読書記録:『唯識とはなにか 唯識三十頌を読む』

唯識とはなにか 唯識三十頌を読む/ 多川 俊映
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先日空の境界を見返していて阿頼耶識について調べようと思っていたのを思い出して関連書籍を探していた。

阿頼耶識とは

唯識という大乗仏教における思想の一つの中の用語。簡単に言って無意識、潜在意識、集合的無意識。自分が生まれるまでの過去について、前世前々世を遡ったあらゆる事象の情報。つまりアカシックレコード。

型月世界における魔術は西洋ベースで、史上最強の哲学入門を読めばわかるとおり西洋は自分の外に神や全ての存在の根源を求め、東洋は自分の内側に神や存在の根源を求めている辺り、もし東洋における魔術師的存在がいたとしたらそれは魔術師でなく哲学者・思想家・宗教家の類だっただろう。空の境界の荒耶宗蓮は確か台密の僧だったはずだが、日本における仏教の真意みたいなものは東洋哲学よろしく非常に分かり難く神智学やシャーマニズム、スピリチュアリズムと学問的体系をとっていた西洋に流れてしまったとかだろうか。もしくは唯識では納得いかなかったとか。

自分とは一体

前五識(眼・耳・鼻・舌・身)、第六意識、第七末那識、第八阿頼耶識で人の心は成り立っている。前五識と第六意識が表層心、末那識と阿頼耶識が深層心。前五識は感覚器官で受け取れる感覚のこと、第六意識はそれに伴う感情などを指し、末那識が無意識での思量の領域、阿頼耶識は自分で意識し得ない完全に無意識の世界。

……と、まあ何だか心理学で聞いたような内容である。

感覚器官を通じて感覚を受け取り思考するわけだが、その感覚を感じようなどと思って行動する人は少ないだろう。つまり感覚を受けようとした自分が先であってその感覚は後にくるものだが、そもそも感覚を受けようとした時点での自分は感覚を知らないのに感覚を受けた後決まったパターンを思考するのは何故かという、これまた卵が先か鶏が先かみたいな話。そもそも感覚を受ける自分と感覚を感じる自分と感覚について感想を述べる自分がいるわけだがそれらは観測者がいないにも関わらず発動するわけで、つまり自分の中に自分を観測する自分と二つ存在があるような状態となっている。それに気づいたとき、悟りを得られる……のだろうか。

感覚器官から深層部に向けて番号が振られているが、変化は内部から、第八阿頼耶識が第一能変、第七末那識が第二能変、第六意識・前五識が第三能変という順になっている。例えばご飯を食べたとき美味しいと思ったとして、それは感覚器官から内部へ信号が伝えられて「美味しい」と認識するものと思いきやまず阿頼耶識から情報が伝えられてそれが表層化し「美味しい」と感じている。

この前読んだ哲学とあまり変わらない話ではないか。続けて読んでよかった。

ちなみに仏教でこれだけ深く掘り下げられて考えられているのに対してキリスト教などの西洋の宗教はあまり自分というものを掘り下げていなくて資料があまり見つからなかった。哲学と同じくやはりそこは東洋と西洋で異なるらしい。その違いも興味深いのだがどこから調べて良いのかわからないのでいずれ機会があれば。

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