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【短編小説】 髪ングアウト!

「春です! 新しい自分でそよ風を感じてみませんか?」

 リビングでテレビのCMを何の気なしにみていた船橋は、はじめは何のことだかサッパリ分からなかった。よくよくみれば女性用ウィッグのCMだった。最近では女性の薄毛のCMが増えてきたなあ、と感じながら船橋は口にしていたコーヒーカップをゆっくりとテーブルの上に置いた。世代で言えば中年の船橋大志(ふなばし おおし)も、結構若い頃から薄毛だった。だから、その悩みの大きさが痛いほど良く分かっていた。オッサンのオレでそうなのだから、女性の場合はもっと深刻だろう。なんたって昔から「髪は女の命」とまで言われるのだから。イヤ今の時代、髪は全ての人にとって「命」と言えるかもしれない。船橋は他人事のように自分の過去を思い出していた。

 薄毛が気になりはじめたとき、一番最初にした対策は育毛剤だった。イヤ、船橋だけでなく同じ境遇の者なら、誰しもが経験するのではないだろうか? 最初は安い物を試し、もちろん効かない。仕方ないので、ちょっと値が張るが薬局でしか買えない医薬品育毛剤を試す。しばらく使ってみたものの、やはり効果が出ない。はて、ここから先はどうしたらよいのだろう? 誰もがそんな感じじゃないだろうか。当時、二十代の船橋もそうだった。薄毛の悩みを誰にも相談できずに悩んでいた。やはり遺伝なのか? それともストレスなのか? 医者に行けば良いのか? 一体、何科にいけば良いのか? そもそも医者に行けば本当に治るのか? その前に、医者に行など恥ずかしくてできるわけもなかった。AGAと言う言葉すら知らなかった。当時を振り返りながら、船橋はコーヒーカップを再び口に運んだ。


 確かに船橋の父親も薄毛だった。大きくなったら自分もハゲるのかな、との不安は見事に的中してしまった。他にも、薄毛の原因としてはストレスが少なからず影響していたのでないか、と船橋は感じていた。船橋の仕事は歯科医院の院長だった。歯科医院の経営者だった。ただでさえストレスの多い仕事だった。日々の診療では、感染対策の一つにさえも、ピリピリと神経をとがらせていた。マスクにグローブはもちろんのこと、防護服にゴーグルやフェイガード等々。昨今の感染対策が必要になるずっと前から、多くの歯科医師はこれを常としていた。こうしないと歯を削るときの飛沫(ひまつ=細菌を含んだ水しぶき等)を防護できないからだった。さらには口腔外バキュームと言う大きな掃除機のような機械を患者さんの横に置き、その飛沫を吸い込むのも歯科医院の感染対策の常だった。

 そして、もう一つ忘れてならないモノがあった。船橋にとっては何よりも重要なモノ、それがオペキャップだった。医者が手術の時に被る使い捨ての帽子のことだ。もちろん感染対策の一環なのだが、船橋にとってはもっと大切な役目があった。「頭を隠す」役目、そう「薄毛を隠す」役目だった。船橋の頭部は前髪から頭頂部にかけて、だいぶ寂しくなっていた。診療中は、このオペキャップを常に被っていた。素材はマスクのような不織布でできているので通気性は抜群。仕事中はこれがないと不安で仕方なかった。だって従業員たちにハゲ頭をずっとみられてしまうわけだから。

 例えば虫歯を削るときは、アシスタントが横について診療の手助けをしてくれるのだが、その際一つのルールがあった。「アシスタントはドクターより高い位置に座り、高い目線から診療補助をする」のが歯科業界ではルールになっていた。こうしないとドクターの治療の邪魔になるからだ。結果として、アシスタントは常にドクターより上方から患者さんの口の中をのぞき見ることになる。つまり、いやでもドクターの頭部が視界に入ってしまうのだ。これが、フッサフサの毛並みの良い若いドクターならなんてことはない。しかし誰が好き好んでオッサンのハゲ頭を見たいですか? って話しだ。仮にハゲ頭を見ながら「かわいそう」との同情ならまだしも、ひょっとして「バイオハザードマーク並みの危険なもの」として感じているのではないだろうか? ――いやいや、そんなのは、ただのあなた被害妄想でしょう?――と言われてしまいそうだが。 そうっ! 「誰もそんなこと思っていないのに、勝手にネガティブな被害妄想を抱いてしまう」これが何よりも薄毛の欠点なのだ、と船橋は思っていた。「ただでさえ薄毛で寂しいのに、それ以上に心が寂しくなってしまうのだ」と船橋は痛切に感じていた。

