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シカク運営振り返り記 第47回 依存と私(たけしげみゆき)

長らくお休みしていた運営振り返り記の連載を再開します!
せっかくの再開なのに、前回が暗いところで止まっていたのでいきなり暗いです。
初めての方には「なんか大変だったんだな」と、前回までを知っている方には「やっぱ暗いな」と思って読んでいただけると嬉しいです!!
(過去の連載はこちらから)

前回書いた、私が自信をすっかりなくして落ち込むきっかけになった出来事から数ヶ月が経った。さすがに心もいくらかは落ち着き、ペンを落としただけで泣くようなことはなくなったものの、緊張と不安を常に抱えている状態は続いていた。

いつしか私は失敗をするたびに、[仕事でミスしない方法][仕事のミス つらい]などのワードでネット検索をするようになっていた。
そんなことで解決策が見つかるとは思っていない。だが何もしないよりも事態を良くする手段を見つける可能性が生まれるし、つらい気持ちを抱えているのは自分だけではないとわかるので、苦しさがほんの少し紛れる。なので神社にお参りするような感覚で、検索履歴を暗い言葉で埋め尽くしていた。

それを繰り返しているうち、私はあることに気付いた。無数の検索結果の中には、
《ミスをした原因と繰り返さないためにはどうしたらいいかを考え、対策しましょう》
《ミスは誰にでもあります。落ち込んでも仕方ないので気持ちを切り替えましょう》
というフレーズがたびたび現れる。なるほどそのとおりだと読んだときには思うが、それを自分に当てはめようとすると、何をどうすればいいか全然わからないのだ。

というのも、ミスをした原因を考えると、私の場合はほとんどが「コミュニケーションのすれ違い」か「ケアレスミス」のどちらかだ。しかしコミュニケーションのすれ違いは、状況が毎回違うのでどうやって次に活かせばいいかわからない。ケアレスミスはあまりに単純だったり、自分でもなぜそんなことをしてしまったのか不思議に思うほどアクロバティックなことばかりで、どうしたら止められるのかがわからない。その時々で自分なりに対策を考えて試してはみるものの、効果はさっぱりみられない。
なんとかしなければと思うのに、何をどうしたらいいのかわからず、気は焦るし疲れるばかり。どうして自分はこんなに愚かで何もできないのか、いつも鬱々と悩んでいた。

それに加えて問題なのは、《落ち込んでも仕方ないので気持ちを切り替える》のがまったくできないことだった。ひとたび落ち込むと、申し訳なさ、見捨てられる恐怖、自己嫌悪などを何日も引きずってしまい、立ち直る前に次のやらかしが発生するため、永遠に辛い気持ちから逃れられない。
仕事が休みの日も常に、
(この瞬間に自分がやらかしたことが時間差で発覚したり、大事な予定や約束を忘れているのではないか)
と気が気でなく、常に心が休まらない。電気のスイッチじゃあるまいし、そんな簡単にパチパチ切り替えろと言われてできるなら苦労はしないと思った。

しかしインターネットを見ていると、どうやら世間の人たちはそこまでミスを頻発しないし、たまにミスをしてもそこまで落ち込まないし、稀に落ち込んでもいい感じにストレスを発散しつつ前向きにやっているらしい。競技のスタート地点から違っているようで、なんの参考にもならない。
どうやったらそんなにミスをせずに生きられるのか、落ち込みを回避できるのか、ただただ不思議で仕方がなかった。


そんな鬱屈した気持ちで過ごしていたある日、人生の大先輩であるYさんとたまたまお会いする機会があった。
ところで私はそのとき、ある”推し”に熱中しており、寝ても覚めても推しのことを考える日々を送っていた。推しはよいものだ。推し活の間だけは辛い気持ちも束の間忘れていられる。
Yさんにおもしろトークのつもりで推し活事情を熱弁していると、思いもかけない言葉が飛び出した。

「話を聞いていて感じたんですが、ちょっと依存みたいになっていませんか?」

とっさに意味がわからず呆気にとられている私に、Yさんはこう続けた。
「夢中になれるものがあるのはいいことだけど、依存はどういう形であれよくない。どうしてそんなに依存してしまうのか、一度胸に手を当ててじっくり考えてみたほうがいいですよ」

