見出し画像

まず、みなさんに、これだけは分かっていただきたい

先日、障害者施設を元職員が襲うという誠に痛ましい事件が発生しました。


罪を憎んで人を憎まず、この言葉を使うことを許されるならば、まず罪を憎み犯罪を犯した人に憎しみの感情を持つことは慎んでいただきたいのです。

使い古された言葉になってしまう様な気もしますが、どんな犯罪だろうと犯していいはずはなく、とにかく殺人などは以てのほか、人に危害を加えるなどということはあってはなりません。



私は、犯罪者を許してほしいと訴えたいわけではなく、彼の立場に寄り添って見る見方も少しはもっていただきたいということです。

既にインターネット上では、「許されるべきではない」「いったい奴は何様なのか」「救いようがない」という様な文章がTwitterをはじめとした発信サイトやニュースサイトのコメント欄で散見されます。

しかし、犯罪を犯した者を袋叩きにしていいというわけではないという意見・考え方も、一文であるはずです。

「比較をしていい話ではない」とお叱りを受けることを承知で書かせていただけば、昨今の世間を騒がす犯罪行為や犯罪まがいの事を起こし、マスコミに取り上げられると「許してはならない」という雰囲気が蔓延し、完膚なきまでに叩きのめすという感情が盛り上がる風潮があります。

そして、恐ろしいほど‟加害者”を攻撃し、問題の根幹には目が行かず取り上げられる人物に全ての罪を被せて、気のすむまで叩いて反省の色を確認したものから1抜けたという様に人が離れて、ある程度気が済めばお構いなし、許さない人だけが「一生許さないからな」という道を外れた者にはどこまでも制裁を与え続けるという事は起きています。

「加害者には何をしてもいい」という、何か恐ろしいイジメの様な、それよりも遥かに恐ろしい力が動いています。

どんな犯罪も、「罪は罪、大きいも小さいもない」という考えがありますが、これは「小さい犯罪を犯した者などより、大きい犯罪を犯した者の事を優先させろ」という風潮に対して、小さいからといって軽視するべきではないという考えから来ていたはずなのですが、最近は違う様です。

罪を犯せば、どれだけ攻撃してもいいというのは、私の記憶ではインターネットが普及しだした2000年代半ば、「ムネオ事件」「ホリエモン事件」の頃からだと思います。

タレントの不倫事件、政治家の不祥事など、こういった風潮に辟易し出している一部の心ある方々が、この風潮に異を唱えていました。

しかし、凶悪犯罪が起きると、それまでの意見を覆して怒りを表現して″加害者”攻撃をする。攻撃の対象や怒りの沸点が違うだけで、やっている事は同じです。


そして大体が、事件を発端として、所謂「自分の正義」で攻撃をしていろいろ意見を述べる。そして問題が違うところに移り、関心が損なわれています。本当に考えなければならない問題に対しては、目が反らされています。

今回あらためて感じたのは、一方的な「正義」「綺麗」を押し付けていて、寄り添って相手の立場になってみるという事が随分と無いという事です。
綺麗事で片付けられない、悲しくも複雑で理不尽すぎる事が福祉の世界には随分と横行しています。現場で働く人々は、それだけ過酷であり報われない日々を過ごしています。

また、みなさんの身近には障害者の方はいますでしょうか。

街で奇声をあげる人や、不自由に移動している方とちゃんと向き合えていますか。

精神疾患を抱えた友人・知人と疎遠になっていませんか。



事件を起こした犯人が、元は犯行現場となった施設の職員と聞いて、正直「なるべくしてなったのではないのではないか」と悲しくやるせない気持ちになりました。

そして同時に、もし自分が勤めを続けていて、精神的に追い詰められたり、施設に適応せずに追放された時、「自分がああならない自信があったか」と聞かれて返せない自分に恐怖を感じました。

先にも触れましたが、私は、社会の「執拗に加害者を攻撃する」風潮と今回の事件は繋がっていると思います。とにかく社会が自分の中にあるストレスや苛立ちを発散することが出来ず、それを‟弱者”への攻撃に変換しているという事です。
犯罪者がマスコミに取り上げられ、‟弱者”へ転落するとそれを一斉に攻撃する。とにかく社会が、攻撃対象を探して次から次へと見つけては攻撃をする。これは、言いたいことを言うという事が出来ず、人々が日々ストレスを抱えて、その発散の場所に選んでいるという背景があると考えられます。

街ゆく人々が、ひと昔では考えられなかった、ベビーカーを押す妊婦さんや白杖を使う盲目の方を恫喝したり、高齢者や小さな子どもさんや動物など抵抗出来ないものに暴力を加えたり、少数派を糾弾する光景など目撃することが少なからずあります。また、それが大きな事件になり、その加害者がまた攻撃される。
‟弱者”という表現を使うことに対しても様々なご意見があるでしょうが、偏に‟自分より弱い標的”を攻撃する流れは、もはや一部の犯罪者だけの問題ではないと考えられます。

施設を辞めた彼は、考えてしまったのではないでしょうか、彼らが自分より弱いのではと。
そして彼もまた、行きどころのないストレスを社会や或いはその施設内で受け続けていたのではないでしょうか。
福祉施設は、利用者さん同士でも職員同士でも、或いは利用者さんと職員同士でも複雑な人間関係があり関わり方をします。


私が勤めていたのは、知的・精神の障害をお持ちの方の自立支援を目的とした施設でした。

地方都市にある、設立10年弱でグループホームとB型就労施設を運営していました。

あの頃、それまでは普通に生活をしていた方がふとしたことから事故にあって知的障害者になったり、統合失調症を発症してそれまでの生活が一転して施設に入所したという事を切に学びました。つまりは、いつ自分の身に障害が降りかかるか分からない、明日自分がこの施設に世話になるのかもしれないと考えながら従事していました。
また、生まれてから児相に保護されて、気付いたら精神障害の認定を受けて、行く所がなく入所した方もいました。

そういう方と生活をして気付いたのは、もしかしたら自分は被害者にも加害者にもなっていたのではないかという、妙な気分になりました。



ここから記載するのは、2016年夏現在、運よく何事もないまま生きていられる、私が見聞きして就労をした福祉業界の実録です。

こう書きながら、私も明日は被害者、加害者、当事者になってしまうかもしれません。それをご了承の上で、お付き合いいただければ幸いです。

皆さんもそうですよ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?