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島原城築城400年記念 築城主松倉重政の物語 -四-

海道かいどうしろ 〜松倉重政伝まつくらしげまさでん

天津佳之あまつよしゆき

雲仙地獄

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 それからの二年間、重政しげまさは国内巡見じゅんけんに力を注いだ。日野江ひのえを中心とした雲仙岳うんぜんだけ※1の南側はもとより、そこから東にまわった島原から三会みえ多比良たいら。あるいは西にまわって串山くしやま小浜おばま千々石ちぢわ。雲仙岳という火山が形作ったこの半島は、どこにおいても起伏が激しく、平地は少ない。
「随分と川の多い土地だな」
 ざっと調べただけでも領内に大小五十以上の川があり、特に雲仙岳(旧名・温泉山うんぜんさん)の東から南に掛けての一帯は、豊富な水源に支えられて農産物も多い。火山に作られた土地ではあるが、決して地味が悪いわけではなかった。
 火山と水とくれば、当然ながらついてまわるのは温泉である。“温泉山”の名で上古じょうこの時代から呼ばれてきた通り、山中から周辺に至るまで、豊富な湧出量を誇る湯本が数多くあった。特に雲仙山中の湯本は、吹き出す水蒸気と硫黄いおう堆積たいせきした一種異様な有り様から「地獄じごく」と呼ばれ、修験道の霊場としても知られた。源泉の熱も高く、水で薄めなければ人もで上がるほどだという。
 そしてもう一カ所、温泉に恵まれていたのが西の小浜おばまである。千々石ちぢわなだ(現在の橘湾たちばなわん)に向かう断崖の地には硫黄のにおいが立ち込めて、流れる川は夏にも湯気をまとうほどである。
 重政は、この小浜の湯にぞっこんれ込み、巡見のついでに足繁あししげく通った。いくさの古傷に、日々の疲労によくみて、心からくつろげる気がしたのだ。
「ええ。これもまた、温泉山うんぜんさん賜物たまものと土地の者は申します」
 湯上りの重政の相手をしているのは本多ほんだ親能ちかよし、日野江が幕府領となった慶長けいちょう※3十九年に三河みかわから町役人として小浜に入った男である。そして余程ここが気に入ったらしく、日野江が松倉領になっても離れることなく、庄屋として居残ったという。
 その名字が示す通り、親能は徳川譜代ふだいの本多一族の末流まつりゅうである。その意味では、幕府に伝手つてを持つ者として、重政にとって重宝ちょうほうする男であった。
「あの高くけわしい峰が雲を押しめるために、山頂辺りではよく雨が降るそうでしてね。降った雨が山にみ込み地中を流れ、溶岩に洗われて澄んだ水となって流れ出るとのことです」
「それにしても、水が多すぎる。大雨になればすぐ水があふれるではないか」
 実際、そのとおりだった。火山によって形作られた急峻きゅうしゅんで複雑な地形は、狭小きょうしょうな谷に雨水が集中するうえ、急勾配きゅうこうばいを一気に駆け下るために水害を助長した。
大和やまと※4の盆地の民からすれば、羨ましい限りでしょうが。あちらは水がなくて困らされたものですから」
 重政について湯につかっていた新兵衛しんべえ※5もまた、できあがったように紅潮こうちょうした顔を手で仰いでいる。
「たわけ。大和の民がここにいるわけでもあるまいに」
 せんいことを言う新兵衛を叱りつけながらも、重政が思うのもまた大和のこと。ただし、大和盆地の水にとぼしい平野ではなく、旧領である大和二見のことである。あの地に流れるの川吉野よしのを水源とする暴れ川で、夏や秋の雨季にはよく氾濫はんらんを起こした。そのために、重政は治水ちすいについて詳しくならざるを得なかったのである。
「まあまあ。しかし、だからこそ松倉様は、ため池をお造りになったのでしょう?」
 親能ちかよしの言うとおり、重政が領内整備でまず力を入れたのは治水だった。有馬川ありまがわの流域にいくつかのため池を整備したうえで、雲仙からの水がまわりにくい南西部の台地に巨大なため池を掘り、有馬川の源流に当たる坂下川さかしたがわの水をそちらに逃がすよう水路を開いている。川があふれやすい有馬と、干害かんがいに悩まされる串山くしやま、それぞれの問題を一手に解決する両得の策だった。

