無門関第四十則「趯倒浄瓶」①
無門関第四十則「趯倒浄瓶」について、綴ります。
公案の現代語訳は、こちら。
潙山の行動に対する無門の評価は、「一世一代の大勝負に出たが、それでも、百丈の掌の上だったな」です。
「惜しい。方向性は悪くないけど、もう一息」という感じでしょうか。
何が足りなかったんでしょう。
それを考えるには、まず、このシーンにおける潙山の意図を読み取る必要があります。
百丈のお題は、浄瓶を用いたものです。
私は最初、「浄瓶」という単語を見て、そこそこ広口のピッチャーかデキャンタのような形なのかと、勝手に想像していたんですが、実際調べてみたら、全然違う形でした。
でも、もしも、これを把握することなく、勝手なイメージで考え進めたとしたら、それこそが、「言葉に堕ちる」ということなのかもしれないと、私は思ってます。
字面だけ眺めて解った気になるってことだから。危ないところでした。
そう考えたら、禅寺の庭にわざわざビャクシンを植えるのも、悪いことではないのかもしれませんね。
話が随分それました。
百丈は、浄瓶を地べたにおいて、こう言いました。
「これを浄瓶と名づけてはならん。ならば何と呼ぶ?」
このくだり、原文では「不得喚作浄瓶、汝喚作甚麼」。
「喚びて浄瓶と作(な)すことを得ず、汝、喚んで甚麼(なん)と作す」と読み下すようです。
古の陰陽道の考え方の一つに、「名をつけることで、その対象の本質に形を与え、縛ることができる」という思想があるんですが、この辺のニュアンスが含まれていそうな文章のように感じます。
「何と呼ぶ?」という問いかけには、単に「何と呼ぶ?」という意味に加え、「目の前のものを、どんな本質で捉える?」という意味も、ありそうです。
首座は、「木の破片とは呼べないもの」と答えました。
これ、かなり数学的な発想だなと感じます。
浄瓶はほぼ陶磁器か金属製なので、「木ではない。かつ、破片ではない」というのは、決して間違いではないです。
ものの本質を明らかにするために、こういう小さな事実を積み上げ続けていくという方法論は、理系の分野なら、極めて有効であるとすら言えます。
非常にクレバーな人ではあったんでしょう。
ただ、まあ、「ズバリ本質に切り込め」がもてはやされる禅の世界では、あんまり良い答え方だとは思われないでしょうね。
対して潙山。
いきなり浄瓶を蹴り倒し、立ち去ってしまいました。
百丈は「勝負あった。潙山の勝ち」という評価を下します。
潙山の行動の意味は何か。
直感的に感じられるのは、「そんな訳のわからない問題は、問題ごとなかったことにしてしまえばいい」です。
ONE PIECEの作中で、チョッパーが「自分はトナカイのバケモノだから、仲間には、なりたいけどなれない」と切々と訴えるのに対し、ルフィはその悩みに向き合うわけではなく、「うるせえ、いこう」とだけ返答するんですが、浄瓶と呼べなくなった浄瓶を蹴っ飛ばした潙山の態度から、これに近い印象を受ける、ということです。
その問題そのものを、自分が問題だと思わなければ、それは問題ではなくなる、という感じでしょうか。
実際、人の悩みの大半は、それで結構解決できそうな気もしますし、そういう意味では、潙山が新寺の住職に相応しかろうと百丈が判断したのも、わからないではないです。
でも。
「浄瓶を蹴り飛ばす」が上記のような意図だったとしたら、それは別の角度から考えたら、「結局は、浄瓶は浄瓶としか呼べない」と暗に言ってる、ということにもなりそうなんですよね。
事態は何一つ変わってないということになる。
本当に一事が万事、それでいいのだろうか?
何だか、スッキリしません。
もう少しいろいろ考えます。続きは次回。
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