見出し画像

《週末アート》セルライトを描きまくるエリート、ピーテル・パウル・ルーベンス

《週末アート》マガジン

いつもはデザインについて書いていますが、週末はアートの話。


ピーテル・パウル・ルーベンス

ルーベンスの自画像(1623)(46歳)
ピーテル・パウル・ルーベンス - http://free4444.blogspot.com/2010/07/rubens-peter-paul-self-portrait-1623.html, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=10869586による

名前:Peter Paul Rubens
生没:1577年6月28日–1640年5月30日(62歳)
生まれた場所:ヴェストファーレン、ジーゲン(現在のドイツ)
死没した場所:スペイン領ネーデルラント、アントウェルペン(現在のベルギー)
運動・動向:バロック
影響を受けた芸術家:ミケランジェロ、ティツィアーノ、カラヴァッジョ、ピーテル・ブリューゲル
影響を与えた芸術家:ヴァトー、ドラクロワ


ピーテル・パウル・ルーベンス(Peter Paul Rubens)
は、バロック期のフランドル†画家、外交官。祭壇画、肖像画、風景画、神話画や寓意画も含む歴史画など、様々なジャンルの絵画作品を残しました。

ルーベンスはアントウェルペン(ベルギーのフランデレン地域・アントウェルペン州の州都)大規模な工房を経営し生み出された作品はヨーロッパ中の貴族階級や収集家間でも高く評価されていました。またルーベンスは画家としてだけではなく、古典的知識を持つ人文主義学者、美術品収集家でもあり、さらに七ヶ国語を話し、外交官としても活躍してスペイン王フェリペ4世とイングランド王チャールズ1世からナイト爵位を受けています。


ルーベンスの生涯

幼少期から青年期

ルーベンスは、ヤン・ルーベンスと妻マリアとの間に、ドイツのジーゲンで生まれました。

ドイツ、ジーゲン
TUBS - Own work, based on:, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=6205909による


父ヤンは、プロテスタントのカルヴァン主義者の法律家で、1568年にマリアとともにスペイン領ネーデルラント総督アルバ公フェルナンドのプロテスタント迫害のために、アントウェルペンからケルンへと逃れてきた夫婦でした。

ヤンはオランダ総督オラニエ公ウィレム1世の二度目の妃アンナの法律顧問さらには愛人となり、1570年にジーゲンのアンナの宮廷へと居を移しています。アンナの愛人であることが発覚して投獄されていたヤンでしたが後に釈放され、1577年にマリアとの間にルーベンスが生まれました。

その後1578年にヤン一家はケルンへと戻りましたが、1587年(ルーベンス10歳)にヤンは死去しています。父親の死後、一家は故郷のアントウェルペンへ戻りました。アントウェルペンでカトリック教徒として成長したルーベンスの作品からは、その宗教的影響を確認することができます。後年のルーベンスはカトリックの改革運動である対抗宗教改革の影響を受けた絵画様式の主導者となっています。

ルーベンスはアントウェルペンで人文主義教育を受け、ラテン語古典文学を学びましだ。1590年(13歳)、生活に困窮していたマリアは、13歳のルーベンスをフィリップ・フォン・ラレング伯未亡人のマルグレーテ・ド・リーニュの下へ小姓(こしょう:つきびと)に出しました。ここで芸術的素養を見込まれたルーベンスは、アントウェルペンの画家組合、聖ルカ・ギルドへの入会を認められ、見習いとしてアントウェルペン生まれの芸術家トビアス・フェルハーフト(Tobias Verhaecht)に弟子入りし、その後引き続いて当時のアントウェルペンの主要な画家だったアダム・ファン・ノールトオットー・ファン・フェーンに師事しました。

トビアス・フェルハーフト(Tobias Verhaecht)アルプスの風景、油彩、カンヴァス、106 x 267 cm、マドリッド、プラド美術館(スペイン・マドリード)蔵


アダム・ファン・ノールト『子供を祝福するキリスト』
アダム・ファン・ノールト - https://www.fine-arts-museum.be/nl/de-collectie/adam-van-noort-laat-de-kinderen-tot-mij-komen-1?artist=van-noort-adam-1, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=57155641による
オットー・ファン・フェーン『最後の晩餐』
オットー・ファン・フェーン - ウェブ・ギャラリー・オヴ・アート:   静止画  Info about artwork, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=15466052による


ルーベンスの芸術家としての最初期の修行は、先人たちの作品の模倣、模写でした。手本となったのは、ルネサンス期のドイツ人芸術家ハンス・ホルバインの木版画、ルネサンス期のイタリア人画家ラファエロの作品を原画としたイタリア人版画家マルカントニオ・ライモンディの銅版画などでした。ルーベンスは1598年(21歳)に修業を終え、一人前の芸術家として芸術家ギルドの聖ルカ組合の一員となりました。


