【翻訳】 『猿の手』 W.W.JACOBS

原文はこちらを用いました。

prologue

「願い事をするときは、慎重に。
 その願い、叶ってしまうかもしれないから」―作者不明 

第一章

 寒い雨の夜だった。
 とある邸宅の小さな客間では、ブラインドが下ろされ、暖炉には火が焚かれていた。
 父親と息子は、チェスを指していた。
 年老いた父親は、局面を一気に打開しようと考えたのか、自分のキングを、危険なだけで全く意味のない場所に置いたので、暖炉の傍らで静かに編み物をしていた白髪の老婦人が思わず口を挟んだほどであった。

「随分風が強いようだな」
 ホワイト氏は、自らの致命的な失着に気づいたが時すでに遅し、せめて息子が見落とすことを願いながら、話しかけた。
「そうだね」
 息子は変わらぬ表情で盤面を眺めたまま、手を伸ばした。「王手」
「今夜は彼も、来ないだろうな」
 父親の手が、盤の上に浮いたまま固まっている。
「詰みだよ」息子は答えた。
「これだから辺鄙な田舎は嫌なんだ」
 ホワイト氏は、突然怒りを爆発させた。
「どれほどひどい泥まみれの場末でも、ここほど酷くはあるまい。小道はぬかるみ、通りは川。地元の連中は何を考えているのか知らんが、おおかた、大通りに二軒しかない貸家のことなど、どうでもいいと思っとるんだろう」
「大丈夫よ、あなた」
 妻が宥めた。
「次はきっとあなたが勝ちますよ」
 ホワイト氏がキッと睨んだので、目くばせしあっていた母と息子は目をそらした。
 ホワイト氏はそれ以上は何も言えなくなり、薄い白髪交じりの髭の奥に、後ろめたげな苦笑をそっと浮かべた。

 そのとき、門扉が大きな音を立て、重々しい足音がドアに近づいてくるのが聞こえた。息子のハーバートが言った。
「あれ、お見えになったみたいだね」

 ホワイト氏は出迎えるために急いで立ち上がった。ドアを開け、遠路はるばる大変だったろうと挨拶をするのが聞こえた。客も、いや実に難儀しましたなどと口にしたので、ホワイト夫人は舌打ちし、夫が部屋に入って来ると、軽く咳払いをした。
 夫に続いて、背の高い、屈強な男が入ってきた。つぶらな目で、すでに赤ら顔である。

「モリス曹長だ」と、ホワイト氏は家族に紹介した。

 モリスはそれぞれ握手を交わし、勧められるままに暖炉の傍の席に腰を下ろした。そして、ホワイト氏がウイスキーとグラスを取り出し、小さな銅のやかんを火にかけるのを、嬉しそうに眺めていた。

 三杯目に差し掛かる頃には、モリスは目を輝かせ、舌も滑らかになってきた。
 ホワイト一家は、遠方から訪れた彼を興味深く見つめている。
 モリスは、椅子に腰掛けたまま、堂々とした様子で、戦争や災害や異国の奇妙な人々の、苛烈な光景や、勇ましい武勇伝を語った。

「あれから二十一年か」
 ホワイト氏は妻と息子に頷きながら言った。
「戦地に出征したときは、まだ、一山幾らの頼りない青年だったんだが、どうだね。今では見違えるようだ」
「とてもそんなご苦労をなさっていたようには見えませんわ」
 と、ホワイト夫人は丁寧に言った。
「わしも、インドには、一度行ってみたいものだな」
 ホワイト氏は言った。
「何、ちょっとした観光で充分だがね」
「いや、ここに優るところはありませんよ」
 モリスは首を振りながら言った。そして、空になったグラスを置き、静かにため息をついて、もう一度首を振った。
「古い寺院や、行者、それから大道芸人なんかも見てみたいな」
 ホワイト氏は続けた。
「そういえば、モリス。この間わしに、猿の手がどうとか言いかけたのは、あれは一体…?」

