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シカク運営振り返り記 第48回 父と私の歪んだ関係(たけしげみゆき)

(はじめに)
この連載は、インディーズ出版物のお店・シカクの代表・たけしげが、10年ちょっとのお店運営の裏側で起きていた悲喜こもごもを振り返るエッセイです。過去の連載はこちらから!

インターネットでたまたま「アダルトチルドレン」という言葉を知った私は、自分の性質に名前がついていること、それほど一定数の人々にみられる傾向であり自分だけの悩みではなかったことに驚いた。

私は物心ついた時から、ずっと父に怯えていた。
幼い頃の記憶でいちばん最初に浮かぶのは、ダイニングテーブルの向かいに座って私を詰問する恐ろしい顔の父と、その隣で無表情でうつむく母だ。私や兄が何か気に入らないことをすると、父はきまって”家族会議”を開き、
「なんであんなことしたんや」
と我々兄妹に詰め寄ったり怒鳴りつけたりした。

それは会議と呼ばれていたが、話し合いではなく強いていうなら逮捕者の取り調べのようだった。「なんで」と質問の形を取っているものの、父は私の気持ちを知りたいのではなく、父の中だけに存在する”正しい答え”を私の口から言わせたがっていた。しかしその”正しい答え”に私が辿り着けることは滅多になかった。父が詰問するのは「なんで食事中にトイレに行ったんや」「なんであんな下品な言葉遣いをしたんや」というような、幼い私が理由を聞かれても困るようなことばかりだったし、それに素直に「トイレに行きたくなったから」「最近テレビでその言葉を聞いてマネしたくなったから」などと答えても父は納得しなかった。
私が“間違った答え”を口にすると、それから数十分にわたり説教が始まる。父はその説教をすることで、私を”正しい答え”に導こうとしているのだとわかる。しかしその内容はまだ10歳にも満たない私には難しすぎて、何を言っているのかほとんど理解できなかった。理解できない言葉でただただ怒られるだけの時間のあと、再び
「それで、なんであんなことしたんや」
の質問がくる。自分なりにさっきと違う答えを考えて口にするが、また間違ってしまう。父は「私がちゃんと話を聞いていなかった」とさらに怒り、また説教が始まる。

それが何時間も繰り返され、大抵は真夜中になって私がウトウトしはじめ、母が「もう遅いから」と父をなだめ、なし崩しで会議は終わった。それでも父の怒りが収まらなかったときは「明日の夜までに答えを考えておけ」と言われ、次の日もまた次の日も、何日も取り調べが続くこともあった。

父が家にいるときは、何が家族会議の発端になるかわからないので常に気を抜けなかった。
油断して緊張がとけ不用意な言動をしたり、うっかり父の気に食わないことをして家族会議が始まってしまったときは、終わりの見えない説教を受けながら会議の原因を作った自分を心の中で責め続けた。

父は子どもを嫌ったり憎んでいたわけではない。団塊の世代で昭和気質だった父は、子どもとはどういう生き物なのか、どういう接し方をすればいいのかわかっていなかったのだろう。
小学校低学年くらいのころだったか、家で緊張している私の様子を見て、父が少し不安そうに
「お父さんは怖いか?」
と聞いてきたことがある。私は初めて見る父のそんな表情に驚き、
「怖くない」
ととっさに嘘をついた。父は安心したような顔で「そうか」と言った。私は父を不安がらせたことに罪悪感を覚え、そのときから緊張を悟られないために明るく振舞うようになった。
それ以降、家族会議が始まったときには、自分を責めるだけではなく
(あのとき素直に「怖い」と言っていたら、何かが変わったんだろうか)
という後悔にも襲われるようになった。

何度か、家族会議が夜中よりも前に終わったことがある。私が必死に考え出した答えが、父の中の”正しい答え”と一致したときだ。そうなると父は満足そうに「これからはそれに気をつけて過ごすように」などの言葉を告げ、解散となる。その”正しい答え”が自分の本心と一致していたことは一度もなかったため、いつしか本心を話すこと自体、無駄だと悟ってやらなくなった。