イタリア時代(1600年 - 1608年)(23歳–31歳)

『レルマ公騎馬像』(1603年) プラド美術館(マドリード) スペイン貴族レルマ公フランシスコ・デ・サンドバル・イ・ロハス(英語版)の肖像画で、ルーベンスが最初にスペインを訪れたときの作品。
&lt;a href=&quot;https://en.wikipedia.org/wiki/ja:%E3%83%94%E3%83%BC%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%91%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%B3%E3%82%B9&quot; class=&quot;extiw&quot; title=&quot;w:ja:ピーテル・パウル・ルーベンス&quot;&gt;&lt;span title=&quot;バロック期のフランドルの画家、外交官 (1577-1640)&quot;&gt;ピーテル・パウル・ルーベンス&lt;/span&gt;&lt;/a&gt; - &lt;a rel=&quot;nofollow&quot; class=&quot;external free&quot; href=&quot;https://www.museodelprado.es/en/the-collection/art-work/equestrian-portrait-of-the-duke-of-lerma/323c6f0b-8a88-4241-9499-d4e389d0de64?searchid=14092401-c130-712b-d95f-504e2e520a0e&quot;&gt;https://www.museodelprado.es/en/the-collection/art-work/equestrian-portrait-of-the-duke-of-lerma/323c6f0b-8a88-4241-9499-d4e389d0de64?searchid=14092401-c130-712b-d95f-504e2e520a0e&lt;/a&gt;, パブリック・ドメイン, <a href="https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=16288671">リンク</a>による

1600年(23歳)、古代と近代の巨匠の作品を現地で学ぶことを目的として、ルーベンスは推薦状を携えてイタリアを訪ねました。最初に訪れたのはヴェネツィアで、ティツィアーノ、ヴェロネーゼ、ティントレットらの絵画を目にしています。その後マントヴァへ向かい、マントヴァ公ヴィンチェンツォ1世・ゴンザーガの宮廷に迎えられました。

ヴェロネーゼとティントレットの色彩感覚と作品構成は、当時のルーベンスの作品に即座に影響を与え、後年になって円熟期を迎えたルーベンスの作品にはティツィアーノからの大きな影響をみることができます。

ティツィアーノ・ヴェチェッリオ『洗礼者ヨハネの首を持つサロメ』(1515年頃) ドーリア・パンフィーリ美術館(ローマ) サロメ(ユディトとも)を描いたこの宗教画は、ティツィアーノが発展させたジャンルである理想化された女性の肖像画とされ、ヴェネツィアの高級娼婦をモデルにしているともいわれる
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ - https://www.titian-tizianovecellio.org/Salome.html, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=38185による


マントヴァ公からの金銭的援助を受けたルーベンスは、モンタルト枢機卿への推薦状を手に1601年にフィレンツェを経由してローマを訪れました。ローマでは古代ギリシア、古代ローマの芸術作品に触れ、イタリア人芸術家たちの作品の模写につとめています。とくにヘレニズム様式の彫刻『ラオコーン像』や、イタリア・ルネサンスの巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロの作品がルーベンスに大きな影響を与えました。

『ラオコーン像』(伊: Gruppo del Laocoonte)は、バチカン美術館のピオ・クレメンティーノ美術館に所蔵されている古代ギリシアの大理石製の彫像。ギリシア神話のトロイアの神官ラオコーンとその2人の息子が海蛇に巻き付かれている情景を彫刻にした作品です。古代ローマの博物家プリニウスによると、この彫像の作者はロドス島出身のアゲサンドロス、アテノドロス、ポリュドロスの三人の彫刻家であるとしています。
Hagesandros, Athenedoros, and Polydoros - LivioAndronico (2014), CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=36412978による


また、当時のローマ画壇で最先端だった画家カラヴァッジョの作品が持つ高度な自然主義表現にも影響を受けました。後にカラヴァッジョの『キリストの埋葬』の複製画を制作したほか、マントヴァ公からの依頼を受けて、現在はパリのルーヴル美術館が所蔵するカラヴァッジョの『聖母の死』の買い付けも手配しています。

カラヴァッジョ『キリストの埋葬』
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ - 投稿者自身による著作物, Lafit86, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=10257614による

また、アントウェルペンのドミニコ会修道院による、現在はウィーンの美術史美術館が所蔵するカラヴァッジョの『ロザリオの聖母』の購入にも協力しています。ルーベンスはこのローマ滞在時にサンタ・クローチェ・イン・ジェルサレンメ聖堂からの依頼で、最初の祭壇画『聖へレナと聖十字架』を完成させています。

