『猿の手』考察【追記あり】

 以前、『猿の手』の日本語訳を上げました。
 原文の文法には忠実ではありませんが、誤訳はないと思いますし、日本語としてこなれた表現を心がけたつもりです。
 短編です。よろしければお読みください。

 今回は、この、『猿の手』の考察です。
 ここからは具体的な内容に触れますので、未読の方はご注意を。



■モリスはなぜ、猿の手を渡したのか

 猿の手は、1人の人間の願いを3つだけ叶えます。
 しかし、1つ願いを叶えるごとに、1つ代償を支払わせます。
 その代償は、なかなか洒落にならない不幸をもたらします。

 ちなみに、猿の手が願いを叶える人間の人数は、3人まで。
 1人目は、モリスの知人。
 2人目は、モリス。
 ホワイト氏は、ラスト。3人目です。

 で、ちょっと不思議だったことが、まず1つ。
 どうしてモリスは、猿の手を、ホワイト氏の目の前に、結局、持ってきたのだろう?

 モリスは、1人目の男が不幸になったのを知っています。
 そして自身も、猿の手によって嫌と言うほどの不幸に見舞われています。
 ホワイト氏とは違って、モリスには、「猿の手は、願いの実現と同時に、不幸をもたらす」という実感が、半信半疑ではなく、すでにあるのです。

 それなのに、猿の手を、ホワイト氏の家に、持ってきた。

 本当に、自分の所で猿の手を留めておくつもりなら、その場の誰に何を言われても「今手元にはないんです」と、嘘でも何でも言い張りさえすれば、ホワイト氏に猿の手が渡ることだけは、防げただろうにと思うんです。
 しかしモリスは、酒の力を借りながらも、由来を語り、経緯を語り、「これは冗談ではない」と思わせ、その上で実物を目の前に出した。
 そんな煽り方をした後で、いくら「危険なものだから、あなたは使わない方がいい」と止めてみせたところで、そんな言葉は、ホワイト氏に対しては無力というか、むしろ、ホワイト氏の猿の手に対する渇望をかき立てるスパイスにしかならないと思うんですが。

 そう考えると、モリスがホワイト氏に猿の手を渡した動機は、「『ホワイト氏も自分と同じように不幸になればいい』という感情」だったのではないか、という気がしてきます。

 モリスの「いろいろ考えました。いろんなことを」という台詞は、原文はかなり訳し方に悩む文章だったのですが、いずれにしろ、その後「売り払おうとも一度は考えたけれど、嫌と言うほど災いが降りかかった後は、手放そうとは考えなくなった」と言っているので、結局モリスが猿の手を誰にも譲らなかった理由は、ここにあるのだと思います。

「不幸が降りかかると知りながら誰かに譲る」ということは、嫌な言い方をすれば、「こいつに不幸をもたらそう、と、モリスが選別し決定する」ということでもあります。
 モリスは、もしかしたら、このことを自覚した上で、何度も、「目の前のこの人に譲ってしまおうか」「いやしかし」という葛藤を経験してきたのではないでしょうか。

 ホワイト氏に猿の手の話をした日も、最初から、ホワイト氏に譲ってしまおうと決めていたわけではないのかもしれません。
 この日もきっと、モリスは話しながら葛藤していたに違いない。
 しかし、退役後も酒が手放せない状態に追い込まれた自分とは違い、ホワイト氏は、静かな郊外で、愛する妻子と共に、これ以上を望むべくもないほど満ち足りた暮らしをしています。
 そのホワイト氏から「お前は、猿の手の幸運を独り占めにしたいのではないのか?」などと言われた瞬間、モリスの心中に、それまで種として眠っていた、ホワイト一家に対する暗い感情が、一気に芽吹いたのではなかろうか。

 彼らも少しくらい不幸になればいい。
 いや、彼らが苦しむ姿は見たくない。
 そんな2つの感情の狭間で揺れ動いていた針が、一気に前者に傾いた。
 そんな気がします。

 そして、モリスにとっての最大の不幸は、「自分の知人に対してさえ、そんな暗い欲望を抱く人間になってしまったこと」のようにも、思えるのです。


■3つ目の代償は何か?

『猿の手』で、最も気になる点は、「3つめの願いは、何を代償に叶えられたのか」です。

 1つめの代償は、「息子が死ぬ」でした。
 2つめの代償は、おそらく「息子が損壊した状態のままで生き返った」だと思います。
 では、3つめの代償は何なのか。

 普通に読んだら、「夫妻の仲が悪化する」だろうかと考えたくなるところです。
 しかし、これは、筋が通っているようで通っていません。
 これだと、前後の因果関係が、先の2つの願いのときとは、違うものになるからです。

 先の2つは「代償」→「願いが叶う」の順に事象が生じています。
 ならば、3つ目の願いのときも、その代償となるべき出来事は、3つ目の願いが唱えられてから、願いが叶うまでの間の僅かな時間に、起こっているはずなのです。
「不幸になる」はあくまでも代償を支払った結果の感情であって、代償そのものではありません。