 船橋は典型的なアラフィフのオッサンだった。データによれば、この世代では四人に一人は薄毛らしかった。そうか、自分は可哀想な25%の中に入ってしまっているのか、とだいぶ以前から半分は諦めていた。しかし半分は諦めきれない自分がいたのも事実だった。もちろん、できる限りのことは全て試してきた。その結果がこの状態だった。仕方ないと言えばそれまでだ。しかし何よりつらいのは部下の従業員達に気を遣わせてしまうことだった。これが船橋にとっては最もつらかった。

 たとえば、船橋の歯科医院では診療が始まる前「朝のミーティング」が行われるのが日課だった。船橋を中心にスタッフ全員がミーティングに参加した。診療前なので、その時の船橋はいつもオペキャップを被っていなかった。ある日のミーティング風景。

「今日の患者さんで、特に注意が必要なのは小学校五年生のヒカル君だ。昨日急患で来られてかなり腫れていたから、はたして治まっているかどうか」

「院長、そのヒカッ……その患者さんですがオープンにされているんですか?」

 部下のドクター、武田(たけだ)が確認の問いをしてきた。オープンとはウミを体外に排出するために、あえて虫歯の穴を塞がずに、炎症が治まるまでそのまま解放しておくことだ。

「武田先生の言うとおりだ。昨日かなりウミが出ていたので、オープンにして排膿(はいのう)させてある。もちろん投薬も行った」

 船橋がこたえるのを待って、受付の松岡(まつおか)が口を開いた。

「補足です。今日はそのヒッ……その患者さんのおばあ様のツッ、ツル子様も一緒に診ていただきたいそうです」

「松岡君、そのおばあちゃんの方はどうしたって?」

 船橋が聞き返した。

「はい、ツル……おばあ様の方は、入れ歯が合わないので診てもらいたいそうです」

 毎度こんな感じだった。ドクターも受付も、スタッフ全員が気まずそうに会話を続けるのが常だった。「ひかる、かがやく、まぶしい、ツルツル」等の言葉は、従業員がなるべく避けていたのは、当の船橋自身が痛いほどわかっていた。もちろんルールとして決めたわけでは当然なかった。いつのまにか勝手に、暗黙の了解でそうなっていた。それがかえって船橋にとっては、つらいことだったのだ。ただし、これは船橋だけが、そうと感じている被害妄想かもしれなかった。こんな例を挙げたらきりがなかった。

 ミーティングの後には、こんな会話もあった。

「松岡君、宅急便を出したいから電話してくれる?」

「ハイ、院長。大和さんですか? サガワさんですか?」

 その夜にはこんな会話もあった。

「武田先生、今日は保険医協会の会議でちょっと早く上がるから、あとはよろしくね」

「ハイ、院長。お気をつけて。明日は、いつも通りですね」

 一見するとどちらも普通の会話だった。しかし、当の船橋はそうとは感じていなかった。船橋の感じ方、イヤ、被害妄想的解釈はこうだった。


 ――どちらも、文字に起こせば何の変哲もない会話だ。しかし実際には、この「ハイ」の前の一瞬の「間」に問題がある。「ハイ」と同時にオレに顔を向ける従業員たちの視線が、必ず一番先に一瞬、オレの頭を超高速で通過することをオレは見逃さない。彼らは意識してそうしているのではない。自然と目が行ってしまうのだ。みたくもないのだが、目が吸い込まれてしまうのだろう。悪気など毛頭ないのだ。――毛が無いだけに上手いこと言う――なんて言っている場合かっ! こうやって、いつも「毛」に関する自虐ネタを連想してしまうのも、オレの心が疲弊している証拠なのだろう。やっぱり薄毛って自分が思っている以上に「精神衛生上」良くないのだ。

