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『論語』 学問=「知識の量」ではない

今回は、『論語』学而編の第7章をみてみましょう。
そこには、孔子の弟子の子夏の言葉が記されています。

子夏曰わく、賢を賢として色に易(か)え、父母に事(つか)えて能(よ)くその力を竭(つく)し、君に事えて能く其の身を致し、朋友と交わるに言いて信有れば、未だ学ばずと曰うと雖も、吾は必ず之を学びたりと謂わん、と。

意味としては、
「男性が女性の美しさを好むように賢者を尊び、力を尽くして父母に仕え、自己の身をかえりみずに君主に仕え、朋友と交わる時は、噓をつかずに信頼されるような行動をする。そういう人がいるなら、その人が『自分には学がない』と言おうとも、私はその人を学があるとしよう。」となります。

父母や君主に仕えるというのはこの『論語』が書かれた時代の価値観を反映しているので今の私たちにはなじみがないと思いますが、友人に信頼されるような行動をとる、という部分は理解できると思います。この章が言いたいのは、「知識の多い少ないだけで人をみてはいけない」ということだと思います。

以前の記事でも「巧言令色鮮なきかな仁」という言葉を紹介し、言動だけでなく行動で信頼されることの大切さを述べましたが、今回もその延長線上だと思います。
一般に、「学がある」というと、「知識が多い人」というのをイメージすると思います。それは間違いというわけではないですし、実際時間をかけて学んできたから知識が増えたのでしょう。
しかし、もともと儒学という学問は、「自分の日常生活をよりよく生きていくにはどうしたらよいのか」が一大テ一マなのです。あとになって広大な哲学理論が生まれたりもしますが、孔子の時代は少なくともそうでした。そして、僕もこの視点は大事だと思っています。

日本の教育の仕組み上、学校で勉強し、テストで成績をはかっているので、どうしても知識の多い少ない、テストの点で人や自分を見てしまいがちだと思います。そして、僕もそうでしたが、うまく点数が取れないと「自分は頭が悪い」などと思ってしまいます。また、テストのために勉強していくなかで、学問=「知識をふやす」とか、「本をよむ」といったことだと思うことでしょう。

しかしどうでしょう、学校の勉強が苦手でも、人に親切にしたり、困った時にあなたを助けてくれた人はいるでしょう。そして、いざ自分のことを助けてくれた人がいたとき、その人の成績など気にしないはずです。
やはり学問=自分の日常生活をよりよくするにはどうしたらよいか、そして自分も他人も気持ちよく生きるにはどうしたらよいのか、そのために自分には何ができるのかを考えること
という意識をもつべきだと思います。そして、考えたのなら、それを実行に移すことが大事です。最初から完璧にはできませんから、少しでもそういう気持ちを持てばよいのです。そうしたら、読書や学校の勉強が苦手でも、その人を「頭が悪い」などとどうして言えるでしょうか。


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