「いや、あれは何でもないんです」
 モリスは慌てたような口ぶりだった。
「つまらない話ですよ。わざわざ聞かせるほどのことじゃありません」

「猿の手?」
 ホワイト夫人が物珍しそうに訊ねた。
「まあ、言うなれば、魔術の類いでしょうね、おそらく」
 モリスはぼそりと言った。

 三人は身を乗り出した。モリスは気もそぞろにグラスを口へ運び、それがすでに空であることに気がついて再び置いた。ホワイト氏がそのグラスにウイスキーをなみなみと注いだ。

「見た目は――」
 モリスはポケットを探り始めた。
「何の変哲もない、小さな手のミイラなんですがね」

 ポケットから取り出した物を、前へ差し出した。夫人は気味悪そうに身を引いたが、息子は手にとって、物珍しそうに眺め回した。
 ホワイト氏は息子からそれ受け取ると、じっくりと調べた後、テーブルに戻しながら訊ねた。
「それで、これの何が特別なんだ?」

 モリスは説明した。
「これには、年老いた行者の魔法が掛けられているのです。たいそう徳の高い行者です。その行者は、人の一生は運命により決まっていて、その運命に干渉しようとすると不幸が訪れると考えていました。そこで、そのことを示すために、この猿の手に、三人の人間が、それぞれ三つの願いを叶えることができるよう、魔法をかけた」

 三人は思わず小さな笑い声を漏らした。しかし、モリスの様子がひどく真剣だったので、これは冗談を言っているのではないらしいと思い直した。

「それなら、あなたが、三つの願い事をしてみてはどうです?」
 ハーバートが切り返した。
 モリスは、ハーバートに目を向けた。生意気な若造を見慣れた中年男の目だった。
「やったよ」静かにそう言った。
 落ち着いた口調ではあった。しかし、シミの浮いたその顔からは、血の気が引いていた。

「それで、三つの願いは、本当に叶ったのですか?」
 ホワイト夫人が訊ねた。
「叶いました」
 答えたモリスの丈夫な歯にグラスが当たり、カチカチと音を立てた。
「では、他にも、願い事をなさった方は?」
 ホワイト夫人は重ねて訊ねた。
「はい。最初の男も三つ願いを叶えました。彼の一つ目と二つ目の願いが何だったのかは、私は知りません。しかし、――三つ目に、彼は死ぬことを願った。――そういうわけで、私がこの手を持つに至ったのです」

 そのあまりにも重々しい口調に、一同はしんと静まりかえった。

 やがて、ホワイト氏が口を開いた。
「しかし、モリス。君が三つとも願いを叶えたのなら、それは最早君にとっては何の意味もないものだろう。それなのになぜ、それを持ち続けているのかね?」

 モリスは首を振り、「いろいろ、考えました。いろんなことを」と、ゆっくりと言った。
「実際、売ろうと考えたことも何度かありました。しかし、今はもう、そのつもりはありません。嫌と言うほど災いが降りかかったんです。
 第一、結局は誰も買わないでしょうよ。大抵の人はおとぎ話だと思って信じないだろうし、多少信じたにしたって、実際に効果を試す前に金を払うのは二の足を踏むでしょうし」

 ホワイト氏は、モリスをじっと見据えた。
「もしも、君がもう一度三つの願いを叶えられる方法が見つかったら、君は、やるのかね?」

「わかりません。――わかりません」

 モリスは猿の手を取り、親指と人差し指でぶら下げていたが、突然、炎の中に投げ込んだ。
 ホワイト氏は、アッと叫ぶと、急いでかがみ込み、炎の中からひったくるように取り出した。

