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「志高く」バックナンバー⑳~自由研究🔍~

こんにちは、志高塾です。

夏休みらしい話題を求めて、8月に掲載された「志高く」を読み漁っていたところ、ぴったりの文章が見つかりました。

子どもにとっても親にとっても、なかなかやっかいな自由研究。
以下の記事はもしかしたら、それを楽しむためのヒントになるかもしれません。


Vol.265「得られるもの失うもの」(2016年8月16日/HP掲載)

『ルドルフとイッパイアッテナ』を観てきた。かなり良かった。DVDで観てもいいのだろうが、映画館に足を運ぶ価値があると思う。お時間のある方は是非子供と一緒に楽しんでください。

一体全体あの「自由研究」というのは何なのだろうか?

子供だけではなく親の頭も悩ませる宿題であることは間違いない。それは私の子供時代から変わらないのだが、最近すごく違和感を覚えるのは、それがビジネスになってしまっているところ。新聞の折込チラシなどでも、「自由研究手伝います」というようなものをよく目にする。そういうお金儲けの感覚は好きではない。

小学2年生の長男の自由研究であるが、ラッキーなことに生花教室の先生に声を掛けていただいてあっさりと仕上がった。

いつもは平日の夕方に教室に通っているのだが、夏休みということで先生の自宅に招待していただき、おにぎり持参で朝からおじゃまさせていただいた。枝を組み合わせたなかなかおしゃれな工作を作って帰ってきた。

焼き物で花器を作るという選択肢もあったのだが、窯に持って行って焼いてもらう必要があり、日数がかかるという理由で、今回はそれを断念したとのこと。

学校で作品がどれぐらいの期間どのように展示されるのかは定かではないが、花を持って行って、そこで生けたものを飾っても面白いと私は考えていた。少し残念である。

「自由研究」のために1日どこかのスクールに通うのと息子の場合とではどこが違うのか。

たとえ自由研究として使えなくても、我が子は間違いなくそこに行って同じように楽しんで帰ってきただろう、というのがその答えだ。つまり、誰かの手を借りて宿題を終えること自体が目的ではなかったということ。

中学受験を控える6年生で時間がない、というのは理解はできるが、少なくとも5年生まではそれに充てる時間は十分にあるはずである。ないとすれば、それはどこかで何かがずれてしまっている。特に、我が子のように低学年であれば、こういうものにこそ時間を掛けるべきだ。

妻の発案か、本人が言い出したのかは定かではないが、もう1つやる、ということで、学校で配られたプリントにあった10個ぐらいの課題から1つを選択することになった。

それを見て私が3つぐらいに絞った。私がしたのは、正確には「絞る」のではなく「削る」ことであった。リストアップされた中に「環境美化ポスター」、「人権啓発作文」、「『いつもありがとう』作文」などがあった。

日頃、環境のことなんて考えていないし、「差別のない明るい社会。平和の尊さを訴える」と言われても何じゃそらといった感じになるだろうし、「いつもお世話になっている家族に対して、ふだん言葉でなかなか言えない感謝の気持ちを作文に書いて」って、オリンピックでメダルを取った選手への「この気持ちを誰に伝えたいですか」というインタビューじゃあるまいし。

もちろん、こういう機会に立ち止まって考えるということもあるとは思うのだが、それにしても、というのがたくさんあった。

結果的に息子は「未来の掃除道具」というものを選び、「未来の掃除機」について考えることになった。

妻が子供達を連れて実家に帰省している時にやらせてみたのだが、お掃除ロボットの絵を描いてみようとするものの、結局「わからない、わからない」となっていたらしい。

電話でそれを伝え聞いて、「家に帰ってきたら、俺が教えるから」ということで、それ以上手を付けさせなかった。

まず私がさせたのは、長男に掃除機をかけさせること。その際には、その中に溜まったゴミを捨てるというところまでさせた。そこで感じた不便さを解消するようなものを考えなさいと伝えた。「重たい」、「コードが抜けやすい」などを挙げていた。

今の形にとらわれる必要がないとも話した。その代表例として、ダイソンの扇風機の画像を見せ、そのとき目の前で回っていた従来のものとの比較をさせた。

それ以外に重要なこととして、1日で仕上げるのではなく、毎日30分ずつでもいいからアイデアを出すというのを1週間ぐらい続けたらとアドバイスした。後は本人任せである。

一昨日も昨日も少しだけ変化させていた。詳しくは見ていないし、もしかすると完成品も見ないかもしれない。それは私の関心事ではないからだ。

「生徒に考えさせる」というお題目を掲げ、「解いて」と子供たちの前に難解な問題をただ投げつければ良いわけではない。その子が乗り越えられるかどうかを見極めた上で、まず問題の選択を行わなければいけない。

そして、取り組んでいる様子を見ながら、「少し難しすぎた」となれば、決定的になりすぎないレベルのヒントを与える。適切なレベルなものであるにも関わらず「難しそう」と諦めていれば「考えろ」と背中を押す。

その問題が解けたかどうかの結果はさして重要ではない。そのような経験を積み重ねて、「次は自分1人の力で解こう」、「やる前からできないとなるのはよそう」という気持ちを心に芽生えさせ、それが勉強以外のところにも生きて初めて価値がある。

早く正確に、を強いるだけの勉強なんてつまらない。

                              松蔭俊輔

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