境界線を意識したことがありますか?/どこかにある会議室から:1

河嶌レイ、篠田くらげ、蒼井灯。この三人からなるサークル「嶌田井書店」では、凡そ年に一度、秋の文学フリマ東京に店を構えます。

今年は何をやりましょうかと企画を練っていたところ、店主の河嶌から挙がったのが「境界線」をテーマとした冊子。

「境界線」?どういう冊子にしよう?冊子の前振りとして、打ち合わせがてら、メンバー同士の座談会をWEBに載せてみようか?そんな話が出て、ある夏の盛り、三人はこの世のどこかにある嶌田井書店の一室に集まったのでした。口々に「暑いですね」とぼやきながら。


■7月某日、嶌田井書店会議室にて

篠田:それでは始めましょう、嶌田井書店プレゼンツの鼎談です。私は篠田くらげです。読者の方に軽く自己紹介を、レイさんから。

河嶌:それではみなさま、嶌田井書店の主人河嶌レイです。

蒼井:こんにちは、スタッフの蒼井灯です。

篠田:さて、まず本日のテーマが「境界線」ということでして、ざっくりしたイメージと言いましょうか、概要と言いましょうか、そういうものをレイさんに伺えますか?

河嶌:はい。わたしは現在海外在住ということで、その中でいろいろな場面での境界線を感じるんです。わたしはよそ者だなあ。ここから先へはなかなか行けないなあとか。それと日本へ戻った時にも感じるんですよね。わたしは少し外れちゃったのかな?という場面が沢山あって。でもそれは案外昔から感じていたことでもあったので、本当は日本・海外は関係なくて、そもそも人間関係やコミュニティの中に自然に感じることなのかもしれないと感じまして。
 ならばそれはわたしだけではなく、誰もが感じているものなのではないかと思って、これをテーマに嶌田井でなにかやりたいなと思ったわけです。

篠田:なるほど。所属、疎外、あるいはアイデンティティ、そういったことと考えてよろしいのでしょうか。その出会うところ、みたいな感覚ですか?

河嶌:何かと何かが出会う接点、なのかな。その接点(点なのか線なのか)とその周辺が非常に気になるわけです。

篠田:出会い、かあ。蒼井さんはそういうレイさんの感じておられることに対してはどのようにお感じになります?あるいは、蒼井さん自身が感じる境界線、みたいのでも。

蒼井:所属や疎外、接点というとベン図のようなイメージが湧いたのですけれども。そんな感じであっていますか?私は日本国内で暮らしているからなのか、ぱっとはなかなかわからないかもしれないです。具体的にどんなことでしょう?

河嶌:たとえば日本に暮らしていても感じることってないですか?自分のことでなくてもいいんです。あ、わたしこの集団に入れない、でもいいですし。他人のことでもいいかな?いわゆるマイノリティであるとか。

蒼井:マイノリティ……というと、マジョリティとマイノリティの境界線、というような感じです?

河嶌:そうですね。どこからがマジョリティでどこからがマイノリティなのか。はっきりとした境界線があるのかもしれないし、その線は極めて曖昧なのかもしれなくて。

篠田:先ほど蒼井さんがおっしゃっていたベン図を持ってまいりました。

(作図:篠田くらげ)

蒼井:ベン図が出た!ありがとうございます。この「ボーダーライン」が境界線ですよね。そこがもう少しぼやーっとしているかもしれないということですね。

篠田:ベン図も色々でして、丸がもっと重なっているように描くこともできるんですけれどね……。レイさん、この図はいかがでしょう、イメージにあう感じ?

