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ヴィクトル・ペレーヴィン『チャパーエフと空虚』─現実世界は存在していない?─【1916字】


 『ロシアの村上春樹』と呼ばれているヴィクトル・ペレーヴィン『チャパーエフと空虚』を読んだところ非常に哲学的な小説で考えさせられるところがあったので、今回は小説内で展開される哲学について中心に書いていきたいと思います。

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https://www.amazon.co.jp/チャパーエフと空虚-ヴィクトル-ペレーヴィン/dp/4903619044

Ⅰ)あらすじ

 「空虚〈プストタ〉」の名を冠するピョートル・プストタは友人との再会からボリシェヴィキの活動に巻き込まれることとなり、現実から夢へ、夢から幻へ、幻から幻へとどこでもない場所を彷徨い続けることになる──

 まあ正直あらすじを聞いてもわけわからんとは思います、というのも本書の根底にある哲学が原因となっていて、その哲学を以下で考えていきます。


Ⅱ)空虚なる世界─ドストエフスキイの世界─

 この小説の根底にある哲学、それはドストエフスキー世界観、つまりどういうことかというと、すべては人間の意識が生み出すものであるという世界観です。

 だがいま起きているのは、まるっきり別のこと、暗澹たるドストエフスキイ世界だ(……)ドストエフスキイ的不安の源は、むろん、死体や弾痕の残るドア自体にあるのではない。すべては自分自身、さまざまな他人の告白に影響を受けた意識自身がつくりだしているにすぎない。

『チャパーエフと空虚』 〈P.22〉

  この哲学を下敷きとして意識の根源たる空虚どこでもない場所が追求されていくため、現実世界は非常に曖昧な存在として書かれていきます。

 どこか無限の彼方から、同じく無限の彼方に流れていく広大無辺な川。(……)この虹は僕が考えたり経験したりできることのすべてであり、僕の存在のすべて、あるいは僕ではないもののすべてだ。そして、前から自分でもわかっていたにちがいないが、それは僕と一切異なるところのないものだった。僕は虹であり、虹は僕なのだ。僕はつねにこの虹であり、それ以外の何ものでもなかった。

『チャパーエフと空虚』 〈P.411〉

 本書には様々な比喩表現が書かれているが、それらが意味しているものとはどこでもない場所であり、それは無限の彼方にある絶対にたどり着けない場所でありながら、なお自分自身であるということだろう。そしてそれを感じる方法は何もせず何も考えず何者でもない空虚にならなければならない(あるいはなってはならない)と言っているのだと思う。


Ⅲ)書くことの意義─破壊者として─

 では、空虚になるという目的を持った上でなぜ著者は小説を書くのだろうか。それは以下の文章に現れている。

そもそもこれは僕にとってつねに唯一の取り柄だったことではないだろうか──この作り物の世界を照らす鏡の玉を万年筆で撃ち落とすというのは。なんて意味深なシンボルだろう。このホールに、いま自分たちが目にしていることの意味を理解できる者がいないのが本当に残念だ。もっとも、いるのかもしれないが。

『チャパーエフと空虚』 〈P.444〉

 この作り物の世界──こりかたまった価値観に縛られた世界──の価値、現実性を物語によってひっくり返すために書いているということが読み取れる。しかしこれは現実世界の価値観そのものをぶっ壊すと同時に、この物語によって創造された価値観をもぶっ壊すという意味も含んでいると思われ(この表現が物語の終盤に出ていることからもこうした意図があることは間違いないように思う)、破壊した価値観の残骸をさらに破壊、その欠片をさらに破壊さらに破壊、破壊、破壊……という破壊行為を延々に繰り返していくことによって空虚に近づこうとしているのだろう。一見この行為に終わりはないように見えるが、おそらくこの終わりなき行為が完全に目的の存在を忘れる瞬間、それがまさしく著者が求めるところの空虚なのだと思う。

 作中でも書かれていますが、険しい山を登るとき、目的は頂上にあったとしても意識はすべて困難な道をいかに進んでいくかに向けられていると思います。とにかく自分が登りたいと思える険しい山を見つけることが、何よりも大切なのかなと考えさせられます。そのためには、わけもわからずとも多くの山々を登ってみることも重要だろうとして、ここnoteに書く内容としても自分の中の固定観念に縛られず、色々な記事を書いていきたいと思っています。


Ⅳ)さいごに

 今回は小説内哲学にフォーカスを絞って書いていきましたが、それはこの小説の魅力の半分で面白い比喩表現、ぶっ飛んだ抽象世界の数々がこの小説の大きな魅力となっているので、是非とも一度手に取ってみていただきたい。
   以上、お付き合いありがとうございました。

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