 では、3つ目の代償は何なのか。
 それを考えるためには、まず「ホワイト氏は3つ目の願いとして、何と唱えたのか」を考える必要があります。

 ホワイト氏が、3つ目の願いを具体的にどんな文言で唱えたのかは、作中には記されていません。
 しかし、唱えた直後、玄関の外に居たらしき「息子だったもの」は、おそらく息絶えたか、居なくなったかのいずれかだろう、ということが読み取れますから、これを実現させるための文言だったのでしょう。
 玄関を開けた夫人の泣き声が、悲しみだけで、他に驚愕や恐怖の色が混ざっていたような描写がないので、おそらくその場に息子の遺体は残ってなかったのだろうという推測の方が、個人的にはしっくりきます。

 ところで。
 この小説のラストは、以下のようなフレーズで締められています。
人気ひとけのない、静まり返った道を、照らしていた」
 人気ひとけが、ない。

 しかし、この小説の冒頭で、ホワイト氏は「大通りには、ここを含めて家が二軒ある」という意味のことを言っています。
 少なくとも、この道に面したところには、ホワイト邸以外にもう一軒、家があることになります。

 つまり、本来この付近は「辺鄙ではあっても、人気ひとけはそれなりにある」はずなのです。
 夜なら、流石に外をうろついている人はいなくても、それならそれで、通常なら、家の灯りが点るでしょう。
 人の気配自体がすべて消えることはありません。

 さらに「地元の連中は」とホワイト氏が口にしていること、2マイル先の新しい墓地は広いことなどから、実際はもっと多数の家が点在している可能性もあります。

 しかし。
 ホワイト氏が意を決して玄関の外に飛び出してみたら、外は静まり返っていて、人気ひとけがなくなっていたわけです。

 以上のことを総合して考えると。
 ホワイト氏の3つ目の願いは「玄関の外の生き物を、消してくれ」、
 そのために支払わされた代償は「近隣の住人までもが、消えてしまっていた」だったのではないか。
 これが、3つ目の代償に関する、現時点での私の考察です。

 随分ひねくれた読み方だという自覚はありますが。
 でも、この解釈の方が、寒気がするような恐怖が余韻として残るので、個人的には自分の思いつきに満足しています。


■「偶然としか思えない願いの叶い方」を考えてみる(2024.03)

 しかし、もう一度よくよく考えると、上に書いた、2つ目の代償と3つ目の代償は、かなりファンタジー色を帯びています。
 フィクションという世界の中でなら一応スジは通りますが、「偶然としか思えない」とは流石に言い難い。
 なので、「・・・偶然だろ?」と言いたくなるような、願いの叶い方とその代償を考えてみます。かなり無茶もすると思います。


「お金は僕が戻るまで手をつけないでね」と明るく言い残し出勤したハーバートは、実は両親には隠している悩みがあった。
 借金があったのだ。
 相手は、会社の同僚。イカサマのポーカーで金を巻き上げる少々タチの悪い男だった。ハーバートはこの男に、なかなか洒落にならない負け額を作っており、最近、この男からの催促が激しくなってきていた。
「これ以上は何も要らないくらい幸せだ」と言う父に、あんな願いをするよう水を向けたのも、このことが常に頭にあったからなのかもしれない。

 会社に着いたら早速、男から、金を払えという催促を喰らった。
 今持ち合わせがないと言い逃れるハーバートに、この日の男は何故かすぐには引き下がらず、「ならばこれを担保によこせ」と、ハーバートの身につけていた腕時計を取り上げた。それは、父が息子に贈ったものだった。
 男が、その品性には似つかわしくない高級な腕時計を腕にはめるのを、ハーバートは、焦燥の色を帯びた目で、じっと見ていた。

 その日、何が起こったのかは解らない。
 男は、機械に巻き込まれた。

 ハーバートが男に借金を作っていたことは皆が知っている。
 ――僕が殺したと、疑われるかもしれない。
 一度そう思ってしまったら、もうその恐怖に耐えられなかった。
 ハーバートは、誰にも見られないように、そこから逃げ出した。

 会社の事務員に連れられて、ホワイト氏が会社に訪れた。
 ホワイト氏は、無残な遺体を見た。
 その顔は、機械に巻き込まれ、潰されていた。
 顔では、息子かどうか判別できない。
 ホワイト氏は、その遺体の手首に、自分が息子に贈った腕時計が巻かれているのを見た。
 ホワイト氏は言った。「確かに、私の息子です」

 これにより、社はホワイト氏に、200万ポンドの見舞金を支払った。
 ホワイト夫妻は、男の遺体を、息子の遺体だと思い込み、墓地に埋葬した。
(1つ目の願いが成就:代償は息子の社会的な死)