私はそれを聞いて、
(いやいや、依存って。そんな大げさな……)
と思った。
だけど次の瞬間に私の脳裏をよぎったのは、かつての配偶者・Bとの離婚騒動のときに何人かの友人から言われた、
「たけしげさんはBに依存しすぎですよ」
という言葉だった。
離婚するまでの私にとって、Bと暮らすことは存在理由のすべてだった。だからBに見捨てられたとき、生きている意味も価値も見失った。

そして次に、自分のこれまでの推し活について思い出してみた。
私は中学校の時から筋金入りのオタクで、さまざまな推し(昔はそんな言葉はなかったが)を見つけては推し活に精を出してきた。私にとってそれは息抜きというレベルではなく、水中でもがいているときに一瞬浮上して呼吸をするような、人生に不可欠な、それのおかげでかろうじて生きているような時間だった。

それはどちらも、アルコールやギャンブルなどの依存症と同じではないか。
どうして私はそんなに恋愛や推しに依存してしまうんだろう?

理由は簡単だ。
人生があまりに辛くて、なんとかして辛さを忘れないとやっていられないからだ。

じゃあ私は、一体どうしてそんなに人生が辛いんだろう?


Yさんと話してから数日間、私は頭の中でグルグル考え続けた。

思えば私は昔から、いつも人に怯えていた。
お店に来るお客さんのように初対面や浅い関係の人とは、比較的気楽に話せる。
しかし相手と仲が深まり、自分が相手のことを好きになるにつれて、嫌われるのではないか、相手にされなくなるのではないか、見捨てられるのではないかという不安がどんどん大きくなる。それは友達でも恋愛でも仕事仲間でも同じだった。だから嫌われないように過剰に相手の要求に合わせたり、ちょっとした相手の言動に落ち込んだりしてしまう。
仕事でミスをしたときも、ミスしたこと以上に、ミスによって人から見損なわれたり嫌われることが恐ろしくて落ち込んでいるところがある。
そうやっていつも不安になっているから、恋人を「私を見捨てないでくれるのはこの人だけだ」と盲目的に崇拝したり、自分を決して傷つけない"推し"にのめりこんでしまうのだ。


そんなある日、またいつものように暗い検索活動に勤しんでいると、「アダルトチルドレン」という、聞いたことがあるようなないような言葉を見つけた。

アダルト・チルドレン(Adult Children:以下AC)とは、子どものころに、家庭内トラウマ(心的外傷)によって傷つき、そしておとなになった人たちを指します。子どものころの家庭の経験をひきずり、現在生きる上で支障があると思われる人たちのことです。

都留医師会のウェブサイト(http://www.yamanashi.med.or.jp/tsuru/)より


その詳しい解説をなんとなく読み進めるうち、だんだん心がザワザワしてきた。解説されていた内容と自分の悩みが、完全に当てはまっていたのだ。

私の人付き合いの傾向や悩みは、そっくりそのまま、私と生まれ育った家族との関係で根付いたものだった。

(つづく)


【おしらせ】この連載のまとめ本第4巻を、
5月21日の文学フリマで発売します!

初代店長Bの電撃脱退、息つく間もない暴走、そして発覚した衝撃の事実。
シカク史に残る最終決戦(ラグナロク)がついに決着の時を迎える!

3巻を読んだ方から「こんなに中途半端に終わるなんて!」とよく言われた離婚エピソードが完結します。
ネットで書けないこともたくさん加筆したので、連載で読んだ方も楽しんでいただけると思います。

下記のイベントで発売します!
シカクのブースは 【第一展示場 U-19】です。
イベント後、シカクの店頭・通販でも準備ができしだい販売します。

イベント詳細→ https://bunfree.net/event/tokyo36/

ちなみにお隣のブースには、シカクのスタッフでもおなじみ、ラブホ愛好家の逢根あまみさんが出店します!
ラブホ探訪エッセイの新刊を発売するとのこと。楽しみですね。シカクともどもよろしくお願いします!


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