ルーベンスは1603年(26歳)に、マントヴァ公からスペイン王フェリペ3世への贈答品を携えた外交官としてスペインを訪れました。ルーベンスはこのスペイン滞在中に、先代のスペイン王フェリペ2世が収集したラファエロティツィアーノの膨大な作品群を目にしています。

このスペイン滞在中にフェリペ3世重臣レルマ公フランシスコ・デ・サンドバル・イ・ロハスを描いた『レルマ公騎馬像』には、ティツィアーノの傑作『カール5世騎馬像』などの作品からの影響が見られます。このスペイン訪問が、その後ルーベンスが果たしていく外交官としての最初の役目となりました。

ティツィアーノ『カール5世騎馬像』
Image source: Wikipedia

ルーベンスは1604年(27歳)にイタリアへと帰還し、その後の4年間でマントヴァ、ジェノヴァ、ローマを転々としました。ルーベンスはこの時期に『侯爵夫人ブリジダ・スピノーラ・ドーリアの肖像』などの肖像画を多数制作しており、マリア・ディ・アントーニオ・セッラ・パッラヴィチーニを描いた肖像画は、後世の画家アンソニー・ヴァン・ダイク、ジョシュア・レイノルズ、トマス・ゲインズバラらの作品にも影響を与えました。

『侯爵夫人ブリジダ・スピノーラ・ドーリアの肖像』
ピーテル・パウル・ルーベンス - 1. ket.org Archived 2016-05-31 at the Wayback Machine2. xn--b1aajw0aq.xn--p1ai[dead link], パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3552184による

ルーベンスは1606年(29歳)から1608年(31歳)にかけてはほとんどの時期をローマで過ごしました。このときに、ルーベンスが肖像画を描いたマリア・パッラヴィチーニの兄にあたる枢機卿ヤコポ・セッラの尽力もあって、当時ローマで新築された教会キエーザ・ヌオーヴァ(サンタ・マリア・イン・ヴァリチェッラ聖堂)の主祭壇画制作という重要な依頼を受けています。この祭壇画には、古のローマ教皇グレゴリウス1世とローマにちなむ聖人たちが、天使が掲げる聖母子の肖像を見つめている場面が描かれています。

祭壇画の最初のヴァージョンは、現在グルノーブル美術館が所蔵する、一枚のキャンバスに描かれたものでしたが、間もなく3枚の石板に描き直したものに置き換えられました。現在もキエーザ・ヌオーヴァに安置されている、サンタ・マリア・イン・ヴァリチェッラで起こったといわれる奇跡を描いたこの祭壇画『ヴァリチェッラの聖母』は、重要な祝祭日にのみ銅製のカバーが外されて一般に公開されています。

『ヴァリチェッラの聖母』(1608年) キエーザ・ヌオーヴァ(ローマ) キエーザ・ヌオーヴァ(サンタ・マリア・イン・ヴァリチェッラ聖堂)の主祭壇画。
&lt;a href=&quot;https://en.wikipedia.org/wiki/ja:%E3%83%94%E3%83%BC%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%91%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%B3%E3%82%B9&quot; class=&quot;extiw&quot; title=&quot;w:ja:ピーテル・パウル・ルーベンス&quot;&gt;&lt;span title=&quot;バロック期のフランドルの画家、外交官 (1577-1640)&quot;&gt;ピーテル・パウル・ルーベンス&lt;/span&gt;&lt;/a&gt; - www.aiwaz.net, パブリック・ドメイン, <a href="https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=14992382">リンク</a>による


イタリアでの経験は、その後もルーベンスの作品に影響を与え続けました。後年になってイタリアを離れてからも、イタリアの知人たちと多くの書簡を交わしており、イタリア名の「ピエトロ・パウロ・ルーベンス(Pietro Paolo Rubens)」として署名し、イタリアへ戻ることを強く望んでいることを書き綴っていましたが、ルーベンスのイタリア帰還が叶うことはありませんでした。


アントウェルペン時代(1609年 - 1621年)(32歳–44歳)

『東方三博士の礼拝』(1609年)プラド美術館。スペインとネーデルラント諸州との間で停戦協定が結ばれた際に、調印の場となったアントウェルペンの市庁舎を装飾するため発注された
&lt;a href=&quot;https://en.wikipedia.org/wiki/ja:%E3%83%94%E3%83%BC%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%91%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%B3%E3%82%B9&quot; class=&quot;extiw&quot; title=&quot;w:ja:ピーテル・パウル・ルーベンス&quot;&gt;&lt;span title=&quot;バロック期のフランドルの画家、外交官 (1577-1640)&quot;&gt;ピーテル・パウル・ルーベンス&lt;/span&gt;&lt;/a&gt; - &lt;a rel=&quot;nofollow&quot; class=&quot;external text&quot; href=&quot;https://www.museodelprado.es/en/the-collection/art-work/the-adoration-of-the-magi/b6440da1-0c0c-4ead-84b7-f5a017e2fd17&quot;&gt;Prado&lt;/a&gt;, パブリック・ドメイン, <a href="https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=16282790">リンク</a>による