 さらにさらに、もっと寂しいと言うべきは「ハゲを全然気にしてませーん」みたいな、大人を演じようとしている自分の姿だ。本当は気にしているのだが、照れ隠しのために逆にそんなスタンスをとっている自分が、我ながら寂しのだ。院長という立場的に、心の広さをアピールしようとしている自分自信が寂しいのだ。

「冬になると寒いから、オペキャップを二重にして被ろうかな」

 たまに下手な冗談を言って気にしていない風を演じてみるのだが、かえって従業員達の顔をムンクのごとく引きつらせてしまうこともしばしばだった。その場は困った作り笑いをうかべる従業員も、オレのいないところでは

「院長がハゲネタを振ってくるんだけど、笑っていいのかしら? 逆に困るのよねえ」

 と高笑いしているのもオレは知っていた。イヤ、正式な会話を聞いたわけではない。スタッフルームから高笑いが聞こえると、大方、そんな会話なんだろうと思っているだけだ。――これって明らかな被害妄想じゃないか! そんな自分が我ながら悲しいのだ。

 思い起こせば、まだ大学5-6年生の頃だった。今でも忘れない友人からの衝撃の一言。

「アレッ? お前こんなんやったっけ? 下から見ると、お前の頭の形がよくわかるやん。これじゃあ冗談にも、今後ハゲネタは振らんとくわ……」

 流ちょうな関西弁で、心からオレに同情してくれた友人。

(それだけに逆につらいやろー!!)

 と心の中で大声でシャウトしながら、その場は笑ってみせた自分を、今となっては心から褒めてやりたい。

「顔で笑って心で泣いて」

 この言葉がどんな老子の言葉より尊く思えたのは、その時が初めてだった。それ以来、シャンプー、コンディショナーはもちろん、ヘアブラシ、マッサージ、関連の本、さらには薬局でしか買えない育毛剤「ミノキシ・アップ」も当然試した。食べ物で言えばわかめ、昆布など、およそ良いと言われるモノは全て試してきた。しかし回復するどころか、四半世紀の年月をかけ順調すぎるほど順調に、確実に、着実にその本数を失って現在に至っていた。悲しいかな、それが現実だった。このままオレは終着駅に近づいてしまうのだろうか?


 以上が船橋の被害妄想的解釈だった。以前の船橋の思考だった。こうやって船橋の被害妄想が果てしなく永遠に続いていくのか、と思われていた時だった。いよいよ諦めの境地に入ろうとしていた、まさにその時。船橋にとっては、まさかの転機が訪れた。

 それは、ちょうど3年前のことだった。とあるテレビのCMが、ふと目にとまった。全くの偶然だった。

「♪ハツモウクリニック~」

 有名な歌手が歌っているBGMのフレーズがヤケに耳についた。昔からある有名なテレビCMだった。もう十年以上前から流れているCMだが、その時まで全く意識したことがなかった。

「ハツモウクリニックなら、失われた自分の髪が再び生えるんです!」

(そんなこと信じられるわけがないやろー!)

 またしても心の中でシャウトした船橋。

「そんなことができるなら、世の中にハゲなどいないじゃないか。それこそノーベル賞ものじゃないか」

 誰だってそう思うはずだ。船橋だって、そう決めつけてハナから信じていなかった。船橋の中では「ウサンくさい眉唾もの」との認識しかなかった。だから、その時までは全く気にもとめていなかった。さらにCMに頻繁に登場する社長とおぼしき中年のオッサンの笑顔が、逆に大きな不信感を抱かせた。

「なんや、このオッサン? うさんくさいわー」

 しかし、そうも言っていられない状況下にあるのも事実だった。年々、本数は減る一方。このまま行けば、近々、確実にゴールが見えてしまうだろう。イヤ、頭皮の地肌が見えてしまうだろう――なかなか上手いことを言うな――ホラまた、そんな自虐ネタを言ってる場合かっ! 何よりも「ハゲを気にしていません」みたいな自分を演じるのに疲れ果てた。気を遣ってくれる従業員達にも申し訳ない気持ちが、いっそう船橋を後押しした。