河嶌:そうですね、領域も丸だと思ってしまうとなんとなく概念がそれに引っ張られる感じもするし……。ただボーダーラインの感じはそうですよね。

蒼井:「マイノリティ」で最近のトピックでいえばやっぱりLGBTでしょうか。実のところ私自身も当事者ではあるんですが、種類分けというか呼称が色々とありますよね。異性同性に限らず、パンセクシュアルであったりアセクシュアルであったり。このあたりは、レイさんの言う境界線が曖昧というイメージに近い気がします。

河嶌:セクシュアリティってものすごく繊細なトピックなので、逆にきっちり分けてしまう方が乱暴なんじゃないかとさえ思います。でも人間ってとにかく自分以外のものを理解するために、まずは仕分けしとけっていうモードになるんでしょうね。わたしは最近そう思うようになりました。自分が知らない世界を理解するために仕分けするのだけれど、それが問題を起こしたりする。

篠田:グラデーションがあるということになりましょうか。レイさんが興味をお持ちなのは、ある固定した領域というよりは、その境界部分ということになるんですね。

河嶌: そうなんです。わたしは境界線のあたりに興味があるんです。*1

*1 境界線が「boundary」か「border」か、というような話も交わされたがここでは割愛する。なお河嶌は「boundary」の定義「the real or imaginary line that marks the edge of a state, country etc, or the edge of an area of land that belongs to someone」(Longman Dictionary https://www.ldoceonline.com/ より)を主にイメージして「境界線」と言っているとのこと。

篠田:なるほどなるほどです。レイさんがそれに興味を持つようになったことについてもう少し聞きたいな。先ほど「案外昔から感じていた」とおっしゃってましたけど、どういうことを感じておられたのか、もう少し教えてほしいです。

河嶌:小学生時代から感じていたのですが、ひとはなぜ転校生を排除しようとするんだろうか?から始まって、その「転校生」が「障害児」になって「在日朝鮮人」になって「ゲイ」になって。「外人」だったりそれはもういろいろ。マイノリティってだけで、なぜそんなに集団で他人を排除したがるんだろうって思って。彼らはそんなに違うんだろうか?って思った時に、その周辺のことを知りたいと思ったんです。自分が海外に出て「外国人」になった時にヘイトにあったので、ますます興味が湧きました。くらげさんはそういう経験はありませんか?

篠田:あー。なんか、そんなに個性的な体験ではないんですけど。学校のときって「いっつも男子はふざけてて何なの」とか「女子はだまってろ」みたいな話になることありますよね。片方の性別ってだけでそんな風に決めつけられちゃうの、切ないなあと思ってました。

河嶌:うんうん。セクシュアリティの話も出ましたが、ジェンダーもそうですよね。

篠田:なんというか、概念の自明性、みたいのが疑わしくなるときってありますよね。「日本人と外国人」といっても、それなら両親で国籍が違ったらどうなの、とか。

蒼井:あー。分別というか、分類する根拠が曖昧な感じ。ありますね。

河嶌:分けようと思ったらいくらでも分けられますよね。何事も。

篠田:と自分で言いながら話をひっくり返すんですけど、「外国に行ってから日本人としての意識を強く感じた」みたいな話、聞くじゃないですか。レイさんはそういう方向にはならないで、どっちかというと「そんなに違うんだろうか」の方向にいったんですね。なんでそういう違いが出るのかなあ。

河嶌:もちろん色々あるんです。外国に行って、日本人としてのアイデンティティを考え直すということもあるし。でも「違い」に気づくのと同時に「同じ部分」にも気づいたりして。それって異文化コミュニケーションあるあるで、国内でもそうだと思うんですよね。お雑煮文化なんて地域性があって西と東が違うように。でも同じ日本人としてお米は好きだろうとか。

篠田:日本人は均質的な集団だと言われてきたわけですけど、必ずしもそうではないということなんですね。


■西と東の鏡像

蒼井:レイさんが西と東と仰いましたが、たしかに日本の中でも分けようと思えば分かれる……というか、関東と関西とで厳然とした違いがあったりもしますよね。くらげさんは以前、関西にも住まれていたと思うのですが、関東と関西で違うなーと感じられたことなどありましたか?

