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少年少女主義の楽園を考える。-vol.1-

「近親相姦の禁じられている現実の世界では、娘をもつことの意味はまったくないのである。」

『少女コレクション序説』インセスト、わがユートピア



 先日はどうも気が狂ったようで、ロリィタ映画を観ては、ああじゃない。こうじゃない、と理想の少女を追い求めていた。悪戯好きで、でも性愛には目覚めていなくて……。
 いや、そもそも理想の少女像って一体どんなだ。




プロローグ



⚫︎少年少女主義について

 少年少女主義という言葉を私が最初に聞いたのは、『トーキングヘッズ叢書No.88 少女少年主義~永遠の幼な心』からだが、Googleで検索してもこの商品ページしか引っかからないのでどうやらこの言葉はこの本で使われている造語的なものらしい。
 私は少女少年よりは、少年少女の方が言葉の運びが良いんで少年少女主義と呼んでしまっているが、あまりそこに意味は含ませていない。

 言葉の意味はそのまま、少年少女であることにこだわることだ。
 大人になっても子供に執着すること、それは自身が子供でありたいという願いに限らず、大人になった自分から見た子供へのフェティシズムもそれにあたる。
 特にこれといった定義はない。ただ、少年少女に囚われた大人たちのための言葉だ。
 『トーキングヘッズ叢書No.88 少女少年主義~永遠の幼な心』を開いた見開きには、セーラー服の少女を背にこう書かれている。

 人は成長して大人になる。だけど、大人になるって、どういうことなのだろう。身体が成熟すれば大人になるのか?
 「大人」と言われる年齢になっても、少女であること、少年であることにこだわる者たちがいる。
 少女であったとき、少年であったときの思いを抱え続け、もしくは、少女である存在、少年である存在への憧憬をあからさまにし、それを自己表現の糧にしている存在。
 そんな「少女主義者」「少年主義者」たちの世界を多様な観点から見つめてみよう。


⚫︎子供への憧れ〜過去への固執と成長への拒否反応〜

 J-REXXXと紅桜の曲に『MY TOWN』というのがある。
 そこには「昔は大人に憧れたけど、今じゃガキに憧れている」というリリックが残されている。

 私たちが少年少女主義に陥るとき、子供自体へのフェティシズムを感じるだけでなく、成長への強い拒否反応が起こったりする。
 この章を本編として採用しなかったのは、過去というワードで別に展開できそうだったこと、家庭環境によって個人差が生まれるからであるが、一応文章として残しておこうと思う。


 皆はどんな子供時代を過ごしただろう、公園でドッヂボールをした? 学校の音楽室でかくれんぼ? マックにDSを持ち込んで通信した?
 私は、休日に家族とモールに出かけたんだね。夜に都内へドライブに行くこともあったし、姉とパレードごっこをして遊んだりもした。
 朝。なかなか起きれずにいると、リビングから何かを焼く音(きっとホットケーキだろう)と母と父、姉の笑い声が聞こえる。犬がフローリングを走る音も聞こえてくる。それは、ちゃっちゃ、とした軽やかな音だった。私はなんだか疎外感を感じて布団から這い出る。そうやって私は1日を始めるのだ。
 思い出せばキリがない。 
 幼少期の出来事を思い返すたびに、「ああ、あの頃は良かったなあ」と思うのだ。本気で「あの頃」を望むようになる。それは責任を負わなくて済むから、やらなきゃいけないことが少ないからでは決してない。
 そもそもモノを見る視点が違うのだ。
 思い返してみてほしい。
 母親の手を繋いで歩いたショッピングモールは、どれほど広く見えただろう。迷路みたいに入り組んでいて、きっとフードコートかゲームセンターが1番好きだったろう。しかし、自由に外出できるようになって同じショッピングモールに行ってごらん。ああ、なんだ。ここはここと繋がっていて、あっちはあすこと……なんだ、意外と狭いのね。
 きっと落胆するに違いない。子供の頃は何もかもが冒険だったのに対し、大人になっては冷静になってしまう。
 それに、これはどうだろう。ケーキ屋に行ってホールケーキを目の前にする。子供の頃は、それは特別な日にしか買えない憧れのもの。チョコだって普通のショートケーキだって美味しいそうだ。どっちにしようか、早く選ばないとママが呆れちゃう! それが大人になってみろ、こんな値段、ちょいと贅沢すれば手の届くものだ。余裕で手に入る。なんならチョコのだっていちごのだって買って仕舞えばいい。

