見出し画像

母娘の共依存は報われないものらしい(はじめての繭期2023より「マリーゴールド」)

報われてほしいし、現実で目に見えないだけで共依存が成り立っている家庭はかなりありそう。あってほしい(本心)

「はじめての繭期2023」という企画にてリアタイ視聴しました。はじめての繭期についてもよくわかっていないのですが、どうもTRUMPシリーズと呼ばれる末満健一監督による舞台作品シリーズへの導入といった感じの催しのようです。
当日指定された時間、Youtubeにてプレミア公開される過去上演作品を皆で視聴しよう! みたいな。

以前から噂には聞いていたのですが過去年のはじ繭はリアタイ視聴することができず、今回たまたまタイミングが合って、視聴の運びとなりました。

今回視聴した「マリーゴールド」は2018年に上演された舞台の様子を映像化したもので、共依存関係にある母と娘の関係を中心に描き出される悲しい物語でした。詳細な概要や内容については各自でどうぞ。
以下ネタバレを含みます。備忘録程度の感想です。


母娘の愛ってさぁ……なんでこう報われない感じになっちゃうんだろうね。
マリーゴールドにおける母・アナベルと娘・ガーベラの関係は、作品世界観に根付いた独特の障害を孕んでいるためどうにも難しい部分が多くあったのは事実ですが、彼女たちの関係はもっと身近なものに置き換えて見ることもできる程度に世界にありふれていそうな感じはあるんですよね。
例えば社会に馴染めない障害をもった娘とその母なんかは、あんな感じになっちゃうことも多いのでは、と。
必ずしもヴァンプやダンピールが存在するファンタジー世界でのみある問題じゃなくて、母と娘の問題ってのはやっぱり根源的なものだよなと思っています。とはいえ話の展開やラストシーンなんかはこの世界観でないとできない内容ではあるんですが……。
ソフィの「親離れしてもらう」という発言からの母娘断絶……断絶しきれない愛情、生き延びるために母を殺す娘……それでもなお「呪い」と呼ばれた母への愛情を失うことはないエンディング。うーん、やるせない。
フィクションだといきすぎた悲劇を経て主人公がなんか吹っ切れてしまう、というのはありがち展開だと思うんですが、マリーゴールドではそんなことはなかった。それまでに積み上げたネトネトの人間描写そのままにエンディングもネトネトに悲しいままでしたね。気持ち悪いオタクくんめいてたコリウスやシスコン拗らせて姪を憎んでいたエリカは後半に入る手前の我守護(とファンの間で呼ばれているらしい歌唱シーン)で突如燃えるように純粋な愛に目覚めたけれども、ガーベラことマリーゴールドはそんなことなかった。いやでもそうだよね、だってガーベラには本当に母アナベルしかいなかったんだもんね。それ以外の世界なかったもんね……夢には見てたしなんか誘惑してくるソフィとかいうヤツいるけど……その他に向けるべき感情も想像力も実感もなかったのだから、いきなり愛を語って眼の前で死んでった人とか自分を嫌ってた人の身を呈しての愛とかわからないよ。思春期くらいの年齢だし。何も知らないし。
それなのに「自分が生きるために自分を唯一愛してくれていた、自分が守ると誓った母を自分の手で殺した」というね。意味がわからないです。どうしてこうなった。繭期だからかな。
自分なんかは生きる気力ややる気と言ったものが底をついているので母が殺してくれるならそれでいいや……と甘んじて受けるような気もするが、そうはならなかった。それが物語としての唯一の救いなのかそれとも煮詰まった絶望なのかはちょっと判断つかないですね。

視聴の前にマリーゴールド初見宛に「誰が一番許せないと感じるか」みたいな呟きを見かけたんですが、私としては「誰も憎めないし許せないとも思えない、生々しい人間性を前にして同じ立場の自分はこれらを断ずることはできない」といった感情になりました。
強いて言うなら背景事情のよくわからないソフィが(繭期特有の症状込みだったろうとはいえ)ガーベラを引き込むために母を利用したのなんかは、ソフィというキャラクターを理解できない分許す理由が見当たらないというのはありましたが、ダンピールへの私怨で暴走したベンジャミンも、保身のために暴徒となった編集長も、母同然の姉を奪われたことで姪を憎み続けたエリカも、がんじがらめの現実から逃げ出そうにも逃げ出せず結局逃げていたヘンルーダも、恋心が暴走していたコリウスも、生きて愛し愛されることへの渇望と唯一の母への執着から全てを拒絶し続けたガーベラも、迫害に耐えるために鉄の鎧を着込むしかなかったアナベルも、永遠の孤独と狂気に為す術もなく怪物となったソフィも、誰も彼も人間くさい弱さから逃れられないまま、小さな不具合から自分自身の綻びを感じながら、幸せが手に入らないことを嘆くあまりに負の感情に飲み込まれていくのがもうどうしようもなく人間にありがちな愚かさと過ちの塊でどうしようもなく人間で感情で どうしようもなくって
それでも愛そうと目覚める人たちを「今更遅い」とか「最初からそうしろ」とかそんな風に責められるのか? という。健全な人は責めると思うが(健常者差別目線)
どうにも病んで仕方がない自分としてはその人間の汚い部分を毎日感じているので否定することは無理でした。否定が無理だった。とはいえ受容するかといえばそれはまた別の問題です。受容したつもりにはなっているけれども。正しくないとは思うけれども。
ガーベラは強い愛に目覚めることなく絶望のまま幕を閉じるけれども、どうやらガーベラの話は「リリウム」という続編に繋がっていくようなので、それも含めての終わりだったのかなと思います。ここで全部終わりの話だったらあまりにも救いがない。いや続きがどうであれこの作品は救いがないんですが。

母の愛も娘の愛も報われない。母と娘がお互いを思い合って依存し合って唯一だと愛し合って生きるだけじゃだめなのか……社会に属してるからダメなんだろうな。かなしいね。
生粋のマザコンで似たような状態に片足突っ込んでるので、それは報われません!!と真正面から言われるとどうしようもなくて泣きたくなってしまいました。感情が根こそぎ枯れてるので泣かなかったんですけど……じわっとくるシーンはあった。いやこの前はすずめの戸締まりで母を探す幼い子の姿に引くほど泣いてたやん……あの時の感情はどこへ。マジでどこに行った?私の感情……。今日は調子が悪くて一日寝てたから仕方がないのか?

母と娘という関係は一生続くものでありながら、共に在れる時間というのはそれ以外の関係よりもずっとずっと短いのかもしれません。そうであるべき、というのが社会の主張なのかもしれません。でもこれ以上の深い繋がりも早々ないのでは?とも思うわけで。
母娘の愛、共依存、という存在が報われ、認められる現実や物語というものがあれば知りたいものです。
とはいえ能動的に一緒に死なない限りはどちらかがいなくなって失われるのが人間関係ですし、遅かれ早かれいつかは卒業する関係として生きていくのが健全でしょう。人間は孤独なもの。孤独を拒むのが母子の愛。
ままならんね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?