○○な自分を演じる
この間、古い仕事仲間に1年半ぶりに会ったら、妊娠・出産して3ヶ月の子供がいるという報告を受けた。
その類いの報告にびっくりはしないのだけど、なぜか僕の周りの女性友達や女性の仕事仲間には「生活感を感じさせない」ままに、生活感のある出来事をこなしている人が多いことに改めて気付く。
それで、その女性は見た目も美しく、仕事も出来て、社交的、仕事の幅も広くてクライアント満足度も高いという非の打ち所のない女性なのだが、なぜか、結婚した旦那のことになるとやたらネガティブなことを言う人だった。
こんな美しい女性がダンナに不満があるのならおれにもチャンスが!と勘違いするオッサンが増えそうなくらい「仕事以外がうまくいってない感」を醸し出してくる。
その人とは古いつきあいなので、実際に家庭に問題があるかの真意は別にして彼女のキャラからして、その「キモチ」はすごく理解できるのだ。
というのも、僕自身も奥さんも子供もいて、仕事上では「パパであるしまざきさんが想像できない」とか「家庭生活大丈夫?」とかよく言われたりする。僕自身は人並みに家庭を愛しているし、子育てにも積極的に参加しているつもりだが、その実態と評価は奥さんに委ねるとして、すくなくとも、その類いの話を自己表明のネタに使いたくない、というキモチがあるのは揺るぎない事実だ。
だから「生活感がない」と言われると、ちょっとうれしくなる自分がいる。
要は「親ばか」というレッテルを貼られなくない、とか「仕事にストイックな自分」というイメージを崩したくない、という「○○な自分」に固執しているということだ。
子煩悩な自分を認めたくないわけではないのだか、そういう文脈で自分を語られることが自意識のうちに拒否反応を示してしまう。まあ、そういう意味では「認めたくない」のかもしれない。
幸福の根源が自己肯定感だとすれば、真逆の反応だ。素直に自分の行いから来る自分らしさを認めればいいところを、なぜか無駄に抵抗している。
家庭臭、生活感を出したくないのは、なにも別に女にもてたいとか、今とは違うパラレルワールドを欲しているというわけでもない。ただひたすら自分の中の(よく言えば)美学を追求したいという不毛な抵抗感でしかない。
女性の場合なら、別の回路でそうした自意識が働くのではないかとも思う。いままでバリバリ仕事をしていて、結婚したり出産したりすることで「違うステージに入った」という周囲からの勝手な評価や認識が、仕事そのものに影響を与えることもあるから。つまり、「子供がいるから大変でしょう」という理由で、仕事内容を制限されたり、新規の発注がこなかったり、実際フリーランスの仕事仲間では、そういったケースを聞くこともある。
なんとも不条理な話だ。働きかたは自分で決めたい。子供がいようがいまいが、自分のベストを尽くしたいという思いが通用しない世界。
「いや、実際、こどもできたら今までのようには無理でしょ?」という反論もあるかも知れないが、それは半分正しくて、ほどんど間違っている。
だって、少なくとも僕は、こどもが生まれてからもこれまで通りの働き方だし、それはもちろん家族全体の支援があってのことだけど、そうした支援を女性特有の負荷への支援を含めて、女性が得られないという理屈は立たないはずだ。
そんな背景があってかどうかはしらないけれど、一年半ぶりに会った彼女は、出産の報告もそこそこに、子供の話は敢えてしない。僕の方も詳しくは聞かないことにした。
社会と向き合う中で、「ひとつの自分」である必要は無い。むしろ、平野啓一郎氏の「分人論」ではないけれど、多様な人格の総体がアイデンティティを形成するものだ。
であるならば、「家庭を感じさせない自分」「こどものことなんて忘れてしまうくらい仕事に夢中になれる自分」だって存在していいはずだ。少なくともそういう「○○な自分」を複数演じる努力をすることで、あれここれも手に入れる理想の自分に近づけることだってある。
だから、実態はおいておいて、「子煩悩な彼女」ではなく、「ダンナや子供に興味が無いというポーズ」から醸し出される「仕事が好きな彼女」とこれからも仕事を一緒にやって行けたらいいと思うし、それ以上の詮索・忖度をしない人間関係をこころがけたいなあと思うのだ。
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