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コピー用紙の式神を飛ばす女

式神コピ子です。
今回はお題、「名前の由来」
に参加させていただいております。

まあ、タイトルが全てなんですが。


よりにもよってなぜ式神なんだ

言わずもがな、この名前は
コピー用紙でできたお手製式神を
飛ばしていた過去をもつことに由来している。

当時私は小学3年生。

下校するや、真っ先に
小さな町民グラウンドへ駆けていき、
せっせとこさえた式神を飛ばす。一人で。

せめて紙飛行機であれ。

なんとも早すぎた厨二病罹患である。
友達がいなかったわけではないけれど、
そういう“儀式“の時はやはり
人に見せるものではない、という
謎のポリシーの結果、だいぶ減った。

なぜ、何の力も無いとわかっていながら
からっぽの式神を飛ばすのか?

当時の気持ちと言っても10年以上
前のことだから曖昧なのだが、
今考えると、ただ「特別な人」と
認めてもらいたかったのだと思う。

式神まがいなんか飛ばしていないで、
勉強するなり、本気で遊ぶなり
していたほうが、後々よっぽど
輝く人になれていたと思うが。

「特別な自分」になりたくて。
でも才能なんてそう見つからない。
できそうな事になんて、とうの昔に
クラスの、或いは学年の誰かが
「特別な人」
として君臨しているのだから、
私の席はもう空いていない。

となれば、誰も踏み入っていない
未開の地を開拓するしかない。
なるのだ。先駆者-パイオニア-に。


そして必死に絞り出した結果が、
式神、だったというわけだ。


なんでだ。
もっとこう…あるだろう!

しかも、私は自分で
「自分には"本物の力など無い"」
ことを知っている。

なのに何故そんな虚無の所業を続けるのか?

「人からそう見えていれば良い」
これが当時の私のアンサーだ。

この答えに、今の私の苦しみ全ての
根源が集約されていると言っても過言ではない。

この特別になれるジャンル
「式神を飛ばすミステリアスな私」
を絞り出すにあたっては、
「不思議ちゃんだよね」
と言われたことがきっかけになったように思う。

(そうか、私はそう見られているのか)

そう思われているのなら、
例え無駄だとわかっていてもそれなりの、
それらしい行動を取るべきである。
と、当時は本気で思っていた。



私は私の為ではなく、「不思議ちゃんだよね」
と言ったその人の感性を肯定するためだけに、
からっぽの式神を飛ばしていた。





苦しみの根源

「お利口ねえ」 「大人しいねえ」 「遠慮しいだねえ」
「賢いねえ」 「可愛いねえ」

幼少期、沢山の褒め言葉を貰った。
まあ、勿論お世辞もあっただろうけれど。
疑うことを知らない、
アホがつくほど素直で、
バカがつくほど正直だった私は
そんな言葉たちを真正面から受け止め続けた。

受け止めて、客観的な私を知る。
客観視された私と、本来の私は当然違う。

人から見た自分と、本来の自分。
まあ、違っていて当然だよね。

…と、そういう思考に至るのが普通であり、
健全であると、今はわかる。

でも当時の私は違った。本来の自分を軽視し、
他人によって作られた
「大人しくてお利口な自分」
に寄せすぎたのだ。


親戚に会いに行く。
お菓子を出される。
私の大好きな、レモン風味のチーズタルト。

食べたい。今すぐに。
本当はそう思っているくせに、
「遠慮しいだねえ」
と言われた過去の自分、イメージの自分を
守るためだけに、ただただ、ひたすらに
眼前のお茶を啜るのだ。

アホか。

逆に失礼だろ、と今になって思う。
本当に。

この無駄なキャラ作りで、
どれだけの損をしてきたのだろう。
考えたくない。


…と、さも克服したかのように
書き連ねてはいるが、今現在も
他人のイメージに沿おうとする
悪癖は抜けていない。

良くないことだ、やめなければ。
という自覚のある分、当時よりつらい。

やめられない。怖い。
身近な、接する時間の長い人にほど
「イメージの私」を演じる傾向がある。

嫌われたくない。
つまるところ、嫌われたくないのだ私は。

うっかり本来の自分を出して、
「えっ、そんな人だったの。 幻滅…」
なんて言われた日(或いは態度に出された日)
には、ショックで寝込むだろう。

だから、何処にも出せなかった真の自分を、
せめてインターネッツの海にくらいは
放流してやろう。という魂胆なのである。

おわりに

今まで閉じ込めていた反動は
相当でかかったらしい。
タイプする手が止まらない。

由来から飛躍しすぎたような気もするが、
これが式神コピ子のルーツである。

真の自分の解放!バンザイ!


おわり

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