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わかりあえない世界の中で

アートは分断と同義じゃないか。煮えたぎるマグマを汲み上げ、ほらどうです、と見せつける。地中にあれば感知すらしなかったのに。分かってほしいと分からないよが行き交う空間は絶望に満ちていた。

大学生の私が友人に誘われて行った藝祭の感想は確かこんな感じだった。アート論を語る教養など持ち合わせない人間のバリバリのド偏見でしかないが、ずっとこの絶望を抱えて…いや、本当に何を創ったわけでもない人間が大袈裟な物言いをして畏れ多いが、嘘ではない。

先日、新宿駅南口のWEWoMan ART wallの春らしい写真に目を引かれて思わず足を止めた。メイクアップアーティストの方とフォトグラファーの方の展示だった。

メイクのテクスチャ。ミクロの世界。綺麗だ。でも、何も分からないな。

でも、綺麗だ。私はしばらくじっとこのテクスチャを見ていた。

というのも、私の情報処理はかなり遅い。特に感情や情緒的メッセージ、非言語情報が絡むと圧倒されてしまう。詩や絵などにいちいち心を寄せていたら私は経済的に死んでしまうだろうし、しかしそれらを無視していたら何のために生きているのか分からない。少し、生きづらいかもしれない。

ミクロの写真を見るうちに「この世界にもいていいんだよ」と許された気がした。

感覚的な言葉になってしまうが、「この世界」とは、どうせ分かることはない中で感じるままに漂うしかない絶望的な世界、感性の世界みたいなもの。

例えば企画書や決算書などは分かるものでないといけないが、一方で一人ひとりの感覚を使って具現化されたアートなるもの、どうせそもそも分かりようがない。

「共感」は「ともに感じた」であって同じものを見ることは絶対に永遠にできない。ただ、分断されながらぷかぷかと一緒にいることならできるだろう。

こっちとあっち、感性的な世界と理性的に活動する現実世界。気が向いたら行き来すればいいじゃないか。

どこか安心してルミネ新宿のタイ料理屋へ行き、料理が来るまで紙のノートに走り書いた春のある日の記録です。

素敵な展示をありがとうございました^ ^


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