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篤く三宝を敬え

現在は政治・社会的な戦争の最中。
偽パンデミック騒動後の世界は思想・宗教戦になるかもしれない。
今のうちに、あなたの根幹となる信条・思想を固めておこう。
まずは、「外道」を捨てて仏道に就くことが求められる。

「外道」という言葉を何気なく使っているが、「外道」の本当の意味と使い方を知っているかい?
鬼畜のような酷い行いをする人を罵って言うときに使われるが、本来の意味はもっと広範囲に及ぶ。
仏教以外の一切の思想・学問は外道なのだ

今、世間で流行っているスピリチュアル思想は外道
信者の多いキリスト教も外道。
マルクス主義や民主主義
――近代から興った〇〇主義と付く思想も外道。
量子力学などの科学を絶対視するのも、また外道……

あらゆる思想や宗教も「行き着く先は同じ」と主張している人がいるが、それは誤り。
仏道の行き着く先、それはあらゆる思想や宗教とは異なる。
人間が信条とすべきもの、思想の根幹とすべきものは、仏法だけです

あつく三宝を敬え。三宝とは仏・法・僧なり、則ち四生の終帰、万国の極宗なり。何れの世、何れの人かこの法を貴ばざる。人、はなはだ悪しきもの鮮し、能く教うれば従う。それ三宝に帰せずんば、何をもってか枉れるを直くせん。

聖徳太子『十七条の憲法』第二条

三帰戒

三帰サンキとは「三宝に帰依する」こと。
三宝は「仏・法・僧」
仏に帰依し、法に帰依し、僧に帰依する。
仏は正しい師、法は正しい法、僧は正しい修行者。
よって、仏以外の師は邪師、正法でないものは邪法、正衆でない者は邪衆である。
邪師と邪法と邪衆を離れ、前者に帰依することが正しく三宝に帰依することである。

帰依仏

仏とは仏陀ブッダ。「覚者」「知者」
自ら悟り、他を悟らせる。故に「仏」という。
帰依
帰依キエの「帰」は反還という意味。邪師に反して正師に仕えることを「帰」という。
「依」とはよりすがること。心の霊覚に依る。
仏に帰依すれば、三塗サンズ(三悪道)、及び三界・生死を出ることができる。
故に経に云く「仏に帰依する者は、終に諸々の天神に帰依することはない」と。

天皇崇拝していませんか?天皇よりも釈迦のほうが偉いのです
我が国の皇室は代々釈迦(三宝)を崇拝して聖徳太子を祀っています。
明治以降の偽天皇はともかく、天皇でさえ釈迦に帰依しているのだから、我々国民は釈迦の弟子である天皇を絶対視する必要はないのです。
人として崇めるべき方はお釈迦様だけです。

帰依法

法は達磨ダルマ
「法」とは則るのっとべきものをいう。大聖(仏)が説いた教えやことわり心の規範とするべし。故に「法」という。
帰依
「帰」とは邪法に反し、正法に立ち返ってそれを修めること。
「依」とは仏の所説に依る。仏説を拠りどころとする。
法に帰依すれば、三塗、及び三界と生死(輪廻)を脱することができる。

スピリチュアルの教義は邪法です。キリスト教も邪法。マルクス主義も邪法。科学も邪法。
スピリチュアルの教えを基本としない。せい書の言葉にすがらない。科学を絶対視しない。巷の〇〇主義に染まらない。
これらの教えを「断捨離」して、仏の言葉を基準にして物事を考える。これが法に帰依するということです。

帰依僧

僧は僧伽ソウガ。「衆」ともいう。
「衆」は和合をいう。出家して三乗を修行し、自分の心と仏の言葉が、事も理も和合している。これを僧という。
帰依
「帰」とは九十五種の邪行の侶に反すこと。出家して三乗を正しく修める者を伴とする。これを「帰」という。
「依」とは出家して三乗を正しく修行する者に心を委ねる。
僧に帰依すれば、三塗、及び三界・生死を脱することができる。
故に経に云く「僧に帰依する者は、永く諸々の外道に帰依することはない」と。

既存の宗教団体に属さない。誤った思想や主張を掲げている組織に加わらない。その人たちの中にいると、自分まで毒されてしまいます。
・熱心なクリスチャン、創価学会や統一教会、幸福の科学などの宗教信者
スピリチュアルを盲信している人
・科学一辺倒の学者
マルクス主義、拝金教――社会に隷属して労働や金儲けを絶対視する俗人、○○主義にはまり込んでいる人
挙げればきりがないですが、要するに仏教以外の教えを信条として邪法に染まっている人たちです

釈迦は正覚を成じた後、まず提謂ダイイ長者に因せて三帰の戒を授けた。
邪を翻し正に帰することが、聖に入る根本である。三乗の行者は宗(仏道)に帰して修行を進める。これが始めの務めである。
三帰の功徳は、三邪を破り、三塗を度す。三乗を接し、三有を出ず。
仏法はこの三帰が根本である

二には月氏の外道、三目八臂の摩醯首羅天・毘紐天、此の二天をば一切衆生の慈父非母、又天尊主君と号す。
迦毘羅・ウ楼僧ギャ・勒娑婆、此の三人をば三仙となづく。此等は仏前八百年、已前已後の仙人なり。此の三仙の所説を四韋陀と号す、六万蔵あり。乃至仏出世に当たって、六師外道、此の外経を習伝して五天竺の王の師となる。支流九十五六等にもなれり。一々に流々多くして、我慢の幢高きこと非想天にもすぎ、執心の心の堅きこと金石にも超えたり。其の見の深きこと巧みなるさま、儒家にはにるべくもなし。
或は過去二生・三生・乃至七生・八万劫を照見し、又兼ねて未来八万劫をしる。其の所説の法門の極理は、或は因中有果、或は因中無果、或は因中亦有果亦無果等云云。此外道の極理なり。
所謂善き外道は五戒・十善戒等を持ちて、有漏の禅定を修し、上、色・無色をきわめ、上界を涅槃と立て屈歩虫のごとくせめのぼれども、非想天より返って三悪道に堕つ。一人として天に留まるものなし。而れども天を極むる者は永くかへらずとをもえり。
各々自師の義をうけて堅く執するゆへに、或は冬寒に一日に三度恒河に浴し、或は髪をぬき、或は巌に身をなげ、或は身を火にあぶり、或は五処をやく、或は裸形、或は馬を多く殺せば福をう、或は草木をやき、或は一切の木を礼す。此等の邪義其の数をしらず。師を恭敬する事諸天の帝釈をうやまい、諸臣の皇帝を拝するがごとし。
しかれども外道の法九十五種、善悪につけて一人も生死をはなれず。善師につかへては二生三生等に悪道に堕ち、悪師につかへては順次生に悪道に堕つ。外道の所詮は内道に入る 即ち最要なり
或外道云はく「千年已後仏出世す」等云云。或外道云はく「百年已後仏出世す」等云云。
大涅槃経に云はく「一切世間の外道の経書は皆是仏説にして外道の説に非ず」等云云。
法華経に云はく「衆に三毒有りと示し又邪見の相を現ず、我が弟子是くの如く方便して衆生を度す」等云云。

日蓮『開目抄』

参考:『法界次第初門』


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