「燃やしてしまったほうがいい」
 モリスの声は真剣だった。
「モリス、君が要らないのなら、わしにくれ」
 ホワイト氏の申し出に、
「いけません」
 モリスは頑として言い張った。
「私はそれを燃やすことに決めたのです。それを曲げて手にするのなら、そのことで何が起っても、私は責任を取れませんよ。分別ある大人らしく、それを炎の中に戻してください」
 ホワイト氏は首を振った。ホワイト氏は、最早手放すつもりはないらしく、手にした猿の手をしげしげと眺めた。
「これは、どうやるんだ?」
「右手に持ち、高く掲げて、声に出して願うのです。しかし、やめておいた方がいい。あとあと何が起るかわかりませんから」

「まるでアラビアンナイトのようなお話ね」
 ホワイト夫人は言いながら席を立つと、夕食の準備に取りかかった。
「あなた、忙しい私のために、腕を八本お願いしよう、なんて考えてないでしょうね?」
 ホワイト氏が魔法の手をそっとポケットから引き出してみせたので、三人はどっと笑った。
 すると、モリスは警戒の表情を浮かべ、ホワイト氏の腕を掴んだ。
 そして、その口調からも、愛想の良さを保つ余裕は失われていた。
「どうしても、願い事をするのであれば、分別ある賢明な願いになさい。よくよく考えて決めたほうがいい」

 ホワイト氏は、猿の手をポケットにしまった。そして、椅子を並べて、モリスを食卓へと案内した。
 夕食の間、誰ひとり、猿の手のことを口にする者はいなかった。
 そして食後は、再びモリスの口から、インドでの冒険譚が繰り広げられた。ホワイト一家はそれを、いかにも夢中で聞き入っているような素振りで聞いていた。

 モリスは、最終列車で帰路につくべく、ホワイト氏の邸宅を後にした。
 それを見送り、扉を閉めると、息子のハーバートが口火を切った。
「さっきの話を聞く限りでは、猿の手も、大した御利益はなさそうだね。あまりにも嘘くさい」
「あなた、あの方に、お礼に何か差し上げたんですか?」
 ホワイト夫人が、夫をじろりと見つめて問いただした。
「ほんの少しだ」
 そう答えながらホワイト氏は顔を赤くした。
「要らないと言われたが、ただで貰うわけにもいかんだろう。それでもあいつは、それを捨てろと、くどくど繰り返しておったが」
「災いが訪れるかもしれないからだろ」
 ハーバートはわざとらしく怯えてみせた。
「金持ちになる、有名になる、幸せになる、そのための代償ってわけだ。そうだ父さん。手始めに、皇帝になりたい、って願ってみなよ。そうすれば母さんの尻に敷かれずにすむじゃないか」
 ホワイト夫人が椅子のカバーを振り回して追いかけ、ハーバートはテーブルの周りを逃げ回った。

 ホワイト氏は、ポケットから猿の手を取りだして、半信半疑といった風情で眺めていた。
「正直なところ、一体何を願えばいいのか、全く思いつかんよ。欲しいものは、もう、みんな持っているような気がする」
「家のローンを完済できたら、父さんも嬉しいんじゃないか?」
 ハーバートがホワイト氏の肩に手を置いた。
「そうだな、200ポンドくださいとでも、お願いしてみなよ。それだけあれば充分足りるだろ?」

 ホワイト氏は、わしもつくづくのせられやすい性分だと、気恥ずかしげな笑みを浮かべそして、おもむろに猿の手を掲げた。ハーバートも、いかにも真面目くさった顔をしていたが、いたずらな目で母親にウインクをすると、ピアノの前に座り、恐ろしげな和音をいくつか叩いてみせた。
「我に、200ポンドを授けたまえ」
 ホワイト氏は確りと唱えた。
 その言葉に続いて、ハーバートがピアノの鍵盤を叩く。
 その時、ホワイト氏が悲鳴をあげ、持っていた猿の手を放り出した。
 夫人と息子は、父のもとに駆け寄った。

