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「発酵」という知恵、そしてその恩恵

母が、新しいオーブンレンジでパンを焼いた。シンプルなロールパンだ。香ばしいバターの香りと優しい風味。ほのかな塩味とバターのうま味・甘味の絶妙なバランスがたまらない。母は焼きすぎてクロワッサンみたいになったと惜しがっていたが、これはこれで十分おいしい。3個も食べたので、夕飯を調節しないといけなくなってしまった。


さて、パンは発酵食品のひとつである。発酵とは、菌などの微生物が有機物を分解して別の物質を生じることだ。

「腐敗」と似ているが、「発酵」は人にとって有益であるという点で大いに異なる。そして世界中で人間の食生活を豊かにしている。日本にも、味噌、醤油、酢、納豆、麹など様々な発酵食品が存在する。微生物であれば何でも良いというわけではなく、それぞれの発酵食品で特定の微生物が活躍している。

空気中に牛乳を放置して、その中で増殖を始めたのが乳酸菌ならば、その牛乳は人類にとって無害、しかも酸味とコクのあるおいしい食料になる。しかし増殖を始めたのが腐敗菌ならば、牛乳は次第に異臭を放ち始め、それを一口でも食べたなら猛烈な腹痛に襲われる危険な物質に変わってしまう。

そう考えると、発酵と腐敗は隣り合わせのように見える。古代の人々は、どのように「発酵」を発見したのだろうか。調べてみると、これがまた面白いのである。

人類と発酵乳の出会い

初めて発酵乳と出会ったのは、紀元前6000年ほど前の中央アジアの遊牧民だという。というのも、彼らは世界で初めて山羊や羊の乳の利用を始めたと考えられているからである。乳の利用を始めてまもなく、彼らは発酵を体験することになる。放置していた乳が、いつのまにかヨーグルトのような半固形物質に変化していたのである。

この幸運な発見には、2つの理由がある。
羊や牛などの動物の乳房の周りには乳酸菌が多く存在し、絞った乳にはそもそも乳酸菌が多く含まれていること。そして、中央アジアの草原地帯は低湿度のため乳を腐敗させる菌が増殖しにくいこと。
このような理由から、当時の遊牧民たちは比較的容易に発酵を起こすことができたと考えられている。

もし日本などの高温多湿な地域で同じような状況になったとしても、この発見は叶わなかっただろう。空気中には乳酸菌と競合する様々な菌が存在し、乳を放置すればたちまち腐敗してしまうからである。

実は日本で発達した発酵食品に塩気があるものが多いのは、このためである。塩分濃度を高めれば雑菌は増殖しにくくなり、塩分耐性のある利用したい菌のみを使うことができる。醤油や味噌では、製造工程で食塩を多く用いる。


発酵パンの発明

パンは、酵母という菌が発酵に関わっており、あの独特の食感や香り、味を生み出している。パンにはどんな起源があるのだろうか。利用開始から比較的すぐに発酵乳の発見があった乳に対して、発酵パンは段階を踏んで誕生したという。

小麦の栽培は、約1万年前、メソポタミア文明の栄えた地域で始まったとされている。初めはおかゆのように食べていたが、長い時間を経て次第に水を加えた小麦粉を薄く焼いて食べるようになった。無発酵のパンである。この無発酵のパンは、今から5000年ほど前には、古代エジプトまで伝わったという。(当時「命の源」とされていたパンは、ツタンカーメンの墓からも見つかっているそうだ)

そのエジプトで、あるときたまたま放置されていた生地に空気中の酵母が付着し、誠に偶然ながら発酵パンが誕生したと言われている。


これらの発酵が発見されたのは、想像もできないほどの大昔である。テレビもスマホもない。もちろん車もない。人間の生活様式も言葉も、時代が進むにつれて変化して、地球上では、数えきれないほどの人が生まれ、死んでいったのだ。
彼らが残してくれた物は計り知れない。今日も私は、その恩恵を受けながら、のうのうと生きている。パンを食みながら、そんなことを思う。一口一口が、特別に感じる。






【参考文献】
・小泉武夫「発酵食品礼讃」株式会社文藝春秋 平成11年11月20日発行

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