シーモアグラース

 シー モア グラース。鏡をじっとのぞき込めば、きっと自分の身体が、自分の意志とは関係なく生きていることに気がつくはずだ。口を開いて鏡をのぞき込んで、鏡に映る口をのぞき込む。そうすれば、舌が脈動しているのが見て取れるはずだ。人の身体は生きている。意識せずともだ。

 舌は無意識でも動いている。それを知ったとき、言葉の意義は少し変わってくるように思われる。舌が意識とは関係なく動いていること、予めリズムを持っていること。それはつまり、人間は無意識のリズムを常に刻んでいるということであり、無意識の言葉を持っているということではないか?
 思考や意識と関係なく、舌はリズムを持っている。これは心臓のリズムだ。では心臓のリズムとはなんだろうか? これは感情のリズムだろう。心臓の鼓動はすなわち感情であり、心臓の鼓動パターンに対する経験による意味付け、これが言葉であり、そうして感情は言葉になるのだろう。感情とは肉体を起源を持つものなのだと思う。

 言葉に意味はないし、意味がない言葉に、人間は意味を見出すようにできているのだろう


 両手の鳴る音は知る。
 片手の鳴る音はいかに。

 という禅の公案が『ナイン・ストーリーズ』の冒頭に書かれているが、これには、片手の鳴る音などないと答えるのが正解だろう。

 存在は番を求める。どんな存在も、番があってはじめて安定する。

 植物を見てみるといい。例えば葉だ。葉を見れば、葉柄から葉先にかけて、零地点から左右対象に広がって再び零地点に戻っていくのがわかる。葉一枚なら、スタートは同じ地点で、それが左右シンメトリーに広がってまた中央地点に戻っていくのは一目瞭然だ。右と左が番の関係にあたる。そのシンメトリー性は木にも見られる。木の幹は右に伸びればその先で左に伸び、左に伸びればその先で右に伸びていき、バランスを取って上へと伸びていく。葉単体のバランスと木全体のバランス、その双方が求められているわけだが、優先されるのは木全体のバランスであろう。

 葉と木の関係は、人間と社会の関係。個人は単体としてシンメトリーを求めるが、同時に全体のシンメトリーを求め、後者を優先するようにできている。

 個のシンメトリー性はそもそも不完全なものだ。左右同形のように見えてもそうではない。外見も内面も常に不安定なものであって、揺らぎ続けるのが人間である(あらゆる存在がそうなのだ)。その不完全性ゆえに人は他者を求めてしまう。人は他者と補い合うことで、少しだけシンメトリーに近づくことができる。

 

 さて、『バナナフィッシュにうってつけの日』では、シーモア・グラースは自殺してしまうが、これはなぜなのだろうか。シーモアは自殺する前にシビルにバナナフィッシュの話をするが、このバナナフィッシュの話には明確な意図などなかったのだと思う。問題はシビルの対応にあって、戦争でぶっ壊れた人物の意味のない話に対してでさえ、シビルは話を合わせようとした。ここでわかるのは、他者に影響を与えないことの不可能性だ。意味のなさは意味のなさ足りえない。人間は、そのどんなに些細な言動さえも、他者にプラスかマイナスの影響を与えてしまうのだ。

  他者に影響を与えずには存在できない。その事実がある中で、自分が社会全体にとってお荷物な存在だったら、周囲にマイナスの影響を与えることしかできない存在だと自覚していた場合、誰かの番となるにふさわしい存在ではないと考えていた場合、どういう行動を取るべきだろうか。

 鏡を見て、自分自身に問うてみてほしい。
 あなたという存在は、世界にとってプラスなのか、それともマイナスなのか。

 意志とは関係なく、すべては繋がっているから、あなたは生きているから。あなたがもし、自分が世界にとって邪魔者だと思い、どんなに慎ましやかに生きていたとしても、あなたが生きている限り世界はあなたの影響を受け続けてしまう。

 あなた自身がマイナスなら、あなたが腐った葉ならば、死を選ぶことは自然なことなのだろう。だからこそ、自分自身にきちんと問うてみて欲しい。自分という存在は世界にとってプラスなのか、マイナスなのかを。自分自身の身体は生きようとしているのか、死のうとしているのか。番になる存在はいるのか、いないのか。

 物語の中でシーモア・グラースは様々な人間と関わってきた。シーモアのことをよく思う人間もいる、悪く思う人間もいる。それがわかるように書かれている。どんな人間だってそうだろう。
 あらゆる人間に好かれる人間はいないし、その逆もしかりだ。じっくり考えてみればわかるはずだ。ここまで書いてきたことに意味はない。プラスもマイナスも、全体で見ればすべて帳消しになるはずだ。

 世界にとって、自分の隣にいる人に対して、自分は相応しくないと感じること、そうして死を選ぶこと。そこにはどんな意味があるだろうか。その後には何が遺るだろうか。それはわからない。少なくとも『バナナフィッシュにうってつけの日』の中ではその先は書かれていないし、私もそれを想像したくはない。でも、その先の想像は何よりも大切なことだとも思う。

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