「動いたんだ!」
 ホワイト氏は喘ぎ、床の上に転がっている猿の手を、気持ち悪そうに見やった。
「願いを唱えたら、手の中で、蛇のようにうねりおった」

「うーん、お金は見当たらないよ?」
 ハーバートが、猿の手を拾い上げ、テーブルの上に置いた。
「これが独りでに動くなんて、ありえないと思うけどなあ」
「きっと気のせいよ、あなた」
 夫人もそう言いながら、しかしこちらは夫を心配そうに見つめている。
 ホワイト氏は、頷いた。
「そうだな。忘れてくれ。しかし、何も悪いことが起こらなくてよかったとはいえ、流石に心臓が止まるかと思ったよ」

 三人は再び暖炉の傍に腰を下ろし、男二人は煙草をふかした。
 外では、風がますます強くなっていた。ホワイト氏は、二階のドアが音を立てるたびにびくりと緊張した。
 いつになく重苦しい沈黙に包まれていた。
 夜が更けるまで、皆、一言も口にしなかった。

 ホワイト夫妻が寝室に向かうために腰を上げると、ハーバートが、おやすみの挨拶を口にしながら、こんなことも言った。
「ベッドの真ん中に、お金の詰まった大きな袋があるかもね。そして、恐ろしい何かが、洋服箪笥の上に座っていて、父さんが、悪銭を懐に入れるのを、じっと見てたりして」

 両親が寝室に引き上げた後、ハーバートは一人、暗闇の中に座ったまま、暖炉の炎が消えていくのを眺めていた。
 そのとき、炎の中に、顔のようなものが見えた。
 幾つもの顔が浮かんでは消え、最後に浮かんだのは、ひどく恐ろしい猿の顔だった。
 ハーバートは、愕然として、それを凝視した。
 その顔は余りにも鮮明だった。
 ハーバートは、ややぎこちない笑みを浮かべ、テーブルを探り、グラスを掴むと、中に少しばかり入っていた水をその顔に向かってぶちまけた。
 もう片方の手は、猿の手を握りしめていたが、小さく身震いをしてその手を離し、上着で手を拭うと、寝室へと向かった。

第二章

 翌朝、冬の陽射しが差し込む、明るい朝の食卓で、ハーバートは、昨夜の恐怖に戦いた自分を笑い飛ばすことにした。一夜が明けて、部屋には打って変わって、いつも通りの健全な空気が戻っていた。
 そして、あの汚く干からびた小さな猿の手も、棚の上に無造作に置かれている。これに不思議な力があるなどとは、やはり皆信じられないのだ。

「長いこと軍隊にいると、誰でもああなるのかも知れませんけど」
 と、ホワイト夫人は言った。
「あんなばかげた話を、聞かされるとは思わなかったわ! 今時、魔法で願いが叶うですって? それに、万が一それが叶ったとして、その200ポンドが、どう災いをもたらすというのかしら。ねえ、あなた」
「空から頭に直撃するのかもな」
 と、ハーバートが戯けて言う。
 ホワイト氏は言った。
「モリスは、それはとても自然な形で起るのだと、言っていた。ともすればそれは、偶然だとしか思えないかもしれない、と」

「さてと、それじゃ、僕が帰ってくるまで、お金はそのままにしておいてくれよ」
 ハーバートが席を立ちながら言った。
「父さんが金に目のくらんだ強欲な人間に成り下がって、僕らが父さんと縁を切らなきゃいけなくなるのは、嫌だからね」
 ホワイト夫人は、笑いながら、ハーバートを玄関で送り出し、道を歩いて行く息子の後ろ姿を見送った。そして、食卓に戻ると、ホワイト氏が眉唾話をうかうかと信じ散在する羽目になったのを、ひとしきり面白がった。
 そのくせ、郵便配達員が玄関をノックするとすっ飛んでいき、郵便配達員が持ってきた物が仕立屋の請求書だとわかると、私もあんな酒好きの退役軍人さんの言うことを真に受けちゃってと、呟くのだった。