 警察へだって、郵便局へだって、市役所へだって一人で行けるのさ。大人だからね。

 成長に伴う心身の自由は、かえって心を蝕んでいく。不自由だった子供の頃、必死に手にしようとした自由は、大人になってしまえば当たり前に手に入る。
 しかし私たちが憧れている子供というのは、囲まれた世界の中で足掻くその不便さに対する愛おしさを持っている。

 先日。あまりに過去への執着がひどかったので、予備校時代の先生へ我儘に文章を送りつけた。
 先生の子どもが小学生に上がった頃、助手席でその子が「3歳の頃が1番楽しかった」といったらしい。なんだ、こんな小さい子でさえ……。 



第1章:少女の性自覚


 私がこのnoteを書くにあたり、1番推敲したかった議題はこの通り、「少女の性自覚」についてである。つまり、「少女は自身の身体に性的魅力を自覚するべきかどうか」という、たったこれだけの問題提起だ。
 これは、サムネイルに拝借しているバルテュスの絵画への解釈を一つとっても極端に割れる。しかし初っ端からバルテュスに言及するのは一口目からメインディッシュをいくようでなんだか胃もたれしそうなので、手始めに『小さな悪の華』の話でもしようかと思う。



①『小さな悪の華』〜悪戯な好奇心〜


『小さな悪の華』1971年

「でも、私たちを悪から救わないでください。」

 1971年にフランスで公開された『小さな悪の華』は、悪魔主義的な内容と過激な性描写によって上映禁止が相次いだ、いわば問題作である。
 (あらすじに関しては外部サイトへ飛んでください。)

 「サタニズム、悪戯、少女」の3つ言葉を並べるだけで妙に胸が躍るのは私だけか。作名の悪の華はきっとボオドレエルからであろうし、ランボオの詩なんかも引用されていたのではなかったか。なんだか退廃的な雰囲気に満ち満ちている。

 本作において、少女(アンヌとロール)は悪の魅惑に取り憑かれ、周囲の大人をさまざまな形で陥れていく。
 その中でも特に性的に誘惑する描写が印象的である。
 では、ここで描かれている少女たちの性的誘惑は、どう認識できるのだろうか。

 私がこの作品を見始めてすぐ、これは私の理想の少女像とはかけ離れているな、と、ぶっきらぼうに投げ出そうとしたのは、序盤から彼女らは、自身の身体に女性としての魅力があることを認識しているように見えたからだ。
 例えば、農夫を誘惑するシーン。

『小さな悪の華』1971年

 ポーズ、目線、魅せ方……明らかに分かっていないと出来ない行動をとっている。脚を開き、右足と左足の肌を擦り寄せる、スカートは膝から落ちていき彼女の中が露わになっていく。脚から陰部へ、上から下へ。しかし開いたりまた閉じたり……視線は焦らされゆっくり流れを描いていく。
 さらに追い討ちをかけるようにアンヌは「いいのよ、やっておしまい」と、言わんばかりに物欲しそうに農夫を見つめる。正直ロールより、このアンヌの目線の方がよっぽど色っぽいのだ。
 農夫が「いや……」と最初は狼狽えていルのだが、やはり罠に引っかかってしまう。それを見てアンヌはけらけらと笑うのだ。
 しかしここで目に痛いのが、少女の全身を舐め回す農夫に対して明らかにロールは苦痛の表情を浮かべていることだった。
 私が先に、理想の少女像とかけ離れていると言ったのもこれが原因の一つで、少女には男より優位に立っていてほしいというひっそりとしたフェミニズム的なものを感じていたからだ。それはファムファタールに近いような「男をたぶらかす少女」に、嫌がる描写はなるべく排除されていてほしいからなのだ。 