アントウェルペン

アントウェルペン(オランダ語:Antwerpen)、アントワープ(英語:Antwerp)は、ベルギーのフランデレン地域・アントウェルペン州の州都。首都ブリュッセルに次ぐ同国第2の都市で、都市圏人口は約120万人。


1608年(31歳)に母マリアが病に倒れたことを聞いたルーベンスは、イタリアを離れてアントウェルペンへと戻ることを決めました。しかしながらマリアはルーベンスがアントウェルペンに戻る前に死去してしまいます。母の病以外にルーベンスがアントウェルペンへと戻った理由の一つとして、当時ネーデルラント諸州とスペインとの間で勃発していた八十年戦争†が、1609年4月の停戦協定の発行によって12年間の休戦期 がもたらされたこともありました。

この停戦協定によって当時のアントウェルペンは新たな隆盛を見せ始めていました。1609年9月(32歳)にルーベンスは、スペイン領ネーデルラント君主のオーストリア大公アルブレヒト7世大公妃でスペイン王女のイサベルの宮廷画家に迎えられました。

当時アルブレヒト7世の宮廷が置かれていたブリュッセルではなく、アントウェルペンに工房を設置することを特別に許可されたルーベンスは、宮廷からの作品制作依頼だけではなく、他の顧客からの制作依頼も受けていました。1633年(56歳)に大公妃イサベルが死去するまで、ルーベンスとイサベルの信頼関係は深く、ルーベンスは画家としてのみならず特使や外交官の役割もこなすようになっていました。ルーベンスは1609年10月3日(32歳)にアントウェルペンの有力者ヤン・ブラントの娘イザベラ・ブラントと結婚しています。

ピーテル・パウル・ルーベンス画『アルブレヒト大公像』
Workshop of ピーテル・パウル・ルーベンス - National Gallery, London, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2073187による

1610年(33歳)にルーベンスは自身がデザインした新居に移り住みました。現在では博物館として使われている、アントウェルペン中心部に位置するこのルーベンスの家はイタリア風の建築様式で建てられた邸宅(ヴィッラ)で、工房も併設されていました。

ルーベンスの家
CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=785512

弟子とともに幾多の絵画作品を制作する場所であると同時に、当時のアントウェルペンで最高級の私的美術品収蔵場所であり、同じく最高級の蔵書を誇る私的図書室でもありました。当時のルーベンスは多くの弟子と助手を抱えていましたた。ルーベンスの工房出身者でもっとも有名な芸術家になったのは、後年イングランドの宮廷画家となる若き日のアンソニー・ヴァン・ダイク(Anthony van Dyckでした。

アンソニー・ヴァン・ダイク自画像(1621年頃)、アルテ・ピナコテーク所蔵
アンソニー・ヴァン・ダイク - The Yorck Project (2002年) 10.000 Meisterwerke der Malerei (DVD-ROM)、distributed by DIRECTMEDIA Publishing GmbH. ISBN: 3936122202., パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=150578による

ルーベンスの工房ですぐに頭角を現したヴァン・ダイクは、フランドルの肖像画家の第一人者となり、師のルーベンスと共同で絵画制作に当たることもよくありました。

ルーベンスは、当時のアントウェルペンで活動していたほかの画家とも共同制作をすることがあり、動物画を得意としたフランス・スナイデルスや、自身の親友で花を得意としたヤン・ブリューゲルらとの作品が現存しています。

『フランダースの犬』(後述)にも出てくる、アントウェルペンの聖母マリア大聖堂の『キリスト昇架』(1610年)(33歳)『キリスト降架』(1611年 - 1614年)(34–36歳)のような祭壇画は、イタリアから帰還して間もないルーベンスが、フランドルにおいても画家として第一人者であるという評価を確立するのにとくに重要な役割を果たしました。

『キリスト昇架』は、ティントレットの『キリスト磔刑』の構成とミケランジェロの躍動感溢れる人体表現をルーベンス独自の作風で融合させた絵画となっており、バロック期宗教画の最高峰として高く評価されている作品である[22]。

『キリストの磔刑』1565年 ヴェネツィア、サン・ロッコ大信徒会所蔵
ティントレット - ウェブ・ギャラリー・オヴ・アート:   静止画  Info about artwork, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=15542133による

ルーベンスは絵画以外に版画や書物の装丁も手がけました。とくに友人でもあったバルタザール・モレトゥスが経営していた出版社(Plantin-Moretus publishing house)から発行された版画が、ルーベンスの技量をヨーロッパ各地に広めることに貢献しました。