 夕食の席で、ホワイト夫人は言った。
「ハーバートったら、帰ってきたら、また何か面白いことを言うのでしょうね」
「お前たちはまた笑うかもしれんがな」
 ホワイト氏は自分のグラスにビールを注ぎながら、言った。
「やっぱりあれは、わしの手の中で動いたんだ」
「動いたような感じがしたんでしょう」夫人は取りなし顔である。
「本当に動いたと言っておるだろう。あれは絶対に、気のせいなんかじゃない。わしは確かに、――ん、どうした?」

 夫人からの返事はなかった。
 夫人は、家の外でひとりの男が不審な動きをしているのを見ていた。
 その男は、何かを決めあぐねる素振りで家の中を覗き込んでは、やはり入ろうと覚悟を決めようとしている、といった様子であった。
 200ポンドのことが夫人の脳裏をよぎったせいもあろう、その男は身なりが良く、光沢のある新品のシルクハットをかぶっているのが見て取れた。
 男は三度、門の前で立ち止まっては歩き出すことを繰り返した。四度目で、ようやく門に手をかけ、意を決したように門を開け、小道をやってきた。
 ホワイト夫人は、瞬時に腕を後ろに回し、急いでエプロンの紐をほどいて、着古したそれを椅子のクッションの下に隠した。

 夫人は、男を部屋に通した。
 男は、どこか落ち着かない様子だった。
 そして、夫人の方をチラチラと見ながら、老婦人が、部屋が散らかっておりまして、とか、主人が野良着のままですみません、とか言うのを、どこか上の空で聞いていた。
 ホワイト夫人は、男が用件を切り出すのを、女性にしては精一杯辛抱強く待っていた。
 しかし、男はどういうわけか、なかなか口を開かなかった。

 やがて、
「私は、こちら様をお伺いするようにと、言付かって参ったのですが――」
 男はようやく切り出した。が、俯き、ズボンの糸くずをつまみ取ったりしている。
「申し遅れました。私、モウ&メギンズ社の者です」

 ホワイト夫人は、矢も盾もたまらず、息せき切って問い詰めた。
「何かあったんですか? ハーバートがどうかしたんですか? 何があったんですか。何が」
「まあまあ、母さんや」
 ホワイト氏が慌てたように割って入った。
「ちょっと座れ。そう急かすもんじゃない。何も悪い知らせだと、決まったわけでもなかろう。――そうでしょう?」
 そう言いながらも、その目は不安げに先を促している。

「お気の毒ですが……」
「息子が、怪我でもいたしましたの!?」
 詰め寄る夫人に、男は頷いた。そして項垂れ、静かに続けた。
「ひどい怪我でした。しかし、彼はもう、苦しんではおりません」
「ああ、よかった!」
 夫人は両手を組んだ。
「神様、ありがとうございます! 本当に、ありが――」

 言いかけて、夫人は凍り付いた。
 男が「もう苦しんではいない」と断言したことの不吉な意味に思い至ったのである。
 夫人の視線から逃れるかのように男が顔を背けるのをみて、夫人はその恐れが真実であることを悟った。
 夫人は息を呑み、未だ気づいていない夫に振り返って、自らの震える手を、夫の手の上に重ねた。
 長い沈黙が続いた。

 やがて、男は低い声で告げた。
「ご子息は、機械に巻き込まれました」
「機械に、巻き込まれた」
 ホワイト氏は、呆然と繰り返した。
「そう、ですか」
 ホワイト氏は、立ち上がることも出来ず、窓の外をぼんやりと見つめていた。そして、妻の手を取ると、両手でしっかりと握りしめた。四十年前、かつて恋人同士だった頃にはよくそうしていたように。
 そして、男の方に静かに向き直った。
「あれは、我々にとっては、かけがえのない、一人息子でした。実に……無念だ」

 男はひとつ咳払いをすると、立ち上がり、ゆっくりと窓の方へ歩いた。そして、そのまま、誰を見るともなく、言った。
「この度のご不幸に心よりお悔やみを申し上げます。ただ、私は、社の意向をお伝えに参りました一社員にすぎませんので、そこはご了承を願いたく…」