 しかし、彼女らが自身の性的魅力に対して認識し切れていないと私が判断したのは、映画後半に薪で頭を殴られた男の場面だった。

『小さな悪の華』1971年

 上の画像を見てもらえば分かるよう、大胆な下着姿とウイスキー片手に少女たちは誘惑する気満々だ。しかし、ここでアンヌの体毛が見える訳だ。脇に濃く毛が残っている。(世の中には驚くほどの性癖の持ち主がいる訳で、もしかしたら脇の毛も一種の性的魅力にあたるのかもしれない。あるいは処理に甘い時代だったか、しかしここでは現代の観点で見ていこう)。
 これだけ大胆にカットされた下着姿に、脇だけぽっかりと未処理であるのは、自身の身体のどこに魅力があるのかがまだ分かりきっていないからなのではないかと私は思うのだ。どこまで今の価値観が通るかはわからないが、やはり男性を誘惑しようとしたときは服装以外にも色々と気を使うべきなのは分かるだろう。
 さらに、彼女らの性的知識は本の中の官能描写から得たものしかなかった。ろくに男のいない寄宿学校で、だ。
 つまり、性の営みを詩的な文章をなぞることでしか認識できなかった……男というものにまだ性愛を見出していないのだ。
 そして、アンヌが自身を鏡でうっとりと眺める場面が何度か描写されていたが、これはあくまで少女から女性へと変化していく身体の表象的なものを眺めているに過ぎなく、本の中で描かれる女性と自身を重ねることで興味・欲求を満たしていただけなのではないか。
 数々の男を誘惑していたことに関しても、本の中、いわゆるフィクションへの興味であって本質的に性的魅力を見出しているようには考えられない。要は、子供が父親の職場に興味を持つのと同じように、彼女らが興味を持ったものがたまたま性的なものであったというだけなのではないかと言うことだ。

 では、何故私たち(私)が、この少女たちに魅力を感じるのか。それは、大人のような性的なものではなく、寧ろ“ロリ”による悪への好奇心に由来する。
 小見出しの下に貼付した画像は映画のラストシーンであるが、詩を読み上げながら2人で燃え死んでいく姿はまさに「死への輝き」を保ち、死のために生が存在した。
 白い服を纏ったあの儀式にも描かれたよう、彼女らはめっきりサタンに夢中なのだ。

 少女2人を目の前にしたとき、私たちはそこへ介入することができない。キリスト社会からも隔離され、2人には2人だけの理想郷があり、そこは決して大人になり社会へ属した私たちが踏み込めるものではない。この社会性からの逸脱は、私たちがひっそりと抱えるが達成することの出来ない課題であり、このキーワードが少女2人の間には成立していたのだ。
 つまり、少年少女世界への誘いは現実逃避の一つであり、それは、社会性の排除されたものでなければいけないと言うことだ。



②『ヴァージン・スーサイズ』〜13才、自殺への憧れ〜


『ヴァージン・スーサイズ』1999年

「先生は、13才の女の子になったことないでしょ。」

 1999年に発表された『ヴァージン・スーサイズ』は、ジェフリー・ユージェニデスによる『ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹』(1993)を原作としたアメリカ映画である。

 本作で何よりも魅力的であるのは、少女たちの自殺シーンに違いない。
 最初に絶った少女セシリアは、パーティの合間に飛び降り自殺。小さな身体が庭の柵に突き刺さる様はシュールでたまらない。その後を追うようにして自殺した姉妹の着る白いワンピースもまた純潔で、ブロンズの髪が美しい。
 まさに、「処女自殺」である。

