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短編小説【柚子ハイボール】


 ある夏の日の出来事だ。特に変わった事件が起きたわけではないのに、今でも時折思い出す瞬間がある。
 彼女はお盆休みのある日、世話になった故人の墓参りに夫とともに自転車で出かけていた。夏の強い日差しで皮膚が熱くなるのを感じながら自転車を降りる。一瞬、足元が揺れるのがわかった。手の甲で汗をぬぐうと、そのまま木製の使い込んだ扉を思いっきり引いた。
 「いらっしゃい」
 なじみの店のママがいつもの通り、笑顔で出迎えてくれる。
「えっと、ランチとビール。コップは二つね」
 途中どこかに立ち寄ることもなく帰り際に、近所のイタリアンレストランに入ったのだ。イタリアンと言っても、ハンバーグや焼き肉もあるような住宅街にある気軽に立ち寄れる店だった。冷えたコップにビールを注ぐと、泡が静まるのももどかしく、口に運ぶ。お行儀が悪いと思いつつ、わざと喉を鳴らすように飲むのが美味しい。
「いいわね、昼から飲めて」
 とママに皮肉っぽく言われて、彼女は一瞬いらだちを感じながら
「だって、これくらいしか楽しみにがないんだもの」
 と言葉を返した。福祉関係の仕事の隙間を縫うように毎日の子育てや家事、自分の楽しみに回す時間などどこにもない。自分にとっての楽しみが何なのかも忘れているような日々だった。貴重な休みの日の象徴としての昼ビール。
 「これをおいて他に何の喜びがあるというのか」
 彼女は心の中でつぶいた。だがその刹那、どこか気持ちが冷えるような感覚を覚えたのも事実だった。自分でも、うすうす気づいていることを口にしてみる。
「昼酒を飲むしか楽しみがない主婦」
 あえて言葉にしてみれば、そこには、何の魅力もない、日常生活の忙しさと退屈に追われ、自分の容姿や体力が衰えていくのを嘆くだけの40女がいるだけだった。
 「じゃあ、どうしろっていうのよ」
 追加のビールをあおりながら自問自答してみる。考えが堂々巡りしながら店を後にした。
 
 その問いには誰も答えてくれなかった。自己啓発本を読んだり、セミナーに行ってもそれは誰かが発見したことでしかない。結局は自分で見つけて試すしかない、いつしか彼女はそう思うようになった。もう言い訳をするような生き方はいやだ心底から思った。
 
 あれから十数年、彼女は「見つける」というよりも、さまざまな出来事に「襲われた」と表現するほうが正確だろうと思われる日々を送ってきた。フルタイムの仕事を辞めたこと、彼女自身の病気、夫の早期退職など、大波小波がやってきた。その都度、言い訳を考える前に、少しでも自分にできることをやり続けてきた。「昼酒を飲むしか楽しみがない主婦」から脱出したい、そんな思いだけだったかもしれない。数年前に夫ともに起業して、大晦日も間近な今日、やっと年内の仕事のめどがついた。
「今年は個人事業主として、まあまあやってこれたんじゃないの」
 と独り言のように呟くと、頂き物の柚子の皮をすりおろして、ハイボールを作った。柑橘系の香りが神経の高ぶりを沈めてくれる。そういえば最近の酒は言い訳の味がしないな、と気付いて飲む酒が何より最高の味だった。
#いい時間とお酒 #小説 #文芸

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