 二人は絶句した。
 老いた夫人の顔は蒼白で、目はじっと見開かれたまま、息もできぬほどであった。
 夫もまた、あの曹長も初めて戦場に立ったときにはこんな顔をしたろうというような表情である。

 男は続けた。
「私どもと致しましては、その、……モウ&メギンズ社は責任を負いかねるという立場でございまして。――つまり、過失による賠償ということではありませんけれども、しかしながら、我が社に勤務しておられたご子息の功労を考慮致しまして、幾ばくかの見舞金を支払わせていただきたいと考えております」

 ホワイト氏は、妻の手を落とした。
 そして、椅子から立ち上がると、この訪問者を、恐怖に満ちた顔つきで、凝視した。
 乾いた唇が、かろうじて言葉を形作った。
「幾ら、なのですか」

「200ポンド、ご用意します」
 それが答えだった。

 妻の悲鳴も聞こえないのか、ホワイト氏の顔には、茫漠たる微笑すら浮かんでいた。
 そして、突然目の前が闇に包まれたかのように両手を伸ばしたかと思うと、そのまま意識を失い、俯せに床に倒れ込んだ。

第三章

 家から二マイルほど離れたところにある、広く新しい墓地に、老夫妻は死んだ息子を埋葬し、帰宅した。家は、ひっそりと暗い影を落とし、静寂に包まれていた。
 事は滞りなく進み、それはあまりにも呆気なく、それ故に、しばらくは二人とも、何が起ったのかよくわからないような心持ちだった。
 そして彼らは、息子の死とは別の何かが起ることを、縋るように待ち続けた。別の何か――それが起こりさえすれば、老いた二人の心に重荷のようにのしかかる苦しみが、幾分か軽くなるような気がした。そうでもしなければ、とても耐えられなかったのだ。
 しかし、日が経つにつれ、そんな希望は、次第に諦めに変わっていった。ともすればそれは、老人特有のアパシーとも見紛うほどの、絶望的な諦念であった。
 ときには、一言も言葉を交わさないことすらあった。話すべきことなど、失くなってしまったのだった。一日一日が、倦み疲れるほどに長かった。

 それから一週間ほど経った頃である。
 ホワイト氏は、夜中に突然目を覚ました。手を伸ばすと、隣に妻がいないことに気がついた。
 ホワイト氏は、ベッドの上で体を起こし、耳をすませた。
 真っ暗な部屋の中で、窓の方から、押し殺したようにすすり泣く声が聞こえてきた。

「こっちへおいで」
 優しく声をかけた。
「そこは寒いだろう」
「あの子はもっと寒い思いをしてるわ」
 そう言うと、夫人はまた泣き出した。
 妻のすすり泣く声が、だんだんと、ホワイト氏の耳から遠くなり、消えていった。ベッドは温かく、瞼は眠気で重い。いつしか彼はうつらうつらと眠りに落ちていた。
 そのとき、夫人の突然の叫び声に、ハッと目を覚ました。

「猿の手よ!」
 夫人は狂ったように叫んでいた。
「猿の手があるわ!」

 ホワイト氏は、ギョッとして起き上がった。
「どこだ? どこにあるって? いったいどうしたんだ」
 夫人はよろめきながら、夫に近寄ってきた。
「あれが要るのよ」
 夫人の声はやけに落ち着いていた。
「まだ燃やしてないわよね?」
 ホワイト氏は、訝しげに答えた。
「客間の、棚の上にあるが。でも、なぜ」
 夫人は泣き笑いをしながら、身を屈め、夫の頬にキスをした。
「たった今、思いついたの!」
 夫人はヒステリックに言い募った。
「どうして今まで思いつかなかったのかしら。なぜあなたも、気づいてくださらなかったの?」
「気づくって、何を」
 夫の問いかけに、夫人は即答した。
「願い事は、まだ二つ残っているのよ。一つしか使ってないんですもの」
 ホワイト氏は憤然と声を荒らげた。
「こんな目に遭いながら、まだ足りないのか!」
「ええそうよ」
 夫人は得意げだった。
「もうひとつ、願い事をすればいいのよ。下に降りて、急いでとってきてくださいな。そして、願い事をするんですよ。『息子を、もう一度、生き返らせてください』って」