篠田:言葉が違う。東京の言葉は、やっぱりある程度距離感を置くための言葉っていうのはあると思います。関西の方がフレンドリーな感じはしますね。それがいいことか悪いことかっていうのは、また別というかその関係性次第というところでしょうけれど。

蒼井:言葉!なるほどです。方言として言葉が違うというのではなくて、言葉の用いられ方自体が違うということですね?地理的にここから何地方、という線って引けると思うんですが、そういう目に見える線とは違う文化の違いがあるっていうか。人との関わり方とか。

河嶌:ちなみに西と東の真ん中くらいの地域というのはどういう感じなんでしょうね。ことばやコミュニケーションの取り方など、どう違うんだろうって興味が出てきました。

篠田:もちろん関西の人が東京で暮らしたり、東京の人が関西で暮らしたり、関西の中でも大阪と京都と奈良と滋賀は違う感じがしますから、流動的ではあるのですけれどね。

蒼井:京都の方は「関西人って一括りにしないでくれます?」みたいなところありますよね(笑)。

河嶌:関西の中でもまたさらに分けられる。ふたつに分けたつもりでもまたさらに分けられてしまう。

篠田:大阪の中でもさらに分けられますし。

河嶌:境界線ってなんなんでしょうねー。あってなきようなもの、それが境界線。

蒼井:レイさんがそれ言っちゃあかんのでは……(笑)。

河嶌:いや、それこそが一番大事なんじゃ。境界線を引いてなにをしたいのか。なんのために引くのか。その周辺を探りたいのです。

蒼井:いま話していて思ったんですが、私は境界線と聞いて、「分類しようとしても分けきれない」とか「どのくらいの粒度で線を引くか」みたいなところにフォーカスしてしまったんですね。三人称の境界線、というか。でも、レイさんが先程言われていたのは「排除」とか「差別」とか、そういうニュアンスを含んでいたように感じました。

篠田:あ、境界線って「あるもの」じゃなくて「引くもの」ということなんですね。

河嶌:線って人間が引くものじゃないですか。わたしはそう思っていたんです。この世界に線はもともとなくてって……。

蒼井:おおおおおお。

篠田:ええええええ。

河嶌:ええええーーーー???違うのおおおおーー???動物って線を引かないんじゃ……あ、もちろん縄張りみたいなのはあるでしょうけれども……。

蒼井:「誰か」が引いた。「誰か」が「何か」のために引いた。そういう感覚ですか?

河嶌:線はひとがなにかをなにかと間違えないように分類するために引くのでは……ち……違うのですか?

篠田:いや面白い。分かるとは分けることから、なんていいますけど、そうか、分けたらわからなくなることもあるのか。

河嶌:え?だって図書館の本の分類とかそうじゃありませんか?

蒼井:私の中では「蓄積」なんですよね、割と。関東と関西で言えば、文化の蓄積。時間というか歴史の中でおのずと「分かれてきた」。それのどこに線を引くかはたしかに「その人次第」「その場の話題次第」なんですけど、なんとなく「こことここは違うよね」みたいなものは歴史の積み重ねでなんとなくあったものだというか。

河嶌:文化が出来上がったのは蓄積だとわかるのですが、関東勢が関西勢と出会った時に、自分たちとは違うとわかるじゃないですか。その時に「これだから京の殿上人は」とか「これだから東の人間は……」みたいな線引きが起きるのではないかと思ったのです。

蒼井:あーーそういう意味では、ぱっと阿吽の呼吸で理解できないものに対して「わからないことへの理由付け」のための線引きはありますね。あれ?すごくいまざわざわしてるの自分だけですか?