一対の美しい銅版画を例外として、ルーベンスは下絵を描くだけで、版画制作自体はルカス・フォルステルマン(Lucas Vorsterman the Elder)のような専門家に任せていました。ルーベンスは当時を代表する版画家ヘンドリック・ホルツィウスのもとで修行した版画家を多く雇い入れています。

また、ルーベンスは自身が関係した版画に関する版権を確立しており、とくに版画の複製が大量に行われていたホラントで複製版画の横行を抑制することに成功しています!ルーベンスは後に、イングランド、フランス、スペインでも自身の作品に対する版権を認めさせることに成功しています。

『鏡を見るヴィーナス』(1614年 - 1615年頃) プライベート・コレクション
ピーテル・パウル・ルーベンス - Liechtenstein Museum, Wenen, particuliere collectie Vorst van Liechtenstein, Vaduz., パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=10742303による


『オレイテュイアを略奪するボレアス』(1615年頃) 造形美術アカデミー絵画館(ウィーン)
ピーテル・パウル・ルーベンス - [1], パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5235910による


『マリー・ド・メディシスの生涯』と外交官としての活躍(1621年 - 1630年)(44歳–53歳)

『王女の交換』(1622年 - 1625年) ルーヴル美術館(パリ) 連作『マリー・ド・メディシスの生涯』の一点。左がマリー・ド・メディシスの長女でフランス王女エリザベート・ド・フランス、右がスペイン王女アナ・マリア・マウリシア。
ピーテル・パウル・ルーベンス - The Yorck Project (2002年) 10.000 Meisterwerke der Malerei (DVD-ROM)、distributed by DIRECTMEDIA Publishing GmbH. ISBN: 3936122202., パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=158522による

1621年(44歳)にフランス王太后マリー・ド・メディシスが、パリのリュクサンブール宮殿の装飾用に、自身の生涯と前フランス王で1610年に死去した夫アンリ4世の生涯とを記念する連作絵画2組の制作をルーベンスに依頼しました。この依頼でルーベンスが描いたのが、現在ルーヴル美術館が所蔵する、24点の絵画からなる『マリー・ド・メディシスの生涯』で、1組目の連作が完成したのは1625年。

『マリー・ド・メディシスの肖像』(1622年) ピーテル・パウル・ルーベンス、プラド美術館(マドリード)
ピーテル・パウル・ルーベンス - Galería online, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5249015による


ルーベンスはもう一組の連作の制作も開始していましたが、こちらは最終的に未完のままに終わりました。1630年(53歳)にマリー・ド・メディシスは、息子のフランス王ルイ13世によって追放され、幼少期のルーベンスが暮らしていたケルンの邸宅で1642年に死去しました。

ルーヴル美術館リシュリー翼メディシスの間で展示されている『マリー・ド・メディシスの生涯』。
Matt Biddulph - Flickr, CC 表示-継承 2.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=17126538による


1621年(44歳)にネーデルラントとスペインとの12年間の休戦期が終わると、スペイン・ハプスブルク家の君主たちはルーベンスを外交的任務に重用し始めました。

1624年(47歳)にフランスの大使がブリュッセルから送った書簡には「スペイン王女(イサベル・クララ・エウヘニア)の命によって、ルーベンスがポーランド王子の肖像画を描きに来ている」と記されています。この書簡に書かれているポーランド王子ヴワディスワフ4世が、イサベルの私的な賓客としてブリュッセルを訪れたのは1624年9月2日のことでした。

1627年(50歳)から1630年(53歳)にかけての期間が、ルーベンスの外交的活動がもっとも激しかった時期となります。ルーベンスはスペインとネーデルラントに平和をもたらすために、スペインとイングランドの王宮を何度も往復しました。

さらに、ルーベンスは画家、外交官両方の役割を担って、ネーデルラント北部を何度か訪れており、各地の宮廷で賓客(ひんきゃく)として遇されています。ルーベンスが爵位を与えられたのもこの時期で、1624年(47歳)にスペイン王フェリペ4世から、1630年(53歳)にイングランド王チャールズ1世から、それぞれナイト爵を授かっています。また、1629年(52歳)にはケンブリッジ大学から美術修士号(Master of Arts (Oxford, Cambridge and Dublin)) を授与されています。


『アダムとイヴ』(1628年 - 1629年) プラド美術館(マドリード) ティツィアーノが描いた『アダムとイヴ』をルーベンスが模写した作品。
ピーテル・パウル・ルーベンス - 1. The Yorck Project (2002年) 10.000 Meisterwerke der Malerei (DVD-ROM)、distributed by DIRECTMEDIA Publishing GmbH. ISBN: 3936122202., [1]2. Museo del Prado, Madrid, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=158489による

