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 考えることが好きだ。
 気付けば四六時中何かを考えている。

 今朝は目を覚ましたベットの上で、ぼんやりと「一見さん」で韻を踏める言葉を考えていた。昨日はラカン哲学の「対象a」とは「可能性」のことではないかと考えていた。他には『トリビアの泉』は何歳下の人にまで通じるのか、とか。
 街へ出れば看板の落書きの意味を考え、コンクリートにできたヒビの原因を考える。同じ場所に生えている植木の葉が、ある部分は緑色で、ある部分は黄色である理由を考える。
 好きなものが好きである所以を考える。ソシュール言語学に就て考える。現状の善し悪しを考える。今抱く感情を考える。明日のことを考える。何だっていい。ただ、考える。

 ある時、私は職場の友人と、仕事をサボりがてら雑談していた。関西生まれ関西育ちで口達者な私は、話しながら自分がまたもや喋り過ぎていることに気付いた。これはいけないと思い、切り上げてそれから、聞き役に徹しようとした。
 沢山喋って申し訳ない。私のターンは終わらせましたので、あなたにお渡しします。どうぞ気の済むまで喋って下さい。御詫びです。さぁ。
 しかし友人は二言三言、私に返すだけだった。なんと慎ましやかな友人だろう。だが、これでは釣り合いが取れない。そこで「ごめん、いっぱい喋っちゃって。いいよ、もっと話してても。聞くよ、全然。」と伝えた。すると友人は言った。「いや……。いいよって言われても。そんな話すこと無いからなぁ。」
 またまたぁ。何たる謙遜具合であるか。
 「いやぁ、ほら、私、考えたこととか思ったこととかすぐ言っちゃうからさ。その分返してくれて良いんだよ?ほんと。全然!いつも聞いてもらってるの申し訳ないしさ!」相変わらずよく喋る。
 「えー?うーん。話すっていっても、私、そんな考えてないからなぁ。」
 「……?」考えてない?
 「多分普通の人はそんないっぱい考えてないよ。」
 「……!?」考えてない!?

 マジか。

 その時、どうやら私は普通の人より“考えている”らしいことを悟った。
 今から約1年ほど前の話である。

 それからだ。“考えている自分”に明確な意識を向けるようになったのは。言われてみれば確かに私は考えていた。常に何かが頭を擡げていた。
 そんなに考えて続けていて疲れないのか、と訊かれたことがある。疲れないのである。もしかすると、長年これが常態であった為に、麻痺しているのかもしれない。考えていない状態、というのが、もはや分からないのである。
 察するに、私は考えるのが好きなのだ。それはもう趣味レベルで。きっとそうだ。そうに違いない。などと自分の脳に刷り込んでいると、どうも妙な自信が湧いてきた。
《趣味:考えること》
おお。中々に素敵ではなかろうか。

 といった次第で、履歴書にも自信を持って記入してみた。添削を願うべく教務へ提出。数日後。履歴書が返される。添削箇所を確認する。趣味の欄に赤が入っている。「考えること」に丸が付いている。枠外へ伸ばされた矢印。その先に一言。素朴にして単純明快な疑問。

 『何を?』
 


 初めまして。及と申します。しき、と読みます。ブログ始めます。   
           
               2023年8月22日㈫
                自室ベッドの上


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