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「送」

◇案の定、前回の記事「盆」のビューが伸びない。通常の半分くらいか?

しかしこれは想定内で、記事の中にあるように現代は「死」を見ないように、すなわち「無い」ようにして立ち振る舞う。

それを定量的に推し量る事ができたのは結果的に面白い。

が、今回の記事も「生死」について。お盆最終日だしね。


◇今年のお盆も墓参りツアーを敢行した。

とは言っても母方父方、両先祖の墓は自宅からも割と近い所にあるので大した事ではない。

ゆえに物心ついた時からお墓参りに行き、毎日仏壇に手を合わせ、年末には神棚を掃除したりしていたから、こういった事は特別な事でも何でもなく生活の中に組み込まれた一つの所作に過ぎない。いわば歯磨きぐらい自分の中には当たり前だから、当然面倒だと思ったこともない。

ただし遠く山奥にある親友の墓に行くのには少々堪えた。今年は友人達との予定が合わず仕方なく一人で出向いたが、道中あまりにも暇で参ってしまった。

しかも霊園に到着後、予報になかった雨雲が発生し大雨に降られビショ濡れに。なんでこんな遠く人のいない山奥に霊園なんて作るんだと思うが、これが正に「死」を見ないようにする所作という事でもあるんだよね。

街中にあるお墓には目隠しの塀が高く作られていることからもそれがわかる。

◇現代は葬儀ホールにて葬送の儀が執り行われる。一昔前は自宅で行う事も普通だったが若い人は信じられないかもしれない。

これは遡ると生活環境の変化や価値観の変化など挙げられるが、その経緯を知りたい方は「無葬社会 : 鵜飼秀徳 著」を読まれると良いと思う。

これは多くの人が普段意識しない事であり、しかし未来に確実に通る道の現在が書かれており、それゆえ面白いと思う。


◇初めて「死」を体感したのは小学生低学年の時。じいちゃんの死だった。

祖父母のことが好きだったから、いつもの様に遊びに行く感覚でワクワクしながら家に入ると和室で寝ているじいちゃんの遺体が目に入った。

その瞬間殴られた様な物凄いショックを受け、近寄る事ができずに離れた居間に閉じこもり弟とテレビを小一時間見て過ごした。

落ち着いてきた頃「おじいちゃんの顔を見てあげて」そう母に諭され、やっとじいちゃんを見る事ができた。その表情は今でも鮮明に覚えている。

悲しいという感情はまだ分からなかったが、人は死ぬと穏やかな顔になるんだなと思った。その表情を見て自分も落ち着くのがわかった。

どんな人であっても最後には穏やかになれるのならば、それは人にとって一つの救いだとも思う。


◇「寝ずの番」

通夜の夜、故人の亡骸と共に一晩線香の火を絶やさない様にする事をいう。その理由には諸説があるが、自分は「家に生きていた故人の匂いを消し去る為」と誰か言われた。

また、故人の茶碗を割る風習についても寝ずの番と同じ意味があり「貴方の居場所はこの世には無くあの世だよ」そう故人に知らせる風習じゃないかな?と子供ながら勝手にそう思ったのを覚えている。


◇「寝ている様」

寝ずの番をやっていると故人は本当に寝ている様にしか見えない。しかし頭を撫でてみると、やはり体温は無い。

しかしながら、この寝ずの番をやるとそこにいる全員がある不思議な現象にあう。それは

「亡骸から寝息が聞こえること」

じいちゃんの時は覚えてないが、ばあちゃんの寝ずの番をやった時だった。

あれ?寝息が聞こえない?そう誰かが言い出す。耳を澄ますと確かにばあちゃんの亡骸から息遣いが聞こえてくる。

近寄って見てみると、今度は聞こえない。そしてまたしばらくすると、また聞こえてくる。

自分含め寝ずの番は6人いたから何回か全員で息を潜めたりしてみたが、やはり静かな寝息が全員に聞こえる。

あんまりにも不思議だが何回やっても聞こえてくるので、次第にみんな気にしなくなった。

そしてやっぱり線香の火は何回か絶やした。

不可知な何かが起きたって夜は夜。人は人。眠いもんは眠いのだ。

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