諏訪の池

「小浜にも真水が多くまわるようになりましたし、串山の連中も松倉様に感謝しておりますぞ。沢の神じゃと、あの池を“諏訪すわの池”と呼ぶ者もあります」
「大袈裟な。領内を整えるのは当たり前であろう」
 重政は当然のように言うと、首に掛けていた手ぬぐいで滲み出る顔の汗を拭い、
「亡き大御所様おおごしょさま※6御遺命ごいめいもあるでな」
 そう付け加えた。
「大御所様の、にございますか?」
 かつての幕臣として、親能が聞き返すのは当然である。差し当たって、江戸表えどおもて知己ちきからそういった話を耳にしたことはなかった。
然様さようわし駿府すんぷで大御所様にえつたまわったのは、亡くなられる直前の四月だった。そのとき、申されたのだ。大坂おおさか※7仕置しおきはまだ道なかば、とな」
 そう言うと、重政は板間に広げていた九州の地図を指さして見せた。
「見よ。高来たかきは、筑紫海つくしのうみを挟んで肥前ひぜん肥後ひごの中央にある。そして周りの大名は皆、豊臣恩顧おんこの方々ときておる」
 確かに、重政の言うとおりだった。例えば神代こうじろ※8で領地が接する肥前ひぜん佐賀さが三十六万石の藩主・鍋島なべしま勝茂かつしげは豊臣秀吉に豊臣姓を下賜かしされたうえ、関ヶ原の戦いでは豊臣方の主力となった。父・直茂なおしげの機転で家康の許しを得たものの、勝茂の直轄領ちょっかつりょうは削られ、それがもとで分家に軽んじられているという。
 筑紫海つくしのうみを挟んだ柳川やながわ三十三万石の主の田中たなか忠政ただまさは、大坂の陣の際に旧主・豊臣家に与力よりきすべしという家臣団を抑えきれなかったという瑕疵かしがある。さらに東の対岸の肥後ひご熊本くまもと五十二万石は、豊臣秀吉の子飼いとして名高い加藤かとう清正きよまさの領地であり、清正亡き後は世子せいし忠弘ただひろが継いだものの、幕府の厳しい統制に不満が高まっているという。
 口之津くちのつ※9の対岸にある天草あまくさを飛び地として治める唐津からつ二十二万石の寺沢てらさわ広高ひろたかも、かつては秀吉の子飼いであった。その死後は家康にすり寄って関ヶ原では徳川方についたかと思えば、豊臣方についた島津しまづ氏の助命のためにげんを左右にするなどして、信用を失っていった。
 これらの外様とざま大名に対して、高来は内海うちうみを挟んで相対あいたいする位置にある。これこそ、有馬氏転封てんぽうののち高来たかき日野江ひのえが幕府の直轄領となった理由であり、自身がここを任された理由だと重政は理解していた。
「大坂の陣からまだ一年余り、外様の大名が幕府に異心いしんを抱くとも限らぬ。それを抑えるにはどうすればよいか、分かるか新兵衛」
「ありませんな。これほどのお歴々を相手に、たかが四万石の殿ができることなど」
「無論そうだ。それに言うたであろう、もう戦など起きぬ。……起こさせてはならぬ」
 恐らくは、それが大御所の今際いまわの願いだと、重政は考えていた。
 戦となれば、高来日野江四万石など、吹けば飛ぶようなものに過ぎなかった。だが、もう戦は起きないし、起こさせないために家康は幕府を開き、対立する権威となり得る豊臣を滅ぼして武家の惣領そうりょうとなった。武家と言えど、もはや何事かを武力に訴えることなどできないし、泰平の世となったいま、それをさせてはならないのである。
 そして、だからこそ重政のような小大名でもできることがある。
「栄えさせるのよ。この高来を、周囲が羨むほどに、な」
 例え小藩であっても、領地を整え、町を開き、産業やあきないを起こして栄えることはできる。重政はそれを、大和二見の治政でよく知っている。かの地もたかが一万石、しかし大和と紀伊と吉野を結ぶ要衝ようしょうを抑えたことで、山間の地にもかかわらず商いの町となり、南大和の中心地として無視できない存在となったのである。

空から見た島原

 いま、同じことをこの高来でやるべきなのだ。それによって、周囲の大名たちから武力にたのむ気をうしなわせ、統治と政事に打ち込むことが結局己に利するのだと、知らしめるために。
「だからこその新町しんまちであり、城ということですな」
 主の考えに思いいたり、新兵衛はで上がった顔をさらに赤くして返した。
「そうだ。日野江では、それができぬ」
「では、どちらになさいますか」
 親能ちかよしは、この新領主の気宇きうに半ば感心したように尋ねた。
「やはり島原しまばらよ。あそこであれば、広がりも、道も十分」
 結局、重政の結論はそこに落ち着いた。雲仙の東、眉山まゆやまの膝元に広がる島原ならば、大和二見をも上回る城と町を築けるはずである。大大名たちでさえ驚嘆きょうたんするほどに栄えた町。時代の変わり目を知らしめる壮麗そうれいな城。それこそが、重政がいま求めるものであった。
 しかし、親能にはひとつだけ、に落ちないことがあった。
「道など、ございませんでしょう」
「ある。目の前に太い道が……海の道があるではないか」
 言いながら、重政は地図の島原に指を置いた。まさに先ほど重政自身が言ったとおり、そこは内海の中央にあった。ここを拠点とすれば内海の海運のすべてを押さえ、そこに流れる財を集めるのも叶うであろう。
 そうして見れば、内海は海の街道に相違そういなかった。そしてその道は、口之津を経て、遠くアジアや南蛮なんばんにまでつながっているのである。
「本多殿。これを江戸表に願い出ようと思うが、どうかね」
 重政が問うと、親能は面白がるように笑い、
「大御所様の遺命となれば、上様にいなやはありませんでしょう」
 そう気楽な声で請け負った。

[注釈]
※1雲仙岳うんぜんだけ・・・旧名・温泉山うんぜんさん
※2日野江ひのえ・・・現在の南島原市の北有馬町周辺。重政が居城としている日野江城がある。
※3慶長けいちょう十九年・・・西暦一六一四年。
※4大和やまと・・・大和国やまとのくに。重政の旧領は大和二見ふたみ
※5新兵衛しんべえ・・・松倉豊後守ぶんごのかみ重政の腹心・岡本新兵衛。
※6大御所様おおごしょさま・・・徳川家康を指す。
※7大坂おおさか・・・大坂の陣を指す。この戦いで武功をあげた重政は肥前日野江四万石を拝領した。
※8神代こうじろ・・・現在の雲仙市国見町神代周辺。重政が湯治をしている小浜から約27km離れている。島原半島の北部に位置する。
※9口之津くちのつ・・・現南島原市。重政が湯治をしている小浜温泉から約22km南下した場所。松倉領。


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