篠田:よし蒼井さん言語化していこう。

蒼井:自分としては、違う文化や違う文脈で生きてきたと思われる方と出会うと、「違う方だから共通語の範囲で話そう」「向こうの文化を(その場でぱっとできる範囲で)理解しよう」と思うわけです。うーんと……一対一で、対等で、東のものと西のものが出会って相互理解しようとするとそうなりますよね。東のものが複数vsひとりの関西人、または複数の関西人vsひとりのあずまもの、という構図になると、排除が起きる……といえば、起きるのか。

篠田:対等のとき。相互理解しようとしてるとき。

蒼井:です。自分のなかで、境界線、または、違うものとの対峙、といったときのイメージは、一対一でした。だから境界線もベン図のイメージだった。でもたぶんあれだ、レイさんのは、できあがったコミュニティの中に異物として一人入っていくときの話だ。それを境界線と呼んでるんだ。そうですね?

河嶌:ひとりのときもあるし、多勢に少数という感じもあるかな?

篠田:関西に東京者の家族が引っ越したみたいな?

蒼井:うーーんと、冊子にするときどうするかですよね。境界線という言葉から、一対一というか、異なって対等なもののボーダーのイメージを持つか、「コミュニティに割って入れない、疎外または排除」というイメージを持つかって、たぶん、とてもパーソナルなところで。どうしてそういうイメージを持つに至ったか、どうして世界をそのように見るか、というのは、ある意味、異なる文化のなかに飛び込んでいったレイさんの個人的な感覚、さっきの言葉を使うと一人称でしか語りえない部分があって。

篠田:世界観というか、人間観というか。

蒼井:ですね。でも、たしかにこの世にはそういう部分があって。逆に言えば自分はそういう異なる世界に触れない、ぬるま湯の中で生きてきたからレイさんのようにピンと来ていないというところはあるのかもしれず。

河嶌:本当に灯さんもくらげさんも、そういう自分とは違うコミュニティに迷い込んで悩んだことってないんです?

蒼井:そうだ、くらげさんは関東のご出身で、京都という排他的な土地に住まれたことがあるということで、少し、体験されているのかな?という気もするんですが。

篠田:京都は閉鎖的、というのも関東人が京都を理解するために持ち込んだコードではあるんですけどね。それはたぶん、東京人が引いてる境界線なんです。

蒼井:あーーー。まあ細かい話をするとどうしても違うところは出てくるんですよね。東京に出てきた京都人は普通にフランクだったりするし、京都の方も観光客にはおもてなしの心があったりするし。

河嶌:京都人同士なら「閉鎖的」とも思いませんものね。あ、待てよ、京都の友人も京都人は閉鎖的と言っていたなあ。

蒼井:でも京都人全般としてコードはあるような気はするし、逆にそのコードを逆輸入して自分たちを説明しているところはあるんですよね。

篠田:京都人は外部の人間に引かれた「あいつらは閉鎖的だから」というコードを逆輸入して自分たちのアイデンティティにしているのかもしれない。

蒼井:ですよね。「あらまあうちらって閉鎖的に見えるのかもしれませんなあ」「せやったらはじめっからそういうことにしといたら穏やかにいくのとちゃいますのん?」みたいな感じでしょうか(京都弁がインチキなのはご容赦くださいませ)。

河嶌:東京人に引かれた境界線を自分達でその上を蛍光ペンで引き直した感じ?

蒼井:「あんさんらから見たらこういうふうに見えるんです?うちら普通にしてるだけなんやけどもなあ……」と……(京都弁はインチキですが)。鏡像というか……定義付けとしてそういうものがあるコミュニティをしばることはあるのかなあとも思います。

篠田:それはありますね。

蒼井:ある意味、他の文化を意識するから出るものではあるんですよね。最近、Twitterで話題のネパール料理屋さんがあるんですが、そのアカウントが「ネパール人はたいていパリピです」って発言されたんですよ。ネパール人としてはパーティーをするのは当たり前の文化だったんですよね。でも、それを、あまりパーティーしない日本文化の中で説明するときに「パリピです」って自分たちで言う。