「春のキャンペーン実施中! 今なら『お試し体験施術』が90%オフ」

 CMのナレーションが新橋駅付近の客引きのように、優しくも怪しい声で船橋を誘っていた。普段、船橋は飲み屋のオネエちゃんの誘惑にもなかなか乗らないカタブツで通っていた。しかしその時ばかりはなぜだか、この甘い誘惑に誘われる気になってしまった。それだけセッパ詰まっていたのだろう。魔が差したと言うべきか? 船橋は「半分だまされてもいいや」と覚悟を決めた。ダメだったら笑い話でいいじゃないか。自虐ネタがまた一つ増えると思えば。そう自分に言い聞かせた。

 

 覚悟を決めてから行動に移すのは早かった。船橋は早速「90%オフのお試し体験施術」に申し込んだ。ただし、この時点では「大きな想定外」が起こることなど知る由もなかったのだが。

 初めて行った「ハツモウクリニック」では、発毛診断士兼カウンセラーなる肩書きのインストラクターが船橋を待ち受けていた。

「よ、予約していた船橋と申します……」

「こんにちは! 船橋さんですね。お待ちしておりました」

 オレと同世代位か? いかにもベテランといった店長クラスの女性だった。徹底的に鍛えられている感じの優しい笑顔、丁寧な物腰が、逆に船橋に警戒心を強めさせた。

 どんな施術をやるのだろう。やっぱり施術費は高いのかな。と不安に思いながら辺りをキョロキョロ見回した。相手からすれば、逆に不審者にみられていたかもしれない。店内は変に高価な飾り付けや、無駄な装飾もなく、あっさりとしていて清潔そのものだった。個室がたくさん並んでいたのは、さすがにデリケートな問題だけに他の客とすれ違わないよう、そこは十分な配慮がなされていたからだろう。船橋は案内されるがままに、初日のメニューの「お試し体験施術」と「脱毛診断」を受ける事となった。


 「体験施術」は頭皮マッサージから始まった。と言っても手でのマッサージではなかった。頭に空気の入る浮き輪のようなものを巻き付け、その空気を出し入れすることによって、浮き輪がしまったり緩んだりした。結果として頭皮をマッサージしているようになるのだが、確かに能率的だと感じた。頭皮への血流が高まった感じがしたのは事実だった。

 次に頭皮に徹底的に汗をかかせた。そのために、まず専用の泥のような薬を頭皮に塗りつけた。そしてパーマをかけるときに使う熱の出るフードを頭に被せて、しばらく時間を置いた。すると、しこたま汗が噴き出てくるのだが、泥状の薬は頭皮の毛穴につまった汚れを取りやすくしてくれる効果があるそうだ。これで汗と共に、たくさんの老廃物が毛穴から浮き出てくる仕組みらしかった。

 その後はシャンプーとなった。美容院と同じ仰向けでシャンプーをしてくれた。途中、わざと冷水にしたり温水にしたりした。こうすることで頭皮を刺激して、血流を促進させる効果を狙っているらしかった。まるで頭皮のツンデレ攻撃だな、などと夢見心地の中で思っていた。シャンプー中は気持ちよいので、ついつい半分寝てしまうのだった。

 シャンプー後は別室に移動し、そこで第二段階の施術が始まった。エステと同じように、仰向けでベッドに横になり施術をしてもらった。ここではシャンプー後の清潔な頭皮、毛穴に「専用の発毛トニック」などを浸透させる施術が行われた。低周波、高周波などを駆使することでトニックの発毛成分が頭皮と毛穴に効率よく染み込み、発毛が促進される仕組みらしかった。ちなみに、これは「特許技術」なのだそうだ。決して痛みはなく逆に気持ち良い感じで、これも疲れているときは寝てしまうだろう。逆にリラックスする事も施術の一環で、髪にもとっても良いらしかった。