ルーベンスは1628年(51歳)から1629年(52歳)にかけての8カ月間マドリードに滞在し、外交官としての職務だけでなく、スペイン王フェリペ4世らの依頼に応じて重要な絵画作品を制作しています。

イタリア時代にも目にしていた、スペイン王宮が所蔵していたティツィアーノの作品に改めて触れ、『アダムとイヴ』など、ティツィアーノの作品の模写を多く描いています。また、ルーベンスは、フェリペ4世の宮廷画家としてマドリード王宮にいたディエゴ・ベラスケスと親交を持ち、翌年に二人でイタリアへと旅行する計画を立てるほどでした。しかしながらルーベンスはアントウェルペンに帰還することを余儀なくされ、結局ベラスケスは一人でイタリアを訪れています。

マドリードからアントウェルペンへ戻ったルーベンスは、すぐに別の任務を与えられてイングランドへと赴き、1630年4月(52歳)までロンドンに滞在しました。このロンドン滞在中に描いた重要な作品が『マルスから平和を守るミネルヴァ(平和と戦争の寓意)』(1629年、ナショナル・ギャラリー(ロンドン))です。平和を希求するルーベンスの強い思いが描かれたこの作品は、イングランド王チャールズ1世に贈られました。

『マルスから平和を守るミネルヴァ』
ピーテル・パウル・ルーベンス - The National Gallery, London, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4989888による


諸国の収集家や貴族階級間でのルーベンスの国際的な名声はますます高くなっていきましたが、ルーベンスとその工房では、聖母マリア大聖堂の『聖母被昇天』(1625年 - 1626年)など、アントウェルペンの後援者からの絵画注文もこなし続けていました。

『聖母被昇天』(1625年 - 1626年)
&lt;a href=&quot;https://en.wikipedia.org/wiki/ja:%E3%83%94%E3%83%BC%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%91%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%B3%E3%82%B9&quot; class=&quot;extiw&quot; title=&quot;w:ja:ピーテル・パウル・ルーベンス&quot;&gt;&lt;span title=&quot;バロック期のフランドルの画家、外交官 (1577-1640)&quot;&gt;ピーテル・パウル・ルーベンス&lt;/span&gt;&lt;/a&gt; - &lt;a href=&quot;https://en.wikipedia.org/wiki/en:Web_Gallery_of_Art&quot; class=&quot;extiw&quot; title=&quot;w:en:Web Gallery of Art&quot;&gt;&lt;span title=&quot;virtual art gallery for European fine art created before 1900&quot;&gt;ウェブ・ギャラリー・オヴ・アート&lt;/span&gt;&lt;/a&gt;: &amp;nbsp;&lt;span typeof=&quot;mw:File&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://www.wga.hu/art/r/rubens/11religi/08assum.jpg&quot; rel=&quot;nofollow&quot;&gt;&lt;/a&gt;&lt;/span&gt; &lt;a rel=&quot;nofollow&quot; class=&quot;external text&quot; href=&quot;http://www.wga.hu/art/r/rubens/11religi/08assum.jpg&quot;&gt;静止画&lt;/a&gt;&amp;nbsp;&lt;span typeof=&quot;mw:File&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://www.wga.hu/html/r/rubens/11religi/08assum.html&quot; rel=&quot;nofollow&quot;&gt;&lt;/a&gt;&lt;/span&gt; &lt;a rel=&quot;nofollow&quot; class=&quot;external text&quot; href=&quot;http://www.wga.hu/html/r/rubens/11religi/08assum.html&quot;&gt;Info about artwork&lt;/a&gt;, パブリック・ドメイン, <a href="https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5100387">リンク</a>による


晩年(1630年 - 1640年)(53歳–62歳)

『毛皮をまとったエレーヌ・フールマン』(1638年頃)美術史美術館(ウィーン)
ルーベンスの二度目の妻エレーヌ・フールマン。当時25歳前後。
ピーテル・パウル・ルーベンス - The Yorck Project (2002年) 10.000 Meisterwerke der Malerei (DVD-ROM)、distributed by DIRECTMEDIA Publishing GmbH. ISBN: 3936122202., パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=158504による

ルーベンスは最晩年に当たる10年間をアントウェルペンとその近隣で過ごしています。イングランドのホワイトホール宮殿の、建築家イニゴー・ジョーンズが設計したバンケティング・ハウスの天井画制作など外国からの注文は依然として多く、これらの仕事に忙殺されていましたが、ルーベンスは自身の芸術の新境地を開きたいと考えていました。

最初の妻イザベラが死去した4年後の1630年(53歳)に、当時53歳だったルーベンスは16歳のエレーヌ・フールマンと再婚しました。エレーヌをモデルとした肉感的な女性像を、『ヴィーナスの饗宴』(1635年頃、美術史美術館(ウィーン))、『三美神』(1635年頃、プラド美術館(マドリード))、『パリスの審判』(1639年頃、プラド美術館(マドリード))など、以降のルーベンスの作品に多く見ることができます。

