1人の人間として描かれている。

話の内容もジョゼというキャラクターも一歩間違うとファンタジーになってしまう恐れがあるが、この恒夫というキャラクターが作品に良いバランスと説得力を持たせていると感じた。

本作の脚本を手掛けたのは、様々なドラマ、映画の脚本を担当している渡辺あや。
筆者は渡辺さんが脚本を担当してる作品はとりあえず観る。それくらいこの方の脚本は筆者の心に刺さるのだ(ちなみに、そういう風に思い至ったのは本作と『メゾン・ド・ヒミコ』を観てから)。

しかも本作は、渡辺あやさんの脚本デビュー作なのだから驚きだ。渡辺さんについて語ると記事の主旨からズレるので、紹介程度になるが、本作が名作となり得たのは、渡辺さんの脚本によるところが大きいと述べておきたい。

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『ジョゼと虎と魚たち』が多くの人の共感と感動を呼ぶのは、誰もが経験する恋の始まりと終わりを描かれているから。

本作は、恋の始まりを描いた前半部分と終わりを描いた後半部分に分かれている。前半は、恒夫とジョゼの出会いから2人が結ばれるまで、後半はその1年後の車旅行から2人の別れまでが描かれる。

2人で禁止されてた昼間の散歩に出かけたり、ジョゼの身を案じた恒夫が、職場見学を抜けて会いにいったりと、前半は恋の楽しさや甘酸っぱさが詰まっている。
対して、後半は水族館が閉まっていたときのやり取り、そこからの車での冷たい態度など、燃えてた恋が冷めてしまった後の、終わりに向かう寂しさや虚しさなどが描かれている。
前半と後半で作品の雰囲気が対比になっているのだ。

この2人の姿は、映画を観ている自分達と重ならないだろうか?
多くの人は、人生において初めて付き合った人とそのまま生涯を添い遂げることはない。もちろん、初めて付き合って別れていない幸運な人達もいるだろう。

だが、ほとんどの人は、出会いと別れを少なくとも1回は経験しているはずだ。だからこそ2人の物語は誰の心にも刺さり、共感するものになっているのではないだろうか。

【理由①ー1:作中で描かれる「障害に対する不寛容な社会」】

本作は、恋愛映画としても大変面白いが、他にも名作たらしめてる要因がある。
それはジョゼが足が悪い=障害を抱えているという設定だ。
この設定こそが、ジョゼとジョゼを取り巻く人々との関係が物語に深みを与えている。

ジョゼを取り巻く人々に触れていこう。まず、ジョゼの祖母は、ジョゼの事を「壊れ物」と呼び、人前にすら出そうとしない(近所の人には一人暮らしと言っている)。

障害のある方を人目に出さず閉じ込めるという事例は、昔からあるが(現代でもこういう事をしている家が、実際にあるというのだから驚く)、ジョゼの祖母もそういった「健常者ではない=恥」という感覚を持っている人として描かれる。

恒男の弟、隆司のジョゼに対する態度も、観てて愉快なものではない。ジョゼを見た時に、まるで珍しいモノを見たかのような反応や、恒夫と話すときもジョゼを蔑視してる印象を受ける。隆司自身に悪気がないからこそ厄介だ。

ジョゼに恒夫を奪われてしまう香苗のキャラクターは強烈だ。香苗は、大学で福祉を専攻しており、将来も福祉や介護に関連した職種に就きたいと考えている。だからこそ恒夫もジョゼの事を相談する。香苗は一見するとジョゼのような境遇の人に対して人一倍理解がある人物のように思われる。


しかし、恒夫をジョゼに奪われてからは態度が一変。ジョゼの足の悪いことを「武器」といい「障害者のくせして、私の彼氏を奪うなんて…」と恨み節を炸裂させるのだから恐ろしい。

『最強のふたり』、『エール』などのように障害をネタに軽口をたたき合ったりする関係もある(というか、フランス映画はそういう作品が多い)が、この2人は当然そんな関係じゃない。この場面は香苗のジョゼに対する最大限の嫌味でありもはや悪口だ。

香苗というキャラクターを通じて見えてくるのは、表面上には見せない心の中に隠された本音ともいうべき差別感情だ。ただ、この香苗の変わりようと、女同士の闘いは、物語的には盛り上がる見せ場となっていて面白いのも事実である。

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こうしたジョゼを取り巻く人々の描写から、障害者に対して不寛容な社会という構図が見えてくる。

2020年の現在からすると、障害者に対するこういった偏見や意識はやや古いようにも感じられる。映画が公開してから17年、こうした障害者への差別意識は変わりつつあるようにも思える(偏見は根深いだろうが)。

ただし、劇中の時代においては、障害に対する偏見や差別意識は強く、それは主人公の恒夫も影響を受けているのである。そのことを次で述べたい。

【理由①-2:恒夫の「僕が逃げた」に込められた意味】

物語終盤、ジョゼと別れた後に恒夫のモノローグが流れるが、その中での「別れの理由は、まあ色々。てことになっている。でも本当はひとつだ。僕が逃げた」という台詞。

この言葉には様々な意味が込められてると思うが、筆者は大きく分けて2つの意味が込められていると思う。

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①のジョゼの性格・行動についていけなくなったという点は、単純に恒夫とジョゼの性格の不一致と言い換えることもできる。

どんな素敵な恋人でも付き合って1年も経てば、お互いの合わない面、嫌な部分というのが目についてくるものである(そこを受け入れた関係性が、愛だと思うが)ドラマチックな付き合い方した2人だったが、恒夫はジョゼの強烈なキャラクターについていけなくなったのではないだろうか。