河嶌:うんうん。他文化と接触すると、自分たちの当たり前が、一気に当たり前じゃなくなりますからね。

篠田:他者の視点から見る自己を内面化したものが自身のアイデンティティになる例だ。

蒼井:で、そういう(ネパール人の例のような)アイデンティティを健全にアピールできていけるのはいいんですけど、そうできない圧力のようなもの、有形無形のヘイトなどの壁があって、排除なり差別なりされるという形もあるということですよね、……そうか……あるよな……。

篠田:それもあるし、ネパール人のパーティーと日本語のパリピは別概念だからアイデンティティが変質する。

河嶌:パーティーの意味がまず違いますよねきっと(ネパール人のパーティーと日本人のパーティー)。

蒼井:あーそれもある。ありますね。ええと、まず、パーティーをするしないの蓄積があるわけですよ。そこは暗示の境界線とでもいうのかな、そういうものがあって。でも「ネパール人はパリピです」と宣言することで線が明示的に引かれる。しかもパーティーの概念もパリピの概念も違う。

篠田:言語による概念化が二概念の差異を差異として浮かび上がらせた例だ。

蒼井:もうくらげさんを言語化マシーンと呼びたいですありがとうございます。で!それとはまた別に「排除」っていう軸があるんですよね。ちょっと意図的に話をつくりますけど、「外人がパリピとか知ったかぶりしてんじゃねえよ」とか「日本はパーティーとかやらねえんだよ、空気読めよ」みたいな発言があったとしたら(実際にはそんなやりとりはなく、例としてです)。こちらがレイさんの言う「境界線」ですよね。

河嶌:そうなんですけれど、たぶん日本では彼らがネパール人というだけでもう第一段階の境界線を引いちゃっているわけです。それは多分どこの国でもそうだと思うんですけれどね。そこに、「ネパール人は西洋人じゃないから」とか「ネパールってどこ?インド?」とかいろんな線が引かれてしまって、線が何重にも絡まってしまう。

篠田:境界線の人称問題だ。 


■たとえば「童貞問題」、そして境界線とラベリング

河嶌:たとえば「童貞問題」だって境界線の話で十分理解できると思ったんだけどなあ……。

蒼井:よしそこをもう少し詳しく語っていただきましょう。

河嶌:「童貞」っていう境界線を自分から引いちゃってるでしょう?どうしてそんなにその境界線を太く引いちゃうんだろうとか。

蒼井:自分というのは?

河嶌:童貞男子が自分から「童貞!!!」って叫んでるから、いやそんなに叫ばんでもよろし、とか。

蒼井:彼らはどうしてそのように叫ぶようになったのでしょうか。

河嶌:昔から「童貞は男として恥ずかしいもの」という概念を男性自身が持っていたことは知っているけれど、今の世の中そんなに恥ずかしいことなのかなあとか。もっと男女とも解放されてもいいんじゃないかなあとか。境界線、引いて楽になるならいいけれど、大抵は苦しくないだろうか?

篠田:ほぼ必ずお見合いして結婚して本人が嫌であろうとなかろうと童貞を失った社会においては童貞は単なる「まだ」の意味しか持ちませんが、自由恋愛社会における童貞は能力主義の文脈で再定義されて本人の自尊心を規定する概念になったのではないかと思うんです。

河嶌:自由恋愛が性的能力と直結するのか……そうなのか……。

蒼井:えっと、そのあたりちょっと詳しくないので純粋に質問です。「本人の自尊心」というのは、「喪失していない方」の自尊心ですか?「喪失する機会を得た方」の自尊心ですか?

篠田:「自分に魅力がありさえすれば童貞を喪失することができたのに、その魅力がないためにそれができない。これは不名誉だ」という童貞の人の感覚です。

河嶌:ひょっとして童貞を失うとは実は「俺は誰かに愛された」ということ?