小学校高学年ごろから、私は学校帰りに友達と寄り道をして、帰宅時間をだんだん遅くするようになった。
「家で父と顔を合わす時間を減らせば、怯えて過ごす必要もないし、家族会議も発生しない」という画期的な発見をしたからだ。地雷が埋まっているとわかっている場所にわざわざ踏み入る必要はない。家にいる間も父と顔を合わせないよう、自分の部屋にこもりがちになった。

中学生になって部活に入ってからは、ますます父と距離を置くようになった。家族行事にも理由をつけてだんだん参加しなくなった。たまに会話をしても、淡々と最低限の受け答えにするよう心がけていた気がする。
両親は私の態度に苛立ち、ことあるごとに「文句があるなら出ていけ」と言った。
「誰が養ってると思ってるねん。ここはワシらの家や。ここにいる間は黙って言うこと聞け」
そう言われると反論のしようがないのが悔しかった。
「お前は女なんやから身体売ったら生きていけるやろ」
と言われたこともある。そうやって自由に生きていけたらどんなにいいかと思ったが、そこまでする勇気はなく、悔し泣きしながら父親を睨みつけることしかできなかった。だけど私の容姿がもっと整っていたり、危ない誘いを受ける機会があったら、あるいは父の言う通りの人生になっていたかもしれない。

高校では絵の勉強をしたかったのだが、美術系の学科がある高校は限られていたため、家から2時間かかる学校を選んだ。父は私が病弱なこともあり近所の高校に行かせたがっていたが、勝手に願書を提出した。
高校に入学してからは、毎日放課後に練習のある吹奏楽部に入り、学校の近くのスーパーでバイトを始めた。家を出るのは朝6時、帰るのは早くて20時。バイトがある日は23時。帰宅するころには疲れ果てており、ほとんど寝に帰るだけだった。肉体的には辛かったが、学校は気の合う同級生が多くとても楽しかった。
両親はますます私に苛立っていたようだが、もう家族会議が開かれることはなかった。私が家に帰るころには大抵みんな寝ていたからだ。

高校卒業後は手に職をつけたくて専門学校へ行った。父は大学に行けと言ったが、家にあと4年もいるなんて絶対に嫌だった。学費の安い国公立のデザイン専門学校を選び、奨学金を借りて自分で学費を払った。
卒業したらすぐに家を出られるよう就活に精を出していたが、ことごとく不採用になり、悩んでいるときに当時の彼氏からお店をやる計画を持ち出された。それがこの運営記の第1話に書いた、初代店長Bとの開店エピソードだ。
その計画はタンポポの綿毛よりフワフワしたものだったので、両親は猛反対して何度も「話し合おう」と言ってきた。だが私は断固拒否して逃げ回った。一度”話し合い”のテーブルにつけば、私から納得のいく答えを引き出すまで”尋問”が続くことは知っている。社会経験ゼロだった当時の私でさえ、自分たちの計画の杜撰さはわかっていたし、両親が心配するのも当然だなと思っていた。しかし私にとって重要なのは家を出ることだったので、乗っかって飛んでいけるならタンポポの綿毛でもなんでもよかった。
話し合いを避けるために卒業の数ヶ月前にはほとんど家にも帰らなくなり、Bの家に寝泊まりするようになった。そしてそのまま卒業を迎え、私は宣言通りに家を出た。

そのように殺伐とした関係のまま実家を離れたものの、シカクを開店してからは両親も諦めたようで、私の選んだ道を応援してくれるようになった。私も両親と距離をおいたことでだんだん当時のことを俯瞰して考えられるようになり、自分の頑なさを「あのときは無理だったけど、もっとああいう風にできたらよかったな」と省みたり、両親に感謝すべきところは感謝できるようになっていった。
だから昔は色々あったけど、今はとっくに親の圧から解放されたのだと思っていた。


