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正社員としてのスタートその2

また、その出向先の職場でトイレの問題に悩まされた。緊張から毎日腹痛に苛まれ、けれど、職場のトイレは総務の机があるすぐそば。老朽化したマンションような室内なので音が漏れてしまうし、男女兼用ということもあって長いこと入っていることができない。お腹が弱く、毎回トイレに長くこもる必要のあるぼくにとっては本当に最悪の環境だった。

だから、毎日、昼休みになると、わざわざ駅前にあるデパートのトイレに行っていた。歩いて片道十分使って。トイレだけで休憩時間が過ぎてしまい、昼ご飯が食べれない時もあった。

 

そういう神経にダメージの大きい会社生活を送っていたので、技術を身に着けるどころではなかった。専門学校で学んだことは、ほぼ役に立たなかったし、理系の知識もないから失敗ばかりして、何度も叱責され、心が疲弊していった。

ぼくの耳に届くように、ぼくを非難する言葉を言っていることも一度や二度ではなかった。「あいつがいるから失敗するんだ」とか「あいつがいるからまたミスが起こるんだろ」とか。その会社の部長までもがぼくの名前をあげて罵っていたくらいだ。今考えると、まさにパワハラだ。

単独での出向という状態も過酷さに拍車をかけた。相談できる相手というのが全くいない。

本社所属部での飲み会というものがあり、一度参加したのだけれど、ぼく以外、みんな誰かしらと同じ出向場所で勤務している人ばかり。結局話していることは、同じ職場での内輪話で、ついていけない。頷くことさえできない。一人で出向先に常駐するというのは、本社との接点が皆無になるため、孤立して、本当に損なことばかりだった。

 

また、アパートに帰れば、隣の部屋の騒音問題に悩まされていた。私生活でも神経をすり減らしていった。

良くなってきていたはずのうつ病も、この会社勤めでまた大きく悪化してしまった。生きていることを後悔する日々もたくさんあった。自分はダメな奴だ。何をしてもダメな結果になる。自己否定の毎日だった。体重もかなり減った。頬もげっそりとこけていた。きちんと毎日三食食べているのに、体重・体力は減っていく一方だった。

辞めたい辞めたい、そればかりを考えるようになって職場に通っていた。職場にいる間は、早く帰る時間にならないか、と切に願ってばかりいた。

製品をダメにするミスも何度かやらかしてしまい、部長や課長からのパワハラもますます露骨になり、神経を大きくすり減らして、ちょうど出向されてから一年経った六月、ついに辞めることを決断。勇気を出して本社の部長に辞める旨を連絡した。その後、出向終了し、休職期間を経て、八月に本社も退職した。

 一年四ヶ月でやめたものの、一年以上続けて働けたのは初めてで、派遣先でのパワハラやトイレの件のことを思い出しても、本当によく一年も頑張って通い続けられたと思う。本社の他の社員の中には、出向先を無断で休み続けて、そのまま辞めてしまったという人もいたそうで、体調を悪くしてもきちんと辞めますと伝えてくれたのは良かったことだったと本社の部長に言われた。

 ただし、本社を辞める際、役員の人からは、「うつ病なんて俺からしてみれば甘えだよ」と言われた。2000年代半ば、うつ病は世間一般に理解されつつあったが、過労なども併せて会社などはまだまだ軽く見ている風潮があった。パワハラもそうだし、うつ病、過労などがもっと大きな社会問題として取り上げられるのは、もうあと数年後のことだったと思う。

 

正社員をうつ病悪化で辞める前、傷病手当をもらいながら聖蹟桜ヶ丘(騒音問題のこともあって西調布から引っ越していた)でアパート暮らしをしていたけれど、どうしても狭い部屋だと追い詰められた気持ちになってしまい、会社を辞めても気持ちは少しも楽にならず、うつ病は悪化するばかり(うつ病もそうだけど、パニック障害もあったのかもしれない)。

そこで、その年の九月、建て直して新築になった父の実家に移り住んだ。誰も住んでいないし、地代や固定資産税をすべて払ってくれるならいいよと言われた(父の実家は借地なので毎月地代を地主さんの家に払いに行かなければいけない)。

住まいの環境は改善したものの、次の職場がなかなか決まらなかった。リーマンショックの時期と重なってしまったのだ。うつ病も酷いままで、『死』という気持ちから離れられない状況が続いた。メンタルクリニック以外に、カウンセリングにも通うようにもなっていた。

 

※ぼくが会社を辞めた後に、同期入社の一人(彼も入社から二年で辞めた)と友人関係になれたのは良かったことだった。

※入社一年目の夏に、電撃小説大賞に送っていた作品で一次通過というものを初めて経験した。文芸賞で選考を通過して名前が載ったのは初めてのことだった。

その時の作品がこちら↓


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