理想の田舎暮らし実践考察 その2


現在、私が再生中の(70年以上放置されていた)里山空間

『田舎のまちづくりは、合理的にやってはいけない』

これが長らく地域活動をしてきた私の帰着点だ。

どういうことか。

そもそもの話、戦後、社会の合理性(つまり経済性や利便性)を追求した結果が、現代の日本社会の姿なのだ。

雇用を生み出し、人口を増やし、インフラを整備し、より快適で住みやすいまちを創る。

まさしく、それが「都市」だ。

田舎とは、そういう社会の合理化過程で排除、淘汰されてきた(そして、現在進行形でされている)社会空間という側面を強くもっている。

だから、同じような手法や価値観でまちづくりを行ったとしても、「そういうことを田舎でわざわざやる必要あるの? 都会でやった方がもっとうまくいくよね?」となってしまう。

つまり、イベントや物販をするなら人口密集地の方が収益性が高く効果的というわけだ。

わざわざそういうことを人のいない田舎でやる意味はない。

では、合理的ではない、「不合理な田舎暮らし、まちづくり」とは何か。

端的にそれは、その個人(集団)が自身の自由意志で好き勝手にやって楽しんでいる活動そのものだ。

つまりは、「遊び」。

「遊び」であるがゆえに、経済的合理性や崇高な理念(地方創生、コミュニティ再生等)とは無関係。

ただ単に、気の合う者同士が好きなことをやっているだけだ。

こういう価値観においてのみ、「田舎」という世界は、大きな可能性を持つことができる。

「都会って、やたらと人多くて、狭苦しくて、何をするにもお金がかかって、結局何もできないよね」

無論、あらゆる田舎が「誰が何をやっても誰にも何も言われない」ではない。

が、極端な過疎化が進み、まさに「無人」となった地域は、「真っ白なキャンバス」に等しい。

必要なのは、「自分がやりたいことを本気でやれる人間」だ。

逆に言えば、そういうおもしろい人間がこの日本社会にほとんどいないがゆえに、地方の衰退は止まらない。

私自身、自分と同等の変人など、今だかつて出会ったことすらないのだ。


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