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怒られても誰かのせいに出来ない

怒られたり、注意されたりしたとき僕はどうしても誰かのせいにすることが出来ません。

これを人によっては「ちゃんと自分で受け止めて偉い」と言ってくれる人がいるのですが、このことがいかに自分を追い詰めているか自分では分かっているつもりです。

ただ出来ない。

言い訳も出来ない。

理由があって出来なかったことを説明しようとしても、怒られた、注意されたという事実が全てそれらに対する返事=言い訳と僕自身思ってしまいます。

また誰かのせいにしようと頭の中で誰かを責めても、脳の中の別の自分が「自己正当するためにそんなことしても意味ないよ」と呟き、嫌でも客観視してしまいます。

だけど一方で、怒られた、注意されたということから自分は価値のない人間なんだ、役に立たない人間なんだという思い込みも同時に浮かんでしまいます。

客観視と思い込みという深い主観。

二律背反のはずがなぜか成り立ってしまう、そんな狭間でいつも苦しんでしまいます。

適度に自分のせいにして次に活かすのが理想な一方で、過度に自分のせいにしてもそれは反省にはならず自己嫌悪に変わるだけです。

僕自身、今まで反省よりも自己嫌悪による原動力で成長してきた節があるので、これを変えるのはなかなか難しいんだろうなと思っています。

こんな自分は嫌だ、このままじゃダメだというエネルギーは強烈である一方で、常に自分にムチを打ち続けています。

自分を傷付けながらの先にある成長は嬉しいという気持ちよりも安堵感が強く、そこには他人からの承認欲求も付いてきます。

自分で傷付けたから誰かに認められて癒されたい。
そんな気持ちが益々、自分を苦しめてしまうのも悲しい事実です。

また怒られるということへの認識があまり上手ではなく、どうしても自己否定と捉えてしまいます。

作業、行動に対しての注意だと分かっていても、自分がダメだからこうなってしまうんだという思考法になってしまい、気分の浮き沈みが大きくなるんだと思います。

ここまで自己認識が出来ていても、脳の自動思考のようなものが働き、簡単に変えることが出来ません。

難しいですね、ほんと。

怒られることが自己否定と思うからこそ、誰にも嫌われたくないという気持ちが育ち、八方美人が板につき、気付けば肝心の自分の心が消耗している。

そんなときに書くということはとても良いんだなと今書いていて思いました。

口に出して悩みごとを言うことも苦手な僕は、書くことが素直になれる1つみたいです。

女性が男性より平均寿命が長いのは、言葉にすることでのストレス発散が上手というのも1つなのかなって思います。

話すことは大好きなのですが、どうも自分の悩みや、苦しみを言うことがなぜかとても苦手です。

自分の弱さを露呈してしまうからでしょうか。

明確な理由は分かりませんが、口に出せない僕にとっては書くことがはけ口みたいです。

いくらでも書けそうですが、あまりにも散乱なのでこの辺で終わろうと思います。

ここまで読んでいただきありがとうございました。

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