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『野ブタ。』再放送で気づいた『ブラック校則』までの14年の“イジメ”の変化

暗いニュースが溢れる中で、強烈な光だった。
15年前の『野ブタ。をプロデュース』が、特別編として再放送される、という知らせ。
このタイミングで、土曜22時という時間であの名作が地上波放送されることは、とても意味のあることなのではないか、と心が踊った。

“ジャニーズ”と“木皿泉”という自分の人生の2大指針となっているものの奇跡の交差。
僕自身、10代の頃からジャニーズを入り口に色々なエンターテインメントに触れたことで、今の仕事ができているのだけれど(『ジャニーズは努力が9割』という本を書いたり、映画や演劇などのエンターテインメントを紹介するサイトの編集長をしています)それはジャニーズそのものや、彼らが出る作品に色々なことを教えてもらってきたからである。

深いメッセージもジャニーズタレントというポップな光が当たることで、多くの人に伝わるようになる。
ジャニー喜多川は、舞台を通して「戦争はよくない!」というメッセージをタレントたちに表現させ続け、若い観客にも戦争の恐ろしさを伝え続けた。
『野ブタ。』の2年前に同じ土曜9時枠、同じプロデューサーによって放送された木皿泉脚本の大傑作『すいか』が(視聴率的には)広く届いたとは言い難かったことを考えると、木皿泉脚本という“深さ”がヒットドラマになったことは、そんなジャニー喜多川イズムをテレビで体現することに成功した喜ばしい例だったようにも思える。

もちろん、ただ広く見られただけではなく、社会的な意義も強い作品だったと思う。
2018年のカンヌ国際映画祭の授賞式で審査員長のケイト・ブランシェットは「invisible people(インビジブル ピープル)」の存在に光を当てることがその年の映画祭の大きなテーマだった、と話し、
是枝裕和監督の『万引き家族』にパルムドール(最高賞)を贈った。
invisibleとは「見えない」という意味である。
映画やドラマといったエンターテインメントの役割のひとつが、“(実在はするけれど)見えていなかったものに光を当てること”だとするならば、スクールカーストという言葉は存在しなかったけれど、確実に教室内での格差は存在した2005年に、それをドラマの中で表現し、“見えるように”した『野ブタ。』は紛れもない傑作だ。

……と、『野ブタ。』と木皿泉作品及び、同じ河野プロデューサーの手によって作られた『泣くな、はらちゃん』といった作品たちの魅力に関しては、語りだすと本1冊分くらいになってしまいそうなので、ここでは割愛させて頂き、野ブタの再放送が終わってしまったら、次に見てほしい大傑作を紹介したい。
(「いやそもそも『未満警察』の放送延期枠なのだから、野ブタの後は『未満警察』でしょ!」というツッコミが入りそうですし、実際見ますけど、文脈的な意味で紹介させて頂きます)

それが『ブラック校則』である。
昨年の10月から、映画・日本テレビ系列の深夜ドラマ・Huluでのオリジナルストーリーと大展開されたこの作品。
Sexy Zoneの佐藤勝利とKing & Princeの髙橋海人が出演し、脚本こそ木皿泉ではないものの、プロデューサーは『野ブタ。』の河野英裕氏が務めたことから、製作が発表されたときには“令和版「野ブタ。をプロデュース」”と喧伝された。
僕は各所で2019年の映画の中で最高傑作だと話したりしているけれど、どうもアイドル映画だと捉えられているのか、ジャニーズ好き以外はあまり見た人が多くなく、なかなか『野ブタ。』ほどの大ヒットとは言えないようである。

ただ、この作品が『野ブタ。をプロデュース』から14年後の現状を描いていることは確かで、しかもそれがジャニーズに興味がない人も含めた、すべての今を生きる人に刺さるものになっているので、2作品を比べながら少し紹介したい。

2005年の『野ブタ。』で描かれたスクールカーストは、2019年の『ブラック校則』でも依然として残っていて、いやもはや、当たり前のものとして、学生たちの間に存在している。

