「猫」になったキミと「猫になりたい」僕【しまさんの読むラジオ】
こんばんは。今日はふと聴いて、気に入ってしまった2曲を題材に「読むラジオ」を書く。
先日、こんなつぶやきをした。
気付きが東京タワーから人を見降ろしたくらいのサイズ感ではあったんだけど、いまだに気になるので、雑感も書き加えて、どうなんだろう?と思っていま筆をとった(PCを開いた)。
DISH//の「猫」
こっちは「相手が猫になってどっかに行ってしまった」パターンである。か、もしくは「相手がまるで猫のような自由奔放だった」パターンだろうか。
歌詞にも触れてみたい。
「猫」になっていなくなったキミ
こちらの「猫」は、「付き合っていたパートナーが、まるで猫のようにふらっといなくなってしまって、喪失感が襲ってきた。キミがもし猫になったのなら、またいつかふらっと現れてそばにいてほしい。いやもはや猫になってでも戻ってきてほしい」という内容の曲である。
まるで企業の採用面接みたいな質問だけど、「自分を動物に例えるなら?」といったときに、その人は「猫」のような人なのかもしれない。いや、もはやどんな動物のような人間でも、「猫」になりえるのかもしれない。猫をもとにした妖怪もいるくらいだし、「妖怪のせい」なのかもしれないし。
生きている限り、別れってたくさんあると思う。
でもこの別れ方ほど寂しいこともない。ズバリ「別れよう」と言って別れた方が見切りが付くのかもしれない(その場合はどういう動物に例えるのだろうか?ライオン?ゴリラ?)
あと、この歌詞には、「猫になってキミは居なくなったんだよな」以外に「もしキミが”本当に”猫になったんならさあ…」ということも歌っている。
戻ってくるかもしれないんだろう?と、「期待している」のだろう。
仏教の定義する「四苦八苦」には「愛別離苦」があるけど、この「付き合っている」と「別れている」のフワフワな時が一番苦しいのかもしれない言い換えれば、「愛別離」の「愛」と「別離」の間くらいが一番しんどいかもしれない。というか、「愛別離苦」という言葉自体に、その「フワフワな部分」も含んでいると考えると、なるほどなあと。
猫になってどっか行ったんなら、逆も然り、ふらっと帰ってくる(といいなあ)という「フワフワ」さって誰しもありそうだなと思った。実際、これは恋愛に限らず、だと思うけど。
スピッツの「猫になりたい」
さっきは「”キミ”が猫に”なってしまった”」歌だったけど、今度は、「”僕が”猫に”なりたい”」歌だ。
「猫になりたい」ボク
こちらの猫は「君のそばにいさせてよ、あと、僕のことを忘れさせたくないんだよね」というシンプルなメッセージが込められた歌になっている。
このフレーズが3回繰り返される(なんとまるごと同じ内容で、である)。
スピッツの曲は、「歌に意味はそこまで持たせてない」と作詞者である草野マサムネさんが語ってはいるけど、この曲では「猫になりたい」と3回(正確には3×2=6回)も繰り返すほど、「僕は君のそばを離れたくない」と言い続けている。
2匹の猫の対比
同じ「猫」のはずなのに、ここまで差が出るのが興味深い。
「”君”が猫になる」と、僕のもとから去っていくのに、
「”僕”が猫になる」と、君のもとに居させてほしいと言い出すんだもん。
まあ、そもそも「猫」という動物自体、気まぐれで、気分屋で、猫背なのだから(多分猫背は関係ないが)、どっちの言い分もありえそうだし、懐いたらそばにいるだろうし、かと思ったら抱えている胸から降りてどっかに行ってしまうだろうし。
君であろうと、僕であろうと、猫になって、君に(僕に)会いに行く(会いに来る)、そしてそばにいてほしい、そんな気持ちは変わらないんだろうな。僕もそう思う。
さて、「猫」になってどこかに行ったかもしれないあなたに、「猫になって」、会いに行こうかしら。
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