 しかし、ここで議論したいのは「少女の性自覚」と社会性の有無についてである。先に紹介した『小さな悪の華』において、少女2人の間に社会性は存在しないとしたが、反対にこの『ヴァージン・スーサイズ』では少なくとも社会性の入る余地がある。『小さな悪の華』に比べ、悪い意味で行動に筋が通っているのである。

 本作において、セシリアをはじめとする5人の姉妹たちは、近所に住む少年たちの視点をもって語られる。
 当時、少年たちから見た彼女らがそれだけ美しく謎めいていて魅力的だったか……それは、私たち鑑賞者の代弁でありストーリーの進行であるが、そもそもこの「少年」という存在が、少女たちの楽園においてどうも邪魔くさいのである。
 というのも、先に述べた『小さな悪の華』に社会性や自身の身体への性自覚を確認できないとみなしたのは、彼女らが寄宿学校にいることで同年代の異性と関わりが持てず、本の中でのみ性愛を学べなかったからである。
 しかし、本作の舞台設定は、確かに母親が過保護に娘を家の中に居させるように行動する場面は見受けられても、少なくとも学校(一般的な男女共学の)には通わせているわけであり、さらには母親が精神科医の指摘を受けて実際に男女交流のパーティを開くわけである。そこには「精神科医に言われたから」という筋の通った背景が存在している。つまり、少女たちの楽園を作るにあたり、「不可解さ、や理不尽」が足りないのである。
 少女たちの空間に思春期の少年たちが介入する余地があるということは、それは恋愛の始まりを示す。
 恋愛を知った少女たちはどうなるのか……少女たちは身だしなみに気を遣うようになり、自身の身体を女性的に意識し始める。それは恥じらいの始まりでもある。
 『小さな悪の華』において、少女たちに恥じらいはなかった。性的誘惑はあくまで、飼い鳥を1匹1匹殺すのと同じように悪戯の範疇を超えなかった。
 恋愛を知り恥じらいを知った少女たちは、まもなく大人へと変貌していく。
 この少年少女主義の世界では、当たり前だが大人になってはいけない。少年少女主義の世界からの追放である。(少年たちの楽園において恋愛は完全に排除されるべきではない、というのは次回記述する)

『ヴァージン・スーサイズ』1999年

 なるべく少女たちは恋愛や青春と呼ばれるようなものから隔離された静止された王国に居なければならない。私が『ヴァージン・スーサイズ』を少女主義の楽園に位置付けなかったのは、そういうことである。




補足『籠の中の乙女』〜無機質な性行為〜


『籠の中の乙女』2009年

「ゾンビとは、小さな黄色い花のこと。」

 『籠の中の乙女』(原題:Dogtooth)は、2009年にヨルゴス・ランティモスによって公開された映画である。今や『聖なる鹿殺し』や『哀れなるものたち』で話題を集め有名となったヨルゴス・ランティモス監督の初期作品である。

 本作、『籠の中の乙女』は原題が「Dogtooth」となっている。これはそのまま日本語で犬歯という意味であるが、本作を鑑賞してもらえば分かるよう、この犬歯という言葉が重要な役割を持っている。
 本作に出てくる子供たちは父親の異常な教育により、外の世界は恐ろしいものだとして生まれてずっと家に閉じ込められて育ってきた。しかし、外へ出る唯一の条件として与えられたのが、「犬歯が抜けたとき」であった。しかし、一般常識がある程度備わった鑑賞者の私たちには、犬歯は生え替わらないことを知っている。つまりそれは、永遠に死ぬまで、家を出られないということを示すのだ。
 この秀逸なタイトルを、あまりにもイージーに書き換えてしまった日本の担当には全くである。

 今回この『籠の中の乙女』を補足としたのは、『ヴァージン・スーサイズ』の章に太文字で記載した「不可解さ、理不尽」についてもう少し深く掘り下げようと思ったからである。
 『籠の中の乙女』では、詳しく言及しなくても家庭の不可解さが確認できるかと思う。何故、父親は間違った単語を教え、何故、外から隔離するのか。それであるのに何故、部外者の女を性教育に使うのか。それらが作中で全く言及されないのである。ただひたすら異常な生活風景を見させられ続ける。(そういう点では『エコール(原題:Innocence)』も近いのかもしれない)

