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「君たちはどう生きるか」と夏目漱石とニーチェ

また「君たちはどう生きるか」を見てきた。2回目だ。1回目で考察したことの確認のために行ってきたのだが、また改めて考えさせられることがあった。そこで、追加の考察をしてみたい。

なお、本記事は映画をすでに見ているという前提で書いていきますのでご了承ください。

大叔父は夏目漱石

塔に籠り、最後は主人公に決断を迫る大叔父——彼はだれなのかについては議論百出である。そのいずれも一要素としては含まれているのだろうが、私は、大叔父は夏目漱石だと思った。

理由の第一は顔だ。後半の老け顔の大叔父の顔は、病に冒され衰弱した夏目漱石の顔に似ている。

また、大叔父が塔を建設してそこに籠るようになったのは1900年あたりのことらしく、1900年といえば夏目漱石がロンドンに留学し、部屋に篭って書物を読み漁っていた頃のことだ。作中、「頭のいい大叔父が本を読みすぎて頭がおかしくなった」と言われていたが、このエピソードは露骨に当時の漱石を思わせる。

さらに漱石は帰国後に「倫敦塔」という短編小説を書いており、この作品の構造は「君たちはどう生きるか」に似ている。「倫敦塔」は留学中の漱石が磁石に吸われるように倫敦塔に入り込み、そこで英国の歴史にまつわる幻想を次々に見ていくという筋立てだが、「君たちはどう生きるか」はこの構造を宮崎駿の人生、あるいは近代日本のコンテンツの歴史へと移し替えたものだろう。

調べたところ、宮崎駿はポニョを制作していた頃から夏目漱石に傾倒していたそうだ。ポニョの主人公「宗介」の名前は漱石の『門』の主人公「宗助」から採られているようである。そこから今作に至るまで宮崎駿と夏目漱石との対話は続いており、それが大叔父というキャラクターに結実したものと思われる。

ヒミと真人とニーチェ

一方、主人公真人と母親ヒミには哲学者ニーチェの影が見え隠れする。

ヒミは火を操る。これは拝火教とも呼ばれるゾロアスター教を連想させる。ゾロアスターのドイツ語名はツァラトゥストラである。ニーチェのもっとも有名な著作の名だ。

また、真人(マヒト)の名前はドイツ語のMacht(力)に由来していそうだ。こちらはニーチェの有名な概念「力への意志(Wille zur Macht)」を連想させる。

洋服を着て、洋館に住み、パンを焼く。あの母子は生活様式も周囲に比べヨーロッパナイズされている。彼らは太平洋戦争より少し前の西洋世界の象徴なのだろう。そこにはもうすでに、西洋の伝統の破壊者たるニーチェがいた。

「対決せよ」というメッセージ

以上の考えのもとに「君たちはどう生きるか」のクライマックス——大叔父と真人との対話——を思い返してみると、それは夏目漱石とニーチェとの邂逅に思えてくる。つまり、西洋と東洋の衝突と、近代の価値観の崩壊という、二つの大変化の交錯だ。

一般的には夏目漱石とニーチェは並べて語られることは少ない。私も今回考えてみるまで何も知らなかった。しかし、漱石はニーチェの著作の翻訳にも関わり、蔵書のツァラトゥストラには膨大な書き込みを行っていたようだ。考えてみれば、西洋の文芸・思想と格闘していた漱石がニーチェに無関心であるわけはない。

おそらく宮崎駿も漱石を読む中でそのような二人の巨人、あるいは精神的格闘者の衝突を目撃し、それを今回の映画に盛り込んだのではないだろうか(私は未読だが、宮崎駿の愛読書である『草枕』に何かヒントがありそうである)。

こうしたことから敷衍して考えると、今作「君たちはどう生きるか」には「格闘せよ」とのメッセージが読み取れる。まさに今、漱石やニーチェの時代に匹敵する巨大な変化が訪れており、そこでの生き方を迫られているのだ。

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