 施術後は「脱毛診断」なるものが行われた。先程のベテランインストラクターは、船橋に品良く語りかけた。

「船橋さん、初めての施術はいかがでしたか?」

「はい、気持ちよかったです」

 おそらく、それ以上の感想はないだろう。それよりも気になるのは「髪が復活するのかどうか? 髪が生えるのかどうか?」だった。船橋の焦りとは裏腹に、慌てることなく順を追って話をすすめていくインストラクター。頭皮を事細かくチェックし、頭皮や抜け毛を顕微鏡で拡大して観察。その結果、船橋に下された診断は

「船橋さんの場合は、男性型脱毛(AGA)と脂漏性脱毛の複合型ですね。この年齢の方にはよくあるケースですね」

「よっ、よくあるんですか?」

 船橋は、けげんな顔で聞き返した。

「ハイ、よくあるケースです」

 やはり笑顔を絶やさず、優しい微笑みを崩さないインストラクター。その微笑みがやっぱりコワイわ、と思いながらも、はやる気持ちを抑えきれず船橋は核心を質問してみた。

「なっ、治るんですか?」

「ええ、治りますよ」

 微笑みのまま、意外に簡単にあっさりとこたえるインストラクターだった。想定外のこたえに船橋は心の中で思わずシャウトしていた。

(えっ? 治るんかいっ? しかもヤケに自信たっぷりに言うじゃないかーっ!)

 心の中の驚きとは裏腹に、船橋はおずおずとたずねた。

「なっ、治るんですか? どっ、どれくらい年月がかかりますか?」

「ええ早ければ、半年以内に効果が現れます。最終的には3年も見てもらえれば、かなり回復するでしょう」

 まるで天気予報バリに相変わらずあっさりした中にも、かなり力強く、自信満々のこたえだった。一体、この自信はどこからくるのだろう? その時は不思議に思っていた。後から分かったのだが、この「ハツモウクリニック」には、当時、既に3万人以上ものお客さんを治療してきた実績があった。その膨大な治療データの蓄積から「このケースなら、これくらいで発毛する」との経験則を、インストラクターはもっているのだそうだ。逆に、その経験則に反して発毛しないお客さんは、何かしらの問題行動がある、との事だった。

 自信みなぎるカウンセラーは、続けて「体験施術後に『本コース』を始めるかどうか」の説明を始めた。

(おっ! いよいよ来ましたか、本題が……)

 身構えた船橋を尻目に、インストラクターは相変わらず笑顔を絶やさず淡々と説明を続けた。本コースは料金により「松竹梅」みたいに、いくつかの種類があり文字通りピンキリだった。なんだ、ちゃんと手頃な料金のコースも用意されているじゃないか、とちょっと安心した。

「本コースを続けるかどうかは、じっくり検討して頂きまして、後日、ご連絡を頂ければかまいませんので」

 言葉とは裏腹にインストラクターの目はうっとりと誘っているように思えたのは、気のせいだけだはなかっただろう。一瞬、じっくり考えようとも思った船橋だった。が、それを打ち消すように先程の自信に満ち満ちたインストラクターの「治りますよ」が頭の中でリフレインしていた。

……治りますよ、治りますよ、治りますよ……

 船橋はインストラクターの「治りますよ」に賭けてみることにした。もう、悩んでいる時間ももったいないと思った。そんなに言うんだったら一番高いコースに賭けてみようじゃないか。船橋はその場で即決した。

(ダメで元々、どうせカモられるなら気持ちよく行っちゃうぞバ〇ヤロー!)

