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島原城築城400年記念 築城主松倉重政の物語 -六-


島原城下町絵図(島原城展示)

- ろく -

 寛永かんえい元年(一六二四)。都合七年を掛けて、島原の城は完成した。
 惣構そうがまえは南北十一町半(約一二六〇メートル)、東西三町余り(約三六〇メートル)。瓦葺かわらぶき練塀ねりべいでそっくり囲み、七つの門と虎口こぐちで固めた堅牢けんろうな造りである。外郭がいかくは複雑に折れ曲がり、そこに計三十一ものやぐらしつらえて、外敵に対する備えは万全だった。
 城郭は、縄張なわばりの南寄りに本丸・二ノ丸・三ノ丸を南から北へと一直線に並べた。本丸と二ノ丸は幅広く深い内堀で囲み、その外に藩主の居館きょかんとなる三ノ丸を置いて、実務と儀式の場を切り分けている。本丸と二ノ丸をつなぐのは通称“極楽橋ごくらくばし”……屋根と塀を備えた廊下橋ろうかばしで、かつては豊臣家と近しい大名がよく取り入れた意匠いしょうだった。
 おおとりが羽を広げたような屏風びょうぶれの石垣は、城の重みを逃がしながら美観を保つための工夫である。そして、その上にそびえ立つ本丸の天守の高さは、じつに十七間(約三十三メートル)。五重五階に積み上げた楼閣ろうかく白漆喰しろしっくいを塗り込み、眉山まゆやま※1前山まえやま)と並び立つように燦然さんぜんと輝いて見えた。
前山まえやま※1よ、これがわしの城、儂の町ぞ)
 五十一歳となった重政しげまさは、その威容いようを三ノ丸から見上げていた。
 城は完成したが、島原の城下町は依然として発展の途上にある。縄張りの西と北には武家屋敷が立ち並び、海に近い東と南は“あきないの町”として広がりつつあった。豊富な山の産品を利用した染物屋をはじめ、酒屋やこうじ屋、鍛冶屋などの店棚みせだなのきを連ねた。特に多いのは船問屋ふなどいやで、筑紫海つくしのうみを行き交う船の多くが島原を中継として利用し、港は活況かっきょうていしている。
 そして、城も町も、滲み出す水に沈むことなく、その姿を保っていた。
 それもこれも、縄張りの地下にめぐらせた入念な水路すいろもうのおかげだった。雲仙岳うんぜんだけ※2から地中を流れる伏流水ふくりゅうすいを集めるために竪坑たてこうを開けて調整井戸とし、集めた水を地下に設けた石組みの水路に逃がすことで、城の基礎となる地盤を守る仕組みである。
 重政はこの仕掛けをさらに発展させ、城内外の各所に満遍まんべんなく水をめぐらせて、誰もが気軽に水を利用できる環境を作った。酒屋と染物屋が増えたのは、いつでも身近に雲仙の清水しみずがあるためとも言えた。こうした商いをさらに広げるため、重政は大和やまと二見ふたみ※3でしたのと同じように、城下で商いする者の諸役しょやく減免げんめんする優遇ゆうぐう措置そちを取っている。
 いまだ途上とはいえ、重政のねらいは果たされつつあった。
 その一方で、すべてがうまく行ったわけでもない。
 将軍・秀忠ひでただの意向のもと、キリシタンに対する締め付けは厳しくなり、重政もまた幕府の方針にふくさざるを得ない状況におちいった。交易を周旋しゅうせんしていた潜伏せんぷくキリシタンの伝手つてを失い、それにつれて海外との交易は年々難しくなっていった。不調に終わる交易も増え、南蛮なんばんとの貿易による理財は、当初想定したよりも小さくなり、築城普請ふしんついえを埋め合わせるに届かず、領民に過分な夫役ふやくを強いる事態となってしまったのである。
(それでも、だ。この城と町は、必ず財を生み出す)
 何しろ、城はできたばかり。町もまた広がりはじめたばかりである。重政がこころざしたものは、すぐにでも成果が表れるたぐいのものではないし、いまは築城費用の不足を民にいている部分もあろう。
 だが、必ずやこの町が栄えるときが来る。海という街道がもたらす物と人とをかてに、この海に欠かせぬ場所となることを、重政は信じて疑わない。
 そう思う重政の目には、もはや大和の幻影はない。眉山も、深い蒼の空も、遥かに響く海の波音なみおとも。それは何かの代わりでも、馴れぬ異郷いきょうのものでもなく、重政自身のものとなっていた。
「ここが、儂の国だ」
 そう言って、重政は酒杯を眉山と天守に向かって掲げた。島原で育てた米を、雲仙の清水でかもした酒は、甘やかでさわやか。それを喉に流し込み、太く笑った。

上空から見た島原城


【注釈】
※1眉山まゆやま・・・旧称・前山
※2雲仙岳うんぜんだけ・・・旧称・温泉山うんぜんさん
※3大和二見やまとふたみ・・・重政の旧領きゅうりょう

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