しかし改めて考えると、私と父の関係と、この連載でも書いてきたBとの関係はそっくりだった。
父は私が意に反することをすると尋問や恫喝をした。Bはその代わり、壁に自分の頭を打ち付ける、メンタルクリニックでもらった薬を大量に飲んでげえげえ吐く、物を投げて泣き叫ぶなどの自傷的な行為を行った。私はそのたびにBを落ち着かせるためひたすら謝り、Bを苦しめる原因を作った自分を責め、同じ過ちを繰り返さないように注意を払って過ごした。

要するに、彼と父親はタイプが違えどやっていたことは全く同じだったし、私は父の顔色を窺っていた幼少期から何も変わっていなかったのだ。


そしてBと離れて暮らすようになってからも、私の性質は変わっていなかった。

例えば他人が自分をコントロールしようとしている圧を感じると、思考がストップし、とっさに相手に従ってしまう。特に「あなたのためを思っている」という善意の圧や、「ちゃんとした人ならこうするのが当然」という同調の圧に抵抗できない。

また例えば、誰かに嫌われたかもしれないと思ったり、こんなことを言ったら嫌われるかもと思いながら話すとき(自分にとって苦痛の元になる相手の言動を改めるようお願いするなど)、想像だけで恐怖心でいっぱいになり、動悸がしたり涙が出る。

人と会っているとき、相手が気に入りそうな自分を想像してそのように振る舞ってしまう。振る舞う自分が本来の自分とかけ離れていた場合、あとでものすごく疲れる。どういう振る舞いを求めているかわからない相手(感情が読めない人や無口な人)とどう接したらいいかわからない。素の自分で接したら嫌われるのではないかという恐怖心があるし、そもそも素の自分がどういう状態なのか自分でもよくわかっていない。

自己肯定感が低くて、自分に価値があると思えない。今すぐ消えても特に誰も悲しまないように感じる。何か失敗したり落ち込んだりした時はさらに自己肯定感が下がり、自分を延々と責め、川に飛び込みたいとか車が轢いてくれないかなとか思ってしまう。

Bと一緒に住んでいたときは、私はBの顔色だけを窺っていればよかった。友人関係も支配されていたため、私が親しくするのはB自身も友達と認めた人だけであり、その関係は常に私ーBー友人の三者で構成されていた。Bという盾に隠れていたから私自身が好かれているとか嫌われているという不安はなく、誰とでも気楽に接することができた。
だがBという盾がなくなったことで、人間関係というハードな荒波に自分だけで立ち向かわなければいけなくなった。そのときになって初めて自分のメンタルのもろさを痛感したのだった。


自分が「アダルトチルドレン」と呼ばれる存在であることはわかった。そのような名前がついているということは、治療法も確立されているのではないか? そう思い、はやる気持ちを抑えながら「アダルトチルドレン 治療法」で検索してみた。
しかし残念ながら、私が期待するような治療法は存在しなかった。アダルトチルドレンは病気ではなく考え方の傾向なので、薬を飲んだり生活習慣を変えて治すことはできない。カウンセリングに通い、いびつに固まった考え方のクセを少しずつ変えていくしかないらしい。病気ではないので保険も適用されず、相場は安くても1時間6000円、場合によってはそれ以上。それに週に1~2回、数ヶ月~数年単位で通うことになるという。金銭的にも心理的にも相当なハードルの高さだ。

私はこのときカウンセリングというものを全くわかっておらず、例えば頻繁にフラッシュバックが起きて苦しんでいるとか、トラウマで日常生活に支障をきたしているとか、そういう重度の悩みを抱えた人が通うところだというイメージを持っていた。それゆえ自分がそれに通う必要があるほどの状態なのか懐疑的になり、「そこまではしなくてもいいかなあ……」と判断を先送りにしていた。


しかしそんな風にウダウダ言ってられない出来事が、ある日私の身に起きてしまった。


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