理想の田舎暮らし実践考察 その3


蔵に眠っていた足踏み脱穀機

そもそも「理想の生活」とは何だろうか?

『毎日が楽しく、心身ともに快活で、充実している』

その状態が幸福であることに異論の余地はない。

が、われわれの現実の社会生活は、なかなかそこに到達できずにいる。

人類史上類を見ないほどの豊かさと安全性を兼ね備えたこの社会に生きているにも関わらず、だ。

その要因は一体何なのだろう?

物質的な豊かさは、幸福の必要条件であって、十分条件ではないということなのだろうか。

結論から言うと、人間は、自分が生きている意味を主体的かつ能動的に見出せなければ、本当の意味で幸福になりえない。

その理屈は簡単だ。

「自分にとって何が幸せか?」に対する私的絶対基準がなければ、人は常に「他人と比べて自分は幸せか?」を問い続ける羽目になる。

自分は他人より年収が低い。だから不幸。
自分は他人より友だちが少ない。だから不幸。
自分は他人より能力や容姿が劣っている。だから不幸。
自分は他人より運が悪い。だから不幸。

そういう相対的幸福感の中では、大半の人間は「負け組」となる。なぜなら、その競争で優越感を得られるのは、上位の数パーセントの人間でしかないからだ。

どんなに豊かな社会であっても、他人との競争はなくならない。そして、競争の勝ち負けで人生の幸福度が決まるのであれば、不幸な人間は必然的に発生し続ける。

幸福な人たちが幸福であり続けるためには、不幸な人間は絶対的に必要だからだ。

自分が幸福になるか、他人が不幸になるか。あるいはその逆か。つまるところそれは、限られた幸福感を奪い合う椅子取りゲームでしかない。

問題は、そういう社会のトラップからどうすれば抜け出せるのかということだ。

『社会競争には参加しない。自分の絶対的な幸福基準を持つ。それにのっとった自分独自のライフスタイルを確立する』

やるべきことは、ただそれだけのことだ。

しかし、これがとにかく難しい。

学歴に頼らない。
世間一般の人たちと違う生き方を貫くことに負い目を感じない。
自らの手で常に新たな仕事を創っていく。

果たして実際にできることなのだろうか。

人間一人一人が、自分自身の固有の価値基準で幸せを掴み取れる社会へ向けて、さらに考察を続けていこうと思う。

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