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7.6 異邦人~フェズ

巡礼も残り8日――というところで、こんなことになろうとは。やはり旅は予測不能。だから面白いと言ってみる。

旅の開始から3ヶ月弱、このタイミングで「やってしまった」というか「やられてしまった」。

場所はフェズ。迷宮都市と呼ばれるこの街の旧市街はメディナの中でも特に広大で、めちゃくちゃ複雑に入り組んでいる。東西南北見境なく張り巡らされた路地、そこにひしめく土産物屋、露店、地元民のための野菜市、スパイス市、集う商人、顧客、野次馬、遊ぶ子供の笑い声……。道は前後左右だけでなくアップダウンまで備えていて、1分歩いただけで自分がどこにいるかわからなくなる。いま自分がどっちを向いていて、ここは一体どこかなのか。フェズ旧市街は、世界一と言われるその規模感から世界遺産に認定されている。

私がフェズで予約した宿はその旧市街の中にあった。リヤドというかつての個人豪邸を改装した古民家ホテル。私はスマホで位置を確かめながら宿を目指していた。バスターミナルのある新市街から歩いて1時間、すでに汗だくで意識は朦朧、早く宿についてシャワーを浴びたい。しかし迷宮は私の想像を超えていて、Google mapでも細かい路地は表示されないし、それゆえナビの指示もワンテンポずつずれていく。そしてそのワンテンポのずれが致命傷となってさらなる混沌を呼び寄せる。

すっかり迷って途方に暮れていた私に若い男が声を掛けてきた。「ジャパン? ニーハオ! どこ行くの? モスクならそっちじゃないよ」。私は素直にスマホの画面を見せた。「それならこっちだよ、ついてきな」。私は男の言葉に素直に従った。男は自分はこの地域の生まれで、メディナの道は知り尽くしていると話した。気さくで人懐っこいモロッコ人らしい青年だと私は思った。

一緒に歩いたのは10分くらいだろうか。「ここだよ」と彼が立ち止まった建物の上方に私が探していたリヤドの看板がかかっていた。確かにこれは自力では見つけられない。私は彼に礼を言って中に入ろうとした。

「ねえ、お金は?」

その瞬間「やられたー」と思ったが、もう10分近くいろいろ話し、実際案内してもらっている。私は昼飯代くらいになる20ディルハムを渡したが、彼は「そんなんじゃ足りない、100ディルハム!」と突き返してきた。私は急に疲れがあふれ出すのを感じた。50ディルハムを押し付け、踵を返す。後ろからはこちらを罵る声が聞こえてきたが、私はそれを無視した。そのままホテルに入っていった――。

こんなこと、旅先ではよくある話だろう。私が彼に渡したのは日本円で750円程度で、ぼったくりというほどでもない。しかしそれは私の心に影を落とした。些細な出来事のはずなのに、私はそこからダークな世界に滑り落ちていった。

それには前フリのような出来事が関係している。

以前このnoteで書いたスペイン・レオンでの深夜教会案内事件。巡礼者によかれと思って教会を案内してくれた神父を私は最後まで信じられなかった。ずっと警戒を解かず、彼を疑いの目で眺めていた。しかし彼は純粋な善意の人だった。私はそんな彼を最後まで疑い続けた自分を恥ずかしい人間だと思った。臆病で姑息だと思った。

それ以来、私は意識的にせよ無意識的にせよ、人を信じるという姿勢で旅を続けようとした。世の中そんなに悪い人はいない。みんなリュックは前に持てとか日本人はふっかけられるから用心しろとかアドバイスをくれるが、はたして世界は悪人ばかりか? それはこっちがそういう先入観で見てるからそう見えるだけではないのか?……

ということで、ここまで私はスペインの人に対しても、ポルトガルの人に対しても、モロッコの人に対しても、なるべく性善説で接しようとしてきた。そして実際多くの善意と親切に恵まれた。

しかし当然のことながら世の中はそんな甘いものではなかった。私はこのフェズの迷宮でストリートキッズに足をすくわれてしまった。

それは実際の被害としては大きなものではなかった。だが私の心を支えてきた小枝のようなものがポキッと折れるきっかけにはなった。

私はまたわからなくなってしまった。人を、何を、どこまで信じていいのか。「全振りで信じる」としてきた判断基準が覆されたことにより、これまで抑え込んでいた疑心暗鬼が私の中でまた暴れはじめた。

たとえば外に晩飯を食べにいこうとすると、リヤドの主人が「もうこの時間やってる店ないよ。でも私の知ってるとこならやってるよ」と案内してくれる。本当に他の店はやってないのか? その店と裏でつながってるんじゃないか?……私は主人に疑心を抱く。メシの味などわからない。

路地を歩くときは、「もう絶対だまされないぞ」と完全にプロテクトモードになっている。通りにいる子供や老人、誰もが自分を狙っているように感じられる。立ち止まってGoogle mapを開くなど、ツーリスト的なスキを見せたらつけこまれるだけだ。だから私はスマホを耳に当て、誰かと苛立たしい商談でもしてるようなフリをして歩く。俺に話しかけんなオーラを放ち、肩を怒らせ、一人芝居しながら走り抜けていく。

だが、またも後ろから「ジャパン、モスクそっちじゃない!」と声がする。何人かの足音がついてくる。それは私を本当に心配してか、カモを見つけたということなのかわからない。NO! No THANK YOU! I am OK, OK, OK!……恐怖が私の背を走る。私は本当にモスクなど目指していない。しかしホテルに戻る道がどれなのか皆目見当がつかなくなっている……。

ロクに準備もせず異国をずかずか歩き回り、あんたは怖いもの知らずだと時々言われる。そういう側面もあるのだろう。しかしその一方で私には神経症的な持病があり、ストレスや疲れが溜まると神経過敏を発症する。不安を察知するアラートがあたりかまわず反応しはじめる。

突然空を埋める演歌のようなコーランの響き。灼熱の太陽。不可解なアラビア文字。絶望的なラビリンスの魔窟。さっき片目が白濁したホームレスがいたが、今度は下半身のない老人が私に向かって手を伸ばしている――。

迷宮をさまよっているのはリアルだけでなくマインドもだ。何事も慣れる、もう少しここにいればこの国にも慣れると思ってきたが、もしかして私はモロッコと根本的に合わないのかもしれない。ここは私のキャパシティを超えているのかもしれない。

モロッコ滞在あと4日。巡礼、最終盤でこんなクライシスにぶつかるとは。


ちょっとふり向いてみただけの異邦人。こうしてみると山頭火の自由律俳句みたいですね。「うしろすがたのしぐれてゆくか」「ちょっとふり向いてみただけの異邦人」。








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