篠田:そうそう。だから「素人童貞」という言葉があるでしょ?童貞の男性が狂おしく求めてるのは性経験ではなくて、愛されて受け入れられた経験です。

河嶌:興味深いご意見だなあ……(しみじみ)。

蒼井:私、それって喪失した側の男性が、そうでない男性を蔑視するが故に、いうなれば境界線が濃くなった事例じゃないかなとは思ったんですが。

篠田:でも喪失していない男性も、蔑視の視線によって自己を規定しているんです。だからつらいのだ。

蒼井:さっきの京都人の例じゃないですけど、蔑視されるから自分から線を引いてちょっと自虐ネタにするみたいな感じですよね?

河嶌:それは多分早熟女子高校生の「早く処女喪失したーい」ってのと同じ匂いがしますね……。

篠田:自虐ネタは笑いの一種であって、笑いはある縛りを相対化することもありますが、この場合はあまりうまくいってないですね……。

蒼井:ちなみに英語で、日本語の「童貞」や「処女」(この場合は喪失できていないものを蔑視するニュアンスで)にあたる言葉ってありますか?アメリカだと、ダンスに誘う女の子がいない……みたいな文脈があるとは聞いたことがあるんですが……。

河嶌:スラングでありそうだけれど、ティーンが使う英語は知らないなあ。

蒼井:単語ってラベルですから、何か線を引いてラベリングするならそういう単語があるんだとは思うんです。

河嶌:境界線は都合よく引かれるものなんですね……。でも線引きされて助かる場合もある。

蒼井:たとえば?

河嶌:発達障害はその部類です。診断をもらって救われたという人も多い。そこから前向きになれる人もいると同時にスティグマになる人もいるけれども。

蒼井:それは厳密には線ではないような気もします。ラベルというか、正当な名称が与えられて救われたのではないでしょうか。

河嶌:その方を受け入れる社会が線を引いてしまう場合もあります。ラベルと境界線は兄弟ですね。

篠田:「発達障碍者は差別されるべきではない」という医学の文脈が持ち込まれて従来と異なる意味が発生したからだ、ということだと思う……。

河嶌:境界線が深くなってきた……。ラベリングとどう区別つけましょうか。

篠田:重なってくる部分がありますね……。


■境界線を感じるか、どうか

河嶌:わたしがふと今日思ったのは、ひょっとして境界線がたくさん引かれていると感じているのはわたしだけなんじゃないかということです。それが非常に気になった。気づけてよかったんですが。そしてもしもくらげさんや灯さんを混乱させてしまっていたら申し訳なかったなとも。

篠田:別に混乱するの嫌じゃない……新しいことがわかるんですもん。

河嶌:でも思いっきり驚いたんです。本当に。みなさん、どんな世界に生きているんだろう……。面白いですねえ……。

蒼井:うーん。私はたぶんあまり気にせず生きてきたほうだと思います。境界線。で、そこにぶちあたる方というのは、それだけ色んなものを越境しようとして生きている方なのかなあと。

篠田:マイ・カルチャーショック・イン・京都!というか、働き始め!

蒼井:もしかすると、「境界線に色々悩んできたレイさん」vs「境界線?意識したことないけど?な蒼井」という役割分担をして、くらげさんに途中途中を言語化していただいて、まとめるのがいいかもしれないですね。

篠田:なるほどですです。「よくわからないという感覚」で読者と手をつないでくれる人、ひじょうに大切。「それはどういうことですか?」「なぜそれが問題になっているのですか?」「どうしてそう考えるのですか?」という問いを丁寧に置くことで文章はわかりやすくなり、洗練されます。

河嶌:よくわからない感覚、大事ですよね。そこに文学やアートの存在意義が。うううーん…しかし困った……。

蒼井:対立構造、というのかな、私がわからない派を代表してレイさんに質問して、レイさんが回答、それをくらげさんが「なるほどこういうことですね!」という形はどうかなあ。

篠田:弁証法みたいだ。

河嶌:これって、「実はすでに3人で境界線について話をしてこんな展開があって終わらなかったんだけど、改めて話し合いを設けた」っていうことで正直に説明した後でもう一度やったほうがいいのでは?