 またもや心の中でシャウトしながら、実際に発した言葉は蚊の鳴くような声だった。

「いっ、一番高いマッ、松のコースでお願いします……」

もうカモでも何でも良かった。

(ネギをかかえきれないほど、しょってやろうじゃないか。自分の髪が回復するならば) 
そう信じるしか無かった。

「松のコースですね! それはとっても良いご決断だと思います。きっと髪が復活するでしょう」

 またもや天気予報バリに、インストラクターはあっさりと微笑みかけた。ただし目の奥は今日一番うれしそうだ、と感じたのも事実だったが。どちらにせよ、その場で船橋は最上級クラス「松のコース」にサインをした。

「クレジットカードのぶっ、分割でお願いします……」

 そして次回から始まるコースの説明を受けた。ところが、ここで想定外が生じてしまった。話をよくよく聞いてみると、一つだけ大きな思い違いをしていたのだった。

(それなりの大枚をはたいたのだから、施術台に乗っかっていれば、あとは自動的に髪が生えてくれる)

 と船橋は勝手に思い込んでいたのだが、それが大きな間違いだった。そうは問屋が卸さなかった。もちろんお任せの施術は大前提として、その他に「自分自信でやらなければならない事」がたくさんあったのだ。

「えっ?! 施術の他に、何かやることがあるんですか?」

「ハイ、施術だけでは十分な効果は期待できません。髪も体の一部ですから、体ごと健康にならないと髪の毛は生えてきません。特にストレスは髪によくありません。だから次のことを注意して下さいね。

・まず、暴飲暴食を避けてください。

・よく寝てください。

・ストレスはなるべく避けてください。

・食事はバランス良く「まごわやさしい」をこころがけてください。

・お酒はほどほどにしてください。

・タバコはやめてください。

・コーヒーがお好きなんですか? カフェインの取り過ぎに注意してください。

・適度な運動もやるとイイですよ。

・朝シャン派なんですか? シャンプーは夜、眠る2-3時間前にしてください。

・もうじき体重100kgなんですか? 生活習慣をもう少し見直された方が……

・就寝時には自律神経のバランスをとるため腹式呼吸を意識して……」

(あーウッセ、ウッセ、ウッセわー! 何言ってんだ、この人は? そんな規則正しい生活ができれば苦労しないワイ! それができないほど忙しいから、今のように着実にハゲとるんやないかい!)

 よっぽどシャウトしたかったのだが、小心者の船橋は言うに言えなかった。気弱そうな小さな声で質問するのが精一杯だった。

「せ、施術台に乗ってるだけじゃダメなんですかね?」

「ハイ、それだけではせっかく施術台に乗ったのに、その効果を十分に発揮できません」

 またしても、あっさりとこたえたインストラクター。

「髪を復活させるためには、心も体もトータルにケアする必要があるんです。中には効果の出ないお客様もいらっしゃるのですが、大抵はこれらの注意事項をやってない方がほとんどですね」

 インストラクターは自信満々の物腰で、たたみかけるように説明を続けた。

(しまった! 大好きなコーヒーが飲めないなんて。だったらハゲでも良いわい! 施術台の上に乗っかるだけなら大枚をはたいた甲斐があるってもんだ。だが自分でやらねばならないことが多すぎる。ハードルが高すぎるじゃないか。はたして大丈夫か、オレ?)

 そんな船橋の不安な心を見透かしたように、インストラクターはまたしてもあっさりと、かつ力強く言い放った。

「では、次週『松のコース』の初日です。一緒に頑張って参りましょう。お疲れ様でした」

 そんな先行き不安だらけの状態で初日を終えた船橋だった。


それから数ヶ月が過ぎた。

(当初の心配が的中か? やっぱりカモられたか?)

と思うくらい、何の変化もなかった。と言うより、

(逆にハゲが増しとるやないかい!)

と不安になった船橋は、ある施術の日におずおずとインストラクターにきいてみた。

「な、なんか前よりも、ぬ、抜け毛が多くなっているように感じるんですが……」

「はい、それは『初期脱毛』と言います。施術開始後には、一旦、それまでの悪い髪が抜け落ちるのです。でも大丈夫です。その後に新しい髪が生えてくるのですから」

 またしても、あっさりとこたえたインストラクター。船橋の質問を全て跳ね返すほどの自信に満ちていた。

「そ、そうですか……」

 あえなく撃沈した船橋は、施術を続けるしかなかった。


 さらに、それから数ヶ月した頃だった。

(アレ? 指に髪が? 気のせいか?)