『籠の中の乙女』2009年

 性行為は極めて無機質で、画面に映る生活はどこか乾いている。
 全てに上手く説明がつかなく、鑑賞者は居心地悪さと同時に違和感を覚える。この違和感こそが、少女たちを楽園に閉じ込め社会性から隔離させるために必要なものなのである。
 つまり少女たちの楽園において、社会性の排除から生まれた不安定な違和感や不可解さは彼女らをより魅惑的にさせるためにある程度エッセンスとして持つべきではないか、ということである。





第2章:バルテュスの絵画を検討する


《ギターのレッスン》1934年

「何やら性的な匂いのする、苛立たしい、熱っぽい、陰鬱な、幼年期から青年期に
至る過渡期のオプセッション」

「危険な伝統主義者」澁澤龍彦

 バルテュス(Balthus)は、20世紀末に活躍したフランスを代表する画家である。


 少年少女主義を語る上で、バルテュスは欠かせない。この記事のサムネイルも勿論バルテュスの作品から拝借したものである。
 本章では、第1章で紹介した映画を踏まえバルテュスの作品における少女性を独自に解釈する、というものである。



①子供部屋と、暴かれる少女たち。


《夢見るテレーズ》1938年


 バルテュス絵画において、少女テレーズは何度も描かれてきた象徴的な人物でる。その中でも、上記に添付した《夢見るテレーズ》は大きな話題を呼んだ作品である。
 本作に描かれるのは、片足をあげ、下着をちらつかせる少女テレーズの姿である。この少女が世に晒されたとき、あまりに挑発的な姿が卑猥だとして批判を浴びたのはよく知られている話である。
 しかし、この作品から受け取れるエロティシズムは少女の下着そのものより、もっと他のところに存在する。それは、第1章で示した少女たちの無意識と、子供部屋の危うさについてである。ここでは、子供部屋に着目して話を展開しようと思う。

 バルテュスによって描かれる少女たちのほとんどは部屋の中に存在している。
 読書や遊戯、鏡を見るもの、横たわるものと様々である。しかし少女たちは決してこちらと目を合わせようとはしなく、ただ部屋には湿った空気が流れ込み、寧ろこちら側から目を逸らしたくなるような危うさを持ち合わせている。
 そもそも、部屋というのは閉鎖的な自己社会の単位である。所有者の頭の中を表すセンシティブなものでもあるため、部屋を覗くということはその人の中身を無理やりこじ開けるような暴力性の伴う行為と言って間違いはないのである。
 そしてバルテュスに描かれる少女の数々は、ほとんどがこちらに無意識であるように描かれる。(先に示した《夢見るテレーズ》は保留)
 私たちの知らない間に遊戯が行われ、きっとそれは私たちの知らない遊びであり、きっとそれは私たちの知らないルールで行われる。こちらを認識していないために、その知らないルールを説明をしてくれるわけでもなく、私たちの介入する余地すら与えられずただ向こうの世界で執り行われる遊戯を、私たちは鍵穴から覗くことしか出来ない。
 つまり私たちがバルテュスの絵画を通じて得ているのは、子供たちの静止した時の王国……もう2度と私たちが取り戻すことのできない遊戯と無垢の空間であり、絵画という媒体を通して暴力的にその姿を垣間見ているということである。
 それに対応してバルテュスは、少女が作り上げてきたごく小さな楽園を、筆と絵の具を用いて暴いているということになるのである。




②投げ出された身体と、少女の性自覚について。

 

《子供たち》1937年


 バルテュスの絵画を鑑賞する際、1番目に惹かれるのは少女たちのポーズに違いない。
 背中がやけに直線的であったり、やたらと腕の放り投げ出された姿勢に


(執筆遂行中)

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