 ホワイト氏は、ガタガタ震えながら、布団をめくり上げ、ベッドの上に座り直した。
「何てことを…お前、気は確かか」
 愕然とするホワイト氏に、夫人は喘ぐように迫った。
「とってきてください。早くとってきて。そして、願い事を――あの子を、あの子を」
 ホワイト氏はマッチで蝋燭に火を灯した。
「とにかく横になりなさい」
 ホワイト氏は狼狽を隠せなかった。
「お前は、自分が何を言っているか、わかっておらん」
 夫人は熱に浮かされたように口走った。
「最初の願いが叶ったんですもの。次の願いだって、きっと叶うはずよ」
「偶然だ」
 言い淀むホワイト氏に、
「取りに行って。そして、願い事をしてください」
 夫人は、興奮したように震えながら喚いた。
 ホワイト氏は、夫人を慮るように向き直り、声を震わせた。
「あれが死んでからもう十日も経っている。それに、――お前には黙っておくつもりだったんだが、わしは、服装でしか、あの子だと判別がつかなかったんだ。あの時ですら、お前にはとても見せられたものではない状態だったんだぞ。だとしたら、今はどうなっていると思う?」
「あの子を取り戻して」
 夫人は、ホワイト氏をドアへと引っ張った。
「私がこの手で育てた子供を怖がると思ってるの?」

 ホワイト氏は階下に降りていった。真っ暗闇の中、そろそろと客間に入り、手探りで暖炉の出っ張りを伝い歩いた。
 猿の手は、その場所にあった。
 それに触れた途端、恐怖に囚われ戦慄した。
 言葉に出していないのに、猿の手が、ぐしゃぐしゃになった息子を目の前に連れてくる、そして自分は、部屋から逃げられずに――。
 ホワイト氏は、部屋のドアの方向がわからなくなってしまったことに気づき、息を呑んだ。
 額に冷や汗が流れる。テーブルの周りを伝い歩き、手探りで壁を進み、そして、やがて、小さな廊下に出たことに気づいた。
 ホワイト氏は、自分が、何か不吉なものを手にしている気がしてならなかった。

 二階の寝室に戻ると、妻の顔までが、どこか変わったように見えた。
 その顔は、蒼白で、それでいて、期待に満ちていた。恐怖に囚われていた彼には、その目つきが、尋常ではないように思われた。
 妻が、恐ろしかった。

「お願いしてください」
 夫人は強い声音で迫った。
「ばかなことを。きっと良くないことが起こる」
 ホワイト氏はたじろいだが、
「お願いしてください」
 夫人は繰り返すばかりだった。

 ホワイト氏は、手を上に掲げた。
「我が息子を、再び、蘇らせたまえ」

 猿の手が床に落ちた。
 ホワイト氏は、それを、恐怖に満ちた目で見つめていたが、やがて、震える体を椅子に沈めた。
 夫人は、爛々とした目で、窓に歩み寄り、ブラインドを上げた。

 ホワイト氏は座ったまま、悪寒に身を震わせていた。そして、時折、窓の外に目を凝らしている夫人の姿に目をやった。
 蝋燭の炎が、陶器の燭台の縁の下に蝋を垂らし、天井や壁に、脈打つように揺らめく影を描いていた。やがて、一際大きく揺れたかと思うと、ふいと消えてしまった。
 ホワイト氏は、まじないは失敗したのだと思い、えも言われぬ安堵を覚えた。そろりそろりとベッドに戻ると、一、二分後、夫人も無言のまま、うち沈んで、戻ってきた。