 家でシャンプーをしていて、以前にくらべると指に髪が引っかかる感触が増えたような気がした。なんだか産毛が生えたような気がしてきたのだった。ただし、この時点では気のせいかもしれない、と感じていた。だってインストラクターに言われた注意事項で、ちゃんと実践できていたのは「食事をバランス良くする」くらいしか無かったのだから。

 それでも冷静に考えてみれば、2-3週間に一度位のペースで仮にもハツモウクリニックで施術台の上にのっかっていたわけだ。初めはその値段を聞いて耳を疑ったほど高額の「クリニック専用シャンプー&コンディショナー」を家で毎日使っていたわけだ。同じく市販の育毛剤「ミノキシ・アップ」の4倍の値段はしようかという超高級・高額の「クリニック専用トニック」も毎日欠かさず使っていたわけだ。

(それらの効果が出たのかも? ダテに高いだけじゃなかったのかも?)

 と感じずにはいられなかった。確かに専用のトニックやシャンプー等は「ハツモウクリニック」が長年の研究で独自に開発した絶対的な自信の商品だった。ほぼ100%に近いほどの天然成分だけで作られている自慢の商品だった。これらの効果が出たのか、いずれにしても多少ではあるが産毛が生えたような気がしてきたのだった。この時点では、まだ半信半疑だった。

 だが、ホントに人間とは単純なものだ。ほんの少しでも効果が実感できると、俄然ヤル気が出るのだ。ひょっとしてインストラクターの言う通りにしたら、もっと生えるかも? と思えるようになった。はじめは頑なに不規則な生活スタイルを固持していた船橋だったが、少しずつインストラクターに言われた通りの生活をするようになっていった。

(我ながら素直なオッサンだ。単純でカワイイもんじゃないか)

 そう感じずにはいられないほどの心境の変化だった。それからはクリニックで施術を続けながら、徐々に生活スタイルまでも変化させるように努力していった船橋だった。


 そしてクリニックに通い始めてから、ちょうど半年後。

「船橋さんっ! こっ、これは、なんかスゴく良くなってますね!」

 珍しく、あの冷静なインストラクターが声を高ぶらせた。

(あっ、この人も一応、興奮するんだ)

 船橋には、そっちの方が気になってしまった。いずれにせよ間違いなかった。自分でも何となく感じていたソレは事実だったのだ。

「発毛したのだ! なんと、復活したのだ! 自分の髪が生えたのである」

 自分でも信じられなかった。ドライヤーをしても髪がなびくのである。何十年と忘れていた感覚だ。素直にうれしかった。本当にうれしかった。
(ハツモウクリニック、ありがとうー! ボッタクリじゃなかったんだね。疑ってごめんなさーい!)

 発毛に気をよくした船橋は、髪が復活した後もアフターケアでクリニックに通い続けることにした。インストラクターに言われるがままに「松のコース・プレミア」を新たに契約した。なんでも、この「プレミア」は本コースを卒業した会員しか受けることができない、とってもプレミアムなコースなのだと言うから心強いではないか……


 髪が復活したあとの船橋は、気持ち的にはとってもハッピーだった。 

(オレ、ハツモウしたんだよ! 誰か何か言ってくれないかなあ~)

 ところが、そんな期待とは裏腹に悲しいかな船橋の生活は特に以前と変わったことも無かった。イヤ、逆に以前よりも人の視線を感じるようになった? 他人様からは変な目で見られるようになった? そう感じずにはいられなかった。

 と言うのも、朝のミーティングの時の従業員の態度が明らかに以前と違うのだ。マジマジと船橋の頭部を見ているのだった。以前は、一瞬、頭部に目が行き「いけない」とすぐに目線を外していた。しかし最近は明らかに、頭部を見ている時間が以前より長いのだ。その口元はなぜか、怪しげに笑みを浮かべているようにおもえる。笑いをこらえているようでもあった。 

(イヤ、そのリアクションは違うだろう? もっと何とか言ってくれよ。 オレ、髪が復活したんだよ。なぜ、みんな以前よりもしげしげとオレの頭部を見るんだ? 以前にも増して笑いをこらえているんだ? オレの思い違いか?)