劇中で、そのことを象徴してるであろう場面がある。それは2人が車旅行で水族館に立ち寄ろうとする場面だ。この時、水族館は休館しており楽しみにしていたジョゼは恒夫の背中で泣き叫ぶのだが、そんなジョゼにうんざりしたかのような、恒夫の顔がとても印象的。

そして、その後の車中での冷たい態度。この後、恒夫が法事に行かない事を報告する場面に繋がる事を考えると、この時、恒夫の中では「ああ、俺には(コイツと一生を添い遂げるのは)無理だな」と悟ったのではないだろうか。

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そして②の障害を抱えたジョゼと、生きていく覚悟がなかったという点は、①-1で述べたジョゼが障害を抱えてるという事実と直結する。この事がジョゼと別れる事を後押ししたのも間違いないだろう。

劇中にこんなやり取りがある。車からジョゼを下ろして背負う恒夫。背負いながら、キツイからジョゼに車椅子を買うように言う。それを拒むジョゼ。その後、恒夫は電話で弟に法事に行けないことを報告する。

この場面はとても象徴的で、恒夫がジョゼと生涯寄り添って生きていくのを怯んだかのように見える。ジョゼとの別れの後、恒夫は香苗とよりを戻す訳だが、そこで泣き崩れる場面がある。

これは愛する人と別れて悲しいという感情よりも、覚悟のない自分の弱さや情けなさへの感情も含まれているのではないだろうかと筆者は思う。

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【理由②:池脇千鶴、妻夫木聡の瑞々しい演技が見事にハマっている】

この映画が名作である理由の一つは、キャストの演技力とハマり具合が素晴らしいことが挙げられる。

ジョゼを演じた池脇千鶴は言わずもがな。そもそも本作は、池脇千鶴が主演をつとめた『金髪の草原』(2000年)の犬童一心監督、久保田修プロデューサーが池脇千鶴を想定して誕生した企画だ。

犬童一心監督は、その前に市川準監督、池脇千鶴主演の『大阪物語』(1999年)で、シナリオを担当しているが、この時から、池脇千鶴のことをすごく良い女優と語っている(『シナリオ第55巻第4号』参照)今作では、不器用ながら恋する女の子の姿を見事に演じている。(関西人の友人曰く、ジョゼの関西弁のイントネーションはリアリティがないらしいが)

池脇千鶴①

次に恒夫を演じた妻夫木聡。これが褒め言葉になるか分からないが、妻夫木聡は良くも悪くもこういう軽薄な役がハマる。恒夫の悪気のない軽いノリが絶妙で見事に今どきの大学生を体現している。

妻夫木聡といえば、個人的に筆者が好きな場面がある。それが、最初にジョゼ宅に立ち寄る場面。ジョゼの祖母宅で朝ごはんを食べるのだけど、この時の食べ方が凄く美味しそう!今回もスクリーンで観なおしたが、この場面でお腹が減ってしまった。

妻夫木聡②コピー

そして香苗を演じるのは、まだ本格的にブレイクする前の上野樹里。良い意味で垢ぬけてない女子大学生の雰囲気がすごくハマっている。特に上でも挙げた恒夫を奪われた後のジョゼとの女同士のバトルは見もの。

上野樹里①

そして今回、観返して改めて気付いたが、本作には本当に様々な役者達が出演している。恒夫のセックスフレンドのノリコは、様々なテレビドラマや映画に出演している(最近では『愛がなんだ』(2019年)にも出演していた)江口のりこ。ジョゼの家のバリアフリーを担当する業者に、自身も監督をつとめる板尾創路。ジョゼと同じ児童福祉施設出身の幸治に新井浩文

チョイ役だが本屋の店員に荒川良々。お笑い芸人のライセンスも出演している。これだけのキャストが出演しているというのも見どころの一つといえるだろう。

【理由③:犬童一心監督の演出、くるりの音楽が見事に調和】

素晴らしい脚本、キャストのハマり具合。これだけでも本作は素晴らしいのだが、本作の良さを更に引き立てているのが、犬童一心監督による演出、くるりの音楽だ。

犬童一心監督は、今や日本の第一線で活躍する名監督だが、フィルモグラフィーの中では、本作や『メゾン・ド・ヒミコ』(2005年)を監督しているこの辺りの時期が一番好き。本作のカメラワークも良いし(海辺での手持ちカメラで撮影しているであろう場面が良い)、フィルムならではの、淡さや柔らかさが本作の雰囲気とマッチしている。

本作のサウンドトラックを手掛けたのは、本作の舞台と同じく関西出身のくるり。本作の雰囲気にくるりの音楽が見事に合っており、観ている側の感情を煽り立ててくれる。『ハイウェイ』も好きだが、『飴色の部屋』が格好いい…!

そして、今回本作を観返して改めて気付いたが、オープニング映像を担当しているのは、作家・イラストレーターのD[di:](ディー)(ちなみにD[di:]は、映画では自分の大好きな『ドニー・ダーコ』(2001年)のノベライズの挿絵も担当しており好きなアーティストだ)

さらに、本作の衣装を担当しているのは伊賀大介。どうりで恒夫もジョゼも何気ない格好なのに、どことなくお洒落さを感じるわけだ。しかし、こうして改めて本作を観てみると、当時の時代の旬の人達によって本作が作られていた事が良く分かる。本作は傑作になり得るべくしてなり得た作品ともいえるだろう。

【まとめ】

いかがだっただろうか。今回、記事を書くに辺り、作品を調べてみたが、改めて本作の素晴らしさ、奥深さを知ることになった。自分がこの映画を観た時の年代というのも大きいのだろうが、これからも本作は自分にとって特別な作品になる事は間違いないだろう。

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