篠田:ちなみにどうしてそう思われますかしら?

河嶌:うまくまとめない方がいい気がしたんです。この3人の中でもうまく消化できないトピックだったということを出した方がいいかなと。

篠田:そうね、形がきれいに整うのも大事だけど、問題との格闘の跡を見てもらうのも大切なことですね……。

河嶌:「この3人が試行錯誤したのが境界線だ!」的な。くらげさんのおっしゃる通りで、格闘のプロセスを見せるのって大事なのかなってふと思ってしまって。そうそう答えが出ない問題だからこそ嶌田井はやるんだみたいな……きれいにまとめないぞ!それが目的じゃないんだ!っていう覚悟のような。ただ嶌田井としての「共通認識としての境界線の答えに近いもの」は次回で出せたらいいなとは思うんですけど、どうでしょう……。矛盾してるかな……。

篠田:お、共通認識出すんです?

河嶌:出るのかなw でもそれが出ないと将来的に他の方に原稿を依頼したりできない気もしてきました。

篠田:「わからん!知らん!」みたいなのだと困りますけど、「共通認識」でなくても大丈夫かな、とも思いますがどうでしょう?

河嶌:少なくとも、そのふたつの中間くらいは行きつきたいですね。原稿を依頼するときに、「で、嶌田井さんの思う境界線ってなに?」って必ず訊かれると思うんです。「あなたの思う境界線とはなんですか?」これで行きます?

蒼井:少し自分の感覚に自信がない……。以前少し話に出ましたが、Twitterアンケート出してみますか?境界線を感じた事がありますか。あるとしたらどのようなものですか?(自由コメント)みたいな。これまでの人生で境界線を感じたことが ある/ない/境界線って何? の3択かな……。

篠田:ふむふむ。レイさん、どうかしら?

河嶌:灯さんにアンケート案を作っていただいてもいいですか?アンケートって何択までできるんでしたっけ?

篠田:4択だよ。

蒼井:なんの予備知識もなく「境界線」という単語を投げかけられたとき、ひとが何を想起するか、知りたい。です。

あなたの人生に於いて、「境界線」を意識したことがありましたか?あるとすれば、どのような境界線でしたか?
・多々あった
・少しだが、あった
・ほぼ又は全くなかった
・境界線って何?
リプライで、境界線の内容(どのような境界線であったか)を教えていただけると嬉しいです!

とか……。


■かくしてアンケートは実施された

メンバー同士でもなかなか認識が擦り合わない……そんな理由からTwitterのアンケート機能にて呼びかけさせていただいたところ、なんと78票ものリアクション、またたくさんのコメントをいただきました。メンバー一同、心より感謝いたします。

結果は「多々あった」が63%、「少しだが、あった」が26%。回答者の9割近い方が「境界線」を感じたことがあるとの結果となりました。逆に「境界線って何?」という方、また境界線という表現に疑問はないものの特に感じて来なかったという方も数名ずついらっしゃったようです。
感じて来なかった方はアンケート自体にも参加されない可能性が高いため、この割合が全てとも言えませんが……、コメント欄もあわせると「境界線」に阻まれたり、苦しんだり、という経験をお持ちの方は少なからずいらっしゃったようで、それは共感できるものでもあり、驚きでもあり、このテーマを扱うにあたって心強く感じるものでもありました。

次回のメンバー座談会では、このアンケートをふまえて議論を深めていく予定です。

今回の議論についても「いや、そこは違う」「ここは私はこう思う」などとご意見ご感想がございましたら、コメント欄に書き込んでいただけますとメンバー一同喜びます。

皆様の力を借りつつ、このテーマを掘り下げてゆけたらと思います。
それではまた、次回の更新まで。

(蒼井灯)

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