 そんな新たな悩みをかかえるようになっていた船橋は「ハツモウクリニック」に通っていたことを、実は誰にも告白していなかった。家族にさえもだ。さすがのアラフィフのオヤジとは言え恥ずかしい気持ちは隠せなかった。何よりも「あれだけハゲなんて気にしてません」みたいな体裁を装いながら、「やっぱり気にしていたのか」と思われるのが無性にイヤだった。だから実際に髪が生えた後も、それを自らすすんで皆に言う勇気は到底なかった。

 そんな悶々とした生活が続いていたある日、視線にたまりかねた船橋は部下の武田に、思わず禁断のジョークを振ってしまった。

「武田先生、オレ、ヅラにしたんだよ。わかっちゃう?」

 当然、ヅラではなく本当の自分の髪が復活したのだが、そこは単に照れ隠しだった。ハツモウクリニックに通って発毛したことを説明しても、信じてもらえないのでは? との不安もよぎった。一々、説明するのも面倒くさいので、単にヅラと言ってみただけの話しだった。

「……ップ!」

 目を点にしていた武田は、こらえきれなくなって吹き出しはじめた。

「すっ、スミマセン! 院長、みんな気付いてはいたんですが」

 大笑いしている武田のリアクションを、はじめは理解できなかった。武田は申し訳なさそうに説明してくれた。要するに「髪の毛が生えたのは単にカツラ(ヅラ)を被った」と思っていたのだそうだ。「それにしてもよく出来たヅラだなあ」と皆で話し合っていたそうだ。それゆえ皆がしげしげ頭部を眺めていたのか、と初めて理解できた。ヅラだと疑えば、さぞや滑稽だったろう。何よりも「やっぱり院長、気にしていたんだ」と皆が思っていたかと思うと、無性に恥ずかしくなった。従業員に気を遣わせないように必至に努力して発毛したのに、かえって従業員の笑いものになってしまっていたとは、なんと滑稽なことか!

 

船橋はその時に、初めて分かった気がした。本当の根源が何だったのかを。


 これが若い世代ならともかく、いいオッサンが何をやっていたんだ。もし最初から、正直にハツモウクリニックに通っていることをオープンにしていたら、どうだったろう? そんなオレを笑うヤツがいただろうか? 逆にみんなが応援してくれたのではないだろうか? 仮にもオマエは半世紀を生き延びてきた立派なオッサンじゃないか!

 船橋は自分自身にシャウトしていた。そして船橋は心に決めた。明日の朝のミーティングで皆にカミングアウトするのだ、と。

「実はオレ、ハツモウクリニックに通っていたんだ。そうしたら、自分の髪が本当に生えてきたんだよ」

 告白すると決めた船橋は、途端に気持ちが「かるーく」なっていくのを感じた。

「これが本当の髪ングアウト!」

 そんな親父ギャグを一発かましてみるか?――なんて年甲斐もなく、くだらない冗談を思いつく自分が何だかちょっとうれしい。以前のオレには考えられない事だ。きっと本物の自分の髪が生えてきて、心に余裕ができたのだろう。被害妄想の呪縛から解き放たれたからなのだろう。そうなんだっ! 髪は単に見た目だけの問題ではないのだ。当事者にとって、髪は「心の安定剤」となるのだ。薄毛によって疲弊された心を癒すには、やはり髪が一番効くのだ。

 さらに、それだけではない! 明日、オレはみんなに全てをカミングアウトする。そうすれば隠し事の呪縛からも解き放たれ、本当の「心の安定」を手に入れる事ができるだろう。きっとオレはもっと心穏やかに、そしてすがすがしい気持ちになれるはずだ。それこそが、オレが本当に欲しかったものだったんだ。そうだ、そもそも「心の安定」を手に入れたければ最初から……

 もはや船橋は心の中ではなく、大きな声で堂々とシャウトしていた。

「もう春だな! そよ風って、こーんなに涼しかったのかーっ!」


 翌日、朝のミーティングでは、一本の髪の毛もない綺麗にそり上げられたスキンヘッド姿の船橋が、晴れ晴れとした満面の笑み浮かべていた。


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