佐藤勝利演じる小野田創楽(そら)は、スクールカーストは下の方。一方で、髙橋海人演じる月岡中弥は、スクールカーストには属さない、フワフワしたように見えるタイプで、その点では(この振り分けが超雑であることは認識してるけどわかりやすくいうと)『野ブタ。』でいう、山下智久演じる彰に近い。

『野ブタ。』では、制服に落書きをされたり、トイレで水を浴びせられたりと、壮絶な生徒同士のイジメが描かれた。『ブラック校則』ではそのような、直接的な生徒同士のイジメ描写はあまりない。
イジメが見えにくくなっている、という社会的な変化もあるだろう。イジメはわかりやすく学校ではおこなわれず、撮った動画をネットにアップするぞ、と脅すといった形で、見えにくくなっているのかもしれない。この物語の展開の中でも動画が鍵を握っていたりする。

だが、最も大きな変化はここである。
『ブラック校則』では、“イジメ”をしてくるのが大人たちなのである。
イジメという言葉で括るのは雑すぎる、教育的指導である、という声も聞こえてきそうだが、ほっしゃん演じる教師が、生徒に髪染めを強要したり、実際に暴力をふるったりする姿は、イジメであると言っていいだろう。むしろ、権力を悪用している分、タチが悪い。
校長を演じるでんでんは、園子温映画のテンションで出てくるので、人を惨殺しそうな威圧感である。

これは、現実の世界そのもの、である。『ブラック校則』自体が、実際にあった生徒への髪染め強要問題に着想を得たものだというし、ちょうど公開された頃、教師が教師をイジメている事件が報道されていた。
2018年に放送され、この春映画版も公開されたNHKドラマ『ワンダーウォール』の脚本家・渡辺あやはタイトルのもとになった、大学の事務室の中に学生を隔てる大きなついたてが立った、という話についてこう語っている。

「壁を一つ立てることによって、対話の大切さそのものを否定してしまっているんです。しかも、権力側である大学が、象徴的な態度として学生にそう示したということですよね。それは、大人の質が下がったということではないかと。またそうした劣化は、今あらゆるところで起こっているように思うんです」(BRUTUS 2020年5月1日号)

大人の劣化。『ブラック校則』を見ていると、その言葉はより深く入ってくる。
では、どこかに理解ある大人はいないのだろうか?
学園ドラマの中には、必ずといっていいほど、理解ある大人がいるはずだ。
例えば『野ブタ。』の中でそれは、夏木マリ演じる教頭先生だった。

『ブラック校則』の中にも、理解ある大人は存在する。
薬師丸ひろ子演じる、学校の掃除をする用務員さん、トリプルファイヤーの吉田靖直演じる若い先生、光石研演じる工場の作業員とそこに集う外国人労働者たち――。

誤解を恐れずに言えば――

理解ある大人が、社会的には弱者なのである。
教頭先生という校内で偉い人でも理解者だった14年前の『野ブタ。』に比べて、2019年の理解ある大人は、立場的に弱い人たちなのである。

その一方で、ほっしゃん演じる先生は教師の中では立場のあるほうだし、校長は学校の悪い部分はひた隠し、いい部分だけを切り取って対外的に広報するのに必死だ。
そう、ヤバい奴が権力を握っているのだ。


ただ単に、イジメっ子を改心させればなんとかなった14年前に比べて、今、倒さなければならないのは、立場はあるが劣化している大人たちであり、そしてそのヤバい大人たちに権力を与えている制度そのものだ。
だからこそ、この作品は主人公たちが、校則という“自分たちの生きる世界を縛るルール”を変えようとする話になっている。
それに対し、既得権益にすがりつく“社会的に強い”大人たちは「お前たちのためだ」という、一見正論に見える論法や、権力を振りかざす“圧政”で対抗してくる。

だからこそ、純粋に革命を起こそうとする高校生と“弱い立場の大人たち”が、ドラマの中では光る。弱さはときに、大きなパワーを発揮する。

その美しい革命の行方はぜひ実際に『ブラック校則』を見てほしいのだが――僕もこの機会に家でドラマ版とHulu版を見返しながら感じた。

本当に美しい心を持ってる人は、社会的に力を持てていないのではないか――。
ドラマを一旦消して、再びテレビをつけてニュースを見ても、そう思った。

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