 二人とも、何も言わず、ただ静かに、時計の針が時を刻む音を聴いていた。
 階段がきしみ、鼠が鳴き声を上げながらどこかの壁を走り回る。
 暗闇が、重く、のしかかる。
 しばらくは横になっていたが、やがて意を決して、ホワイト氏はマッチ箱を手に取った。そして、一本取り出して火を点けると、蝋燭をとりに、階段を降りていった。

 一階に降り立ったところで、マッチの火が消えてしまった。ホワイト氏は、二本目に火を点けようとして立ち止まった。
 そのとき、かろうじて聞き取れるくらいに、静かに、ひっそりと、ドアを叩く音がした。
 玄関のドアだった。

 マッチがホワイト氏の手から滑り落ち、廊下に転がった。ホワイト氏は、凍りついたように、息を殺して立ち竦んだ。
 再び、ドアが叩かれた。
 ホワイト氏は弾かれたように身を翻すと、素早く部屋に駆け戻り、後ろ手にドアを閉めた。
 三度目のノックの音が部屋まで聞こえてきた。

「何の音?」
 夫人は鋭く叫び、起き上がった。
「鼠だ」
 ホワイト氏は震える声で言った。
「鼠だよ。階段で、わしの横を走って行きおったんだ」
 夫人は起き上がったまま、耳を澄ませている。
 大きなノックの音が、家中に響き渡った。

「ハーバートだわ!」
 夫人はドアに駆け寄ろうとした。しかし、ホワイト氏がその前に立ちはだかり、夫人の腕を掴んで確りと抱き留めた。
 そして、かすれた声で囁いた。
「何をするつもりなんだ」
「あの子よ。ハーバートよ!」
 夫人は泣き叫びながら、我を忘れたようにもがいた。
「すっかり忘れてたわ。二マイルも離れたところにいたってこと。あなた、どうして私を離してくれないんですか。行かせてください。ドアを開けてやらなきゃ」
「頼むからあれを中に入れないでくれ」
 ホワイト氏の声は震えていた。
「あなた、自分の子を怖がってるんですか?」
 夫人は尚も足掻いた。
「離して、ください。今行くわ、ハーバート。今行きますからね」

 ノックの音がまた一度、さらにもう一度、聞こえた。
 夫人は突然身をよじり、夫を振り切って、部屋を駆け出して行った。ホワイト氏は、踊り場へと追いかけながら、急いで階段を駆け下りる夫人の背中に、行くな、ドアを開けるなと訴えかけた。
 ドアチェーンがカチャカチャと外れ、閂が鍵穴からゆっくり引き抜かれる硬い音がした。
 すると、切羽詰まったように喘ぐ夫人の声がした。

「閂が」
 夫人は泣き叫んでいた。
「あなた来てください! 私じゃ届かないの」

 しかし、ホワイト氏は、寝室の床を這いずり回って、手探りで、あの猿の手を探し続けていた。
 あれが、中に入ってくる前に、見つけることが出来さえすれば。
 ドアは今や完全に乱打され、その音は家中に響き渡っている。
 妻が椅子を引きずり、ドアにもたせかけるように置く音がする。
 閂が軋んだ音を立て、ゆっくりと引き抜かれる。
 そのとき、ホワイト氏は、猿の手を探り当てた。
 ホワイト氏は、必死で、三つめの、最後の願いを、吐き出すように一気に唱えた。

 ドアを叩く音が、突然止んだ。
 その残響が、未だ家の中に続いていた。
 椅子が引き戻され、ドアが開く音がした。
 冷たい風が階段を吹き上がってくる。
 やがて、失望と悲しみに満ちた、妻の長い慟哭が聞こえてきた。
 それを聞いてようやく、ホワイト氏は、自らを奮い立たせて、妻の傍へ駆け下りていき、それから、門の表に走り出た。
 向かいの街頭がチカチカと明滅し、人気のない、静まり返った道を、照らしていた。

付記

※文法には必ずしも忠実ではありませんが、できる限り、誤訳はないようにしたつもりです。
※現代の価値観にそぐわないかもしれない箇所も、原文の内容を尊重してそのまま訳してあります。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?