『ヴィーナスの饗宴』(1635年頃、美術史美術館(ウィーン))
ピーテル・パウル・ルーベンス - XgGjucvfTejNUg at Google Cultural Institute maximum zoom level, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=22189259による
『三美神』(1635年頃、プラド美術館(マドリード))
ピーテル・パウル・ルーベンス - The Prado in Google Earth: Home - 7th level of zoom, JPEG compression quality: Photoshop 10., パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=22620913による


『パリスの審判』(1639年頃) プラド美術館(マドリード)
ピーテル・パウル・ルーベンス - http://www.museodelprado.es/en/the-collection/online-gallery/on-line-gallery/obra/the-judgement-of-paris-1/, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=158606による

スペイン王宮からの依頼で描かれた『パリスの審判』では、エレーヌはローマ神話の美神ヴィーナスとして描かれています。

ルーベンスが私的に描いたエレーヌの肖像『毛皮をまとったエレーヌ・フールマン』、通称『小さな毛皮』は、『メディチ家のヴィーナス(Venus de' Medici)』 のような古代ギリシア彫刻に見られる「恥じらいのヴィーナス」のポーズで描かれています。

メディチ家のヴィーナス
By Sailko - Own work, CC BY 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=70637158

1635年(58年)にルーベンスはアントウェルペン郊外に土地を購入し、ここのステーン城、またはルーベンスの城(Rubenskasteel)と呼ばれる邸宅で最晩年のほとんどをすごしています。

ステーン城
By Brigade Piron - Own work, CC BY 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=136833036

この場所で描かれた風景画に『ステーン城の風景』(1636年頃、ナショナル・ギャラリー(ロンドン))、『畑から戻る農夫』(1637年頃、ピッティ美術館(フィレンツェ))などがあります。また『フランドルの祝祭』(1630年頃、ルーヴル美術館(パリ))のような、ピーテル・ブリューゲル(Pieter Bruegel(Brueghel) de Oude, 1525年から1530年頃 - 1569年9月9日)は、16世紀のブラバント公国(現在のオランダ)の画家)が得意としたフランドルの伝統的な風俗画も描いています。

『ステーン城の風景』(1636年頃) ナショナル・ギャラリー(ロンドン)
ピーテル・パウル・ルーベンス - http://www.nationalgallery.org.uk/paintings/peter-paul-rubens-a-view-of-het-steen-in-the-early-morning, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=158545による
『畑から戻る農夫』(1637年頃) ピッティ美術館(フィレンツェ)
ピーテル・パウル・ルーベンス - The Yorck Project (2002年) 10.000 Meisterwerke der Malerei (DVD-ROM)、distributed by DIRECTMEDIA Publishing GmbH. ISBN: 3936122202., パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=158593による

慢性の痛風を患っていたルーベンスは心不全で1640年5月30日(62歳)に死去し、アントウェルペンの聖ヤーコプ教会に埋葬されました。ルーベンスが残した子女は8人おり、そのうち3人がイザベラ、5人がエレーヌとの間に生まれた子供で、最年少の子供はルーベンス死去時に生後8カ月の乳児でした。

『ルーベンスとイザベラ・ブラントの肖像』(1609年 - 1610年) アルテ・ピナコテーク(ミュンヘン)[3][4] 『すいかずらの木陰』『すいかずらの葉陰』などとも呼ばれるこの作品には、ルーベンスと最初の妻イザベラが描かれています。
&lt;a href=&quot;https://en.wikipedia.org/wiki/ja:%E3%83%94%E3%83%BC%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%91%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%B3%E3%82%B9&quot; class=&quot;extiw&quot; title=&quot;w:ja:ピーテル・パウル・ルーベンス&quot;&gt;&lt;span title=&quot;バロック期のフランドルの画家、外交官 (1577-1640)&quot;&gt;ピーテル・パウル・ルーベンス&lt;/span&gt;&lt;/a&gt; - The Yorck Project (2002年) 10.000 Meisterwerke der Malerei (DVD-ROM)、distributed by &lt;a href=&quot;//commons.wikimedia.org/wiki/Commons:10,000_paintings_from_Directmedia&quot; title=&quot;Commons:10,000 paintings from Directmedia&quot;&gt;DIRECTMEDIA&lt;/a&gt; Publishing GmbH. &lt;a href=&quot;https://ja.wikipedia.org/wiki/ISBN&quot; class=&quot;extiw&quot; title=&quot;ja:ISBN&quot;&gt;ISBN&lt;/a&gt;: &lt;a href=&quot;//commons.wikimedia.org/wiki/Special:BookSources/3936122202&quot; title=&quot;Special:BookSources/3936122202&quot;&gt;3936122202&lt;/a&gt;., パブリック・ドメイン, <a href="https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=158596">リンク</a>による


