島原城

2024年に築城400年を迎えた島原城。天守内はキリシタン関連史料などが豊富展示された…

島原城

2024年に築城400年を迎えた島原城。天守内はキリシタン関連史料などが豊富展示された資料館。堀内の石垣は当時の面影を残し、天守入口では武将隊がお出迎え。夜間の活用も充実し、「島原城の城キャン」や「島原城夜の陣」なども人気。

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島原城築城400年記念 築城主松倉重政の物語 -六-

- 六 -  寛永元年(一六二四)。都合七年を掛けて、島原の城は完成した。  惣構えは南北十一町半(約一二六〇メートル)、東西三町余り(約三六〇メートル)。瓦葺の練塀でそっくり囲み、七つの門と虎口で固めた堅牢な造りである。外郭は複雑に折れ曲がり、そこに計三十一もの櫓を設えて、外敵に対する備えは万全だった。  城郭は、縄張りの南寄りに本丸・二ノ丸・三ノ丸を南から北へと一直線に並べた。本丸と二ノ丸は幅広く深い内堀で囲み、その外に藩主の居館となる三ノ丸を置いて、実務と儀式の場を切

    • 島原城築城400年記念 築城主松倉重政の物語 -五-

      海道の城 〜松倉重政伝〜天津佳之 -五 -  元和四年(一六一八)、江戸に上った重政は、幕府に対して日野江城の破却と島原での新城普請を願い出た。しかも、石高四万石に対して、十万石に相当する大規模な城の築城を、である。もちろん、重政には目算があった。もとより石高より高い内高に加え、新城と新町による商いの振興、そして南蛮との貿易による理財も含めれば、十分に実現可能であると。  一国一城令により多くの城が破棄され、諸大名が城の修繕普請にさえ慎重にならざるを得ない情勢のなかで、こ

      • 島原城築城400年記念 築城主松倉重政の物語 -四-

        海道の城 〜松倉重政伝〜天津佳之 -四-  それからの二年間、重政は国内巡見に力を注いだ。日野江を中心とした雲仙岳の南側はもとより、そこから東にまわった島原から三会、多比良。あるいは西にまわって串山、小浜、千々石。雲仙岳という火山が形作ったこの半島は、どこにおいても起伏が激しく、平地は少ない。 「随分と川の多い土地だな」  ざっと調べただけでも領内に大小五十以上の川があり、特に雲仙岳(旧名・温泉山)の東から南に掛けての一帯は、豊富な水源に支えられて農産物も多い。火山に作ら

        • 島原城築城400年記念 築城主松倉重政の物語 -参-

          海道の城 〜松倉重政伝〜天津佳之  -参- 「これは、駄目だな」  日野江一帯の地図を見下ろしながら、重政は一言のもとに切り捨てた。 「この城、でございますか?」  側近の岡本新兵衛が尋ねると、すでに腰を上げた重政の目は窓から城下に向けられていた。有馬川の河口にほど近い丘陵に築かれた日野江城からは、海と空、そして遥かに霞む天草の島々さえ見えた。海岸線がてらてらと濡れて見えるのは、大きく潮が引き干潟となっているからである。南には旧主の有馬氏が築いた支城の原城も見えるが、重政

        島原城築城400年記念 築城主松倉重政の物語 -六-

          島原城築城400年記念 築城主松倉重政の物語 -弍-

          海道の城 〜松倉重政伝〜天津佳之  -弐- 「豊後様」  新兵衛の声が、見送りに立った二見の民の声と重なって、重政は頭を振った。  大和から陸路を取って九州に至り、肥後長洲の津から船で対岸の肥前高来に渡れば、そこはすでに日野江藩の領地である。長々と輿に船にと揺られた重政の足元は、どうかすると覚束ず、波に揺らされつづけた頭も茫洋としてはっきりせず、大和の幻影がちらついた。 (これも、あの山のせいだな)  思いながら、目の前に立ち上がる山の尾根を見上げる。  海辺から急激に立

          島原城築城400年記念 築城主松倉重政の物語 -弍-

          島原城築城400年記念 築城主松倉重政の物語 -壱-

          海道の城 〜松倉重政伝〜天津佳之  -壱- 「蒼いな」  つい声に出しながら、松倉重政は空を仰いだ。  南海の空の蒼さは目に沁みるほど深く、その見慣れなさに彼は瞼を細めた。  重政は、生まれも育ちも畿内の大和国である。そして、山に囲まれた大和の空は、いつも霞掛かったようで、青も煙るように淡かった。  何より、空を遮るものがない。何しろここは、海のど真ん中である。遠く低いところに陸地はあっても、大和のように空の半ばを塞ぐほどに険しい山々があるはずもない。  蒼穹という言葉の

          島原城築城400年記念 築城主松倉重政の物語 -壱-