 しかし、「ハーバートの死」を、信じていない者がいた。
 男の身内である。
 彼らは、この男に輪をかけてタチの悪い人間だった。
 彼らは、ハーバートが死んだその日から、男が行方不明になっていることを不審に思った。
 ――あれは、バクチのカモが事故で死んだくらいで気に病むような性根ではない。ましてや、自分たちに何も言わずに姿を消すなどあり得ない。
 彼らは、調べ始めた。
 そして、彼らは事態の全容を突き止めてしまった。

 ハーバートは、自分が警察ではない者から追われ始めたことを察知した。
 警察に見つかれば、殺人の罪を着せられてしまうかもしれない。
 彼らに捕まれば、自分は殺されてしまうかもしれない。 
 しかし、彼らに幾ばくかの金を払えば、もしかしたら命だけは助かり、どこかで静かに暮らせるしれない。
 ならば一刻の猶予もない。信じられるのは、頼れるのは、両親だけだ。
 こうして、ハーバートは、数週間ぶりに、自宅に戻り、そのドアを叩いた。
(2つ目の願いが成就:代償は、息子が殺人の容疑をかけられること)

 しかし、ドアを何度叩いても、ホワイト夫妻はドアを開けてくれない。
 おかしい。家には居るはずだ。人目を気にするあまり、ドアを叩く音が小さすぎて聞こえなかったのだろうか。
 一刻も早く両親の助けが要るのに。
 ハーバートの焦りが、ドアを叩く手の力を強めさせた。

 ホワイト氏の住む街は、郊外の閑静な住宅地だ。
 人口もあまり多くはない。
 住人は皆が顔見知りで、互いが、互いの動向を実に細かく知っている、そんな土地柄だ。
 そんな場所に不審な来訪者があれば、たとえ真夜中であってもすぐに知れる。
 住人は、嵐がそのまま過ぎるのを待つかのように、じっと息を潜めていた。それは、閉鎖的な田舎の住人の生きる知恵のひとつだった。

 自宅の玄関を乱暴に叩くハーバートの元に、一台の車が静かに止まった。
 車から降りてきた数人の男が、音もなく、ハーバートを車に押し込み、そして走り去った。

 ホワイト夫人の、違う意味の慟哭が響き渡った。
 ホワイト氏は、静まり返った闇を、悲痛と安堵の混ざったような表情で見つめていた。
 自分たちが、何をしでかしたのか、気づくことはないまま。
(3つ目の願いが成就:代償は、息子の本当の死)


(後日談)

 本物のハーバートの遺体が発見され、事の全容が明らかになった頃、モリスが、ホワイト氏の邸宅を訪れた。
 モリスは、ホワイト氏に、丁寧に悔やみを述べた。

 ホワイト氏は、黙ってそれを聞いていたが、ついに耐えきれなくなり、モリスに向かって喚き散らした。
「お前が、あんなものを持ってこなければ、息子は死ぬことはなかったのに!」
 殴りかかろうとする夫を止めるホワイト夫人も、しかしその目は、恨みの色に染まっていた。

 そんな夫妻を静かに見つめたまま、モリスは、言った。
「偶然でしょう?」

 見えないナイフを心臓に突き立てられたかのように、そのまま動かなくなった夫妻に向かって、モリスは静かに言った。
「私が初めてあなたに猿の手の話をしたとき、あなたから笑いながら言われた言葉です。覚えていますか?」
 ホワイト氏は覚えていなかった。
「あのとき、私は、猿の手を渡す相手はあなたにしようと思ったのです」

 呆然としているホワイト氏に、モリスは続けた。
「それでも、と、一度は思い直しました。あなたには恩がある。だから、会って話せば、きっと思いとどまることが出来る。そう思いました。
 けれど、あの日、あなたに『あれをもう一度使う気なのか』と言われた瞬間、やはり、猿の手を渡してしまおうと、一瞬思ってしまったのです。
 あなた方を目の前にしてなお、そう思ってしまったことが、本当に恐ろしかった。
 あのとき私はもう、自分がどうしたいのか、わかりませんでした。
 だから、もう、すべて運命に任せるために、あれを、火に投げ込んだのです。燃えてしまったならそれでいい。燃えずに残ったら使い方を教えよう、と」

 握りしめていた拳をだらりとおろし、よろめくホワイト氏を見ながら、モリスは、涙を拭った。
 しかし、モリスは、やっと解ったような気がしていた。
 自分はきっと、この光景を見るために、猿の手を渡したのだと。
 モリスは、長年の孤独が埋まっていく昏い喜びを感じていた。


 ホラー作品として読むなら、「損壊した状態で蘇った」の方が面白い。私はいわゆる恐い話がわりと好きなので、やっぱり最初に考えた世界観のほうがしっくりきてしまいます。
 いろいろあってもいいと思う。
 元が簡素な分、いろんなものを許容できる余白があると思うので。
 お楽しみ頂けましたら幸いです。

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