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母の死

2013年の2月から今度は建設会社に派遣社員として入社した。CADやExcel・Wordを用いての資料作成の仕事をすることになった。二ヶ月の短期契約だ。

建設系のCADの勉強はほとんどしたことがなかったので、内心びくびくしていた。しかも、上司の人はいつも不機嫌そうな感じの人で、言葉遣いもやや乱暴な感があった。
また叱責される日々が始まるのかと思ったけれど、上司の人はとにかく外出や出張が多く、会社にいないことがしょっちゅうで、気持ち的に楽だった。失敗をしても、眠気に襲われても、叱責されることはなく、周りからも気を遣われた。

仕事内容は、資料作成のほかにも色々なことをやらされた。ファイルの整理、誤字脱字チェック、会議のテープ起こしや、新潟や静岡に日帰り出張をして河川工事現場の写真撮影など。

ただ、この仕事をしている間に(もう少しで任期満了というくらいに)、母が亡くなるという大きな出来事があった。

 

 休日に父親から突然の電話があった。母が病院で亡くなったという。

電話してくるなり、「あー、お前か。お父さんだけど。お母さん、亡くなったよ」と普段と変わらない口調で言ってきたのだ。

信じられなかった。亡くなるような病気を抱えていたなんてこれまで一度も聞かされていなかったからだ。

死因は脳梗塞。突然過ぎることで、全く他人事のような気持ちしか湧いてこなかった。

父のその時の平然とした言い方もあって、あの父のことだから、いつものようにぼくに対してのいやがらせの電話か何かをしてきたのだろうと思ったくらいだ。

 

母は、定年退職になった父と再び神奈川の家で一緒に暮らすようになってから(ぼくが専門学校に入った時に父と姉が神奈川の家に戻っていったと書いたが)、若年性認知症のような状態になってしまっていたという。まだ六十代半ばだった。父が家にずっといたため、それが母にとって精神的に大きな負担となってしまったらしい。

母と父はとにかく昔から仲が悪かった(父親が一方的に母を非難するのだ)。そして母は姉とも昔から仲が悪かったという。姉自身が母が亡くなってから言ったのだが、わたしは父の考え寄りだから、母とはよくケンカをしたと。

この仲の悪かった父と姉と一緒に住むことが、母にとって相当なマイナスだったらしい。

ぼくらが小さな頃からその地域では友だちもほとんどいなく、話し相手・相談相手もいないとしょっちゅう嘆いていたのを覚えている。

若年性認知症の状態になって、買い物に出かけてから家に自力で帰れなくなったり(帰り方を忘れてしまったり・深夜に警察から連絡があったり)、異常な衝動買いをしたり、家族のことが半ば分からなくなっていたりと、そういうことがぼくの知らないところでたくさんあったそうだ。姉から後で聞かされた。

ぼくがうつ病であること、死にたいと苦しんできたことを母に打ち明けてからは幾分か和解していたものの、結局、父と共にぼくを責めてくることが度々あった。求職活動している頃は「まだ正社員になれないの」。働いていればいたで「まだ結婚はできないの」と。

結局、何をしていても責めてくることしかしなかった。例えばアパートで一人暮らしをしている時も、心配して電話をしてくるようなことは一切なかったし、何かを送ってくれたことも一切なかった。

母は父をずっと嫌悪していながら、父に追従して一緒に人を責める癖が昔からよくあった。

父は父で、母が亡くなった後にこんなことを言った。「オレより先に死にやがって。葬儀にもお金がかかったし、あんなやつと結婚するんじゃなかった」と吐き捨てるように。母の死を悼むよりもお金がもったいないと不機嫌になっていた。更には葬儀に来た母の親族に対しても陰で「こっちが向こうの食事代、こんなに出したんだからな」と文句を言うほどだった。

姉は姉で、相手をするの大変だったんだからと被害者のように語っていたが、そういう母を父と共に冷ややかな態度で接したり、無視したりしていたらしい。

母にも悪い癖はあったが、ある意味とても可哀相な人だった。生前、常々、長生きはしたくないと言っていたし、早く亡くなれたのは母にとってすごく良かったことだったのだと思う。願いが叶ったのだ。それだけ父と姉と一緒に生きていたくなかったのだ。

ぼくが母の遺体を目にした時、小説家になるという夢を叶えていない自分を情けなく思って謝った。一応母はぼくが小説家になることを少し応援してくれていたからだ(父と一緒に小説家になんてなるのはやめろと責めてくることもあったけれど)。母には何もしてあげられなかった。ぼくが自分の夢を叶えて喜ばせこともできなかった。それが大きな悔いだった。

※ただ、その年の電撃小説大賞に送った長編作品は久々に一次通過できた(二次通過はできなかったけれど)。

 

 

母が亡くなったことが転機となり、ようやくぼくと弟との仲が改善された。

弟も精神病院にようやく通うようになっていた。統合失調症と診断され、薬を飲むようになり、良い方向に向かっていた。それまでは数年間引きこもりで、家の中で暴れることが多かったと聞いていたが、投薬治療で症状が落ち着き、障害年金ももらえるようになって経済的にも少し楽になったそうだ。障害者就労支援の施設にもすすんで通うようになっていた。

 

母の葬儀の席で、弟はぼくと久しぶりに会っても精神を乱すこともなく、普通に挨拶してくれたし、世間話もできるようになった。弟の心が良い方向に向かい始めてくれたことは本当に良かったことだ。亡くなった母に感謝した。

母の遺産もわずかにあって、葬儀から数か月後にそれを家族みんなで分配した。

母の死があって遺った家族の関係が良くなっていくかもしれない、と期待していたのだけれど、ぼくの考えは甘かった。父は相変わらず「まだ正社員になれないのか」とか「早く結婚してオレを安心させてくれ」と、ぼくを執拗に責めてくるし(父がクレーマーというのは前にも書いた)、今度は姉との仲も悪くなったりした。

父も父だが、姉も姉で学生時代の頃から、ぼくに対して「あたしの方が偉いんだからな」と傲慢な部分あり、よく癇癪を起こした。その性格は三十・四十近くになっても一切変わることはなかった。年齢が一つしか違わないのに異様に「あたしの方が偉い」にこだわり、こちらが珍しく成功経験を得た時などは妬むこともあった。対等な立場であることを示す些細な言動をしただけでもキレて脅迫的になる。そのくせ、家の外・他者に対しては異常なほど大人しく振舞う。

精神科の先生やカウンセラーの人にそのことを相談したら、姉も発達障害・パーソナリティ障害なのではないかと言っていた。

 

相変わらず父と姉との確執が続くので(母の遺産ももらったことで)、ぼくは東京の父の家を出て、埼玉の川口市で一人暮らしをはじめたのだ。

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