工房制作

1615年(38歳)から1625年(48歳)にかけて、ルーベンスが受ける制作注文の量は単独で捌くことの出来る範疇を超えたものとなっていました。このため、ルーベンスは「黄金の工房」と呼ばれる工房を組織し、殺到する注文をこなしていきました。

1621年(44歳)にこの工房を訪れたオットー・シュペルリングはその様子について「窓の無い広い部屋で、数人の若い画家がルーベンスがチョークで描いたデッサンに色をつけ、最終的な仕上げをルーベンスが行っていた」と回想しています。こうして、工房で出来上がった絵画が、ルーベンスの作品として世に送られていきました。絵画の価格はルーベンスが関与した割合に応じて決定され、誰がどの部分を制作したかという記録は工房の台帳に明記されていました。このように制作された作品の中には署名のみルーベンスが行ったものも存在しています。

「黄金の工房」での制作に携わった弟子としてはヤン・ウィルデン、パウル・デ・フォス、フランス・スナイデルス、アンソニー・ヴァン・ダイク、ヤーコブ・ヨルダーンスらが知られています。

ピーテル・パウル・ルーベンス『ウェヌスとミラーを保持するクーピド』
&lt;a href=&quot;https://en.wikipedia.org/wiki/ja:%E3%83%94%E3%83%BC%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%91%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%B3%E3%82%B9&quot; class=&quot;extiw&quot; title=&quot;w:ja:ピーテル・パウル・ルーベンス&quot;&gt;&lt;span title=&quot;バロック期のフランドルの画家、外交官 (1577-1640)&quot;&gt;ピーテル・パウル・ルーベンス&lt;/span&gt;&lt;/a&gt; - &lt;a href=&quot;//commons.wikimedia.org/wiki/User:Jean-Pol_GRANDMONT&quot; title=&quot;User:Jean-Pol GRANDMONT&quot;&gt;User:Jean-Pol GRANDMONT&lt;/a&gt; (2013), パブリック・ドメイン, <a href="https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=26748862">リンク</a>による


ルーベンスの作風と評価

ルーベンスは多作でした。顧客からの依頼で描いた作品の多くは宗教的題材の「歴史画」であり、神話や狩猟の場面が描かれているものもありました。また、自身や近親者などの肖像画、さらに晩年には風景画も描いています。その他には、タペストリや版画のデザイン、式典の装飾なども手掛けています。

現存するルーベンスの下絵は、極めて力強い筆致で描かれていますが、それほど精密なものではなく、下絵を描く際にインクやパステルではなく油彩を使用することが多くありました。

また、絵画作品の支持体に板を使用し続けた最後の著名な画家のひとりで、とくに遠距離を運搬する必要がある作品であれば、大規模な作品であっても板を支持体として使う場合が多かったようです。祭壇画であれば、経年変化などの問題を最小限にするために、支持体に石板を採用することもありました。

ルーベンスは肉感的でふくよかな女性を作品に描くことを好みました。後世になってルーベンスが描いたような肢体の女性を「ルーベンス風」あるいは「ルーベンスの絵のようにふくよかな (Rubenesque)」と呼ぶことがあり、現代オランダ語ではこのような女性を意味する「Rubensiaans」という言葉が日常的に使用されています。

『西洋美術の歴史』においてジャンソンは、ルーベンスはアルブレヒト・デューラーが100年前に着手した南北ヨーロッパの美術上の障壁を取り除くことに成功したと同時に、フランドルにおける美術がルーベンスの圧倒的な存在感の影に隠れてしまうこととなったと評しています。


『フランダースの犬』とルーベンス

『フランダースの犬』(英: A Dog of Flanders)は、イギリスの作家ウィーダが19世紀に書いた児童文学です。絵画をテーマとした貧しい少年と犬の友情を描いた悲劇。日本ではアニメにもなりました。

『フランダースの犬』において、主人公のネロが見たがっていたアントウェルペン大聖堂の絵画である『キリスト昇架』と『キリスト降架』の作者はルーベンスで、ネロが祈りを捧げていたアントウェルペン大聖堂のマリアも、ルーベンスが描いた『聖母被昇天』です。

ピーテル・パウル・ルーベンス『キリスト昇架』
Raising of the Cross Crucifixion of Jesus
By Peter Paul Rubens - http://www.lukasweb.be/nl/foto/de-kruisoprichting, Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=45964619
『キリスト降架』
By Peter Paul Rubens - Own work, Alvesgaspar, 13 July 2015, 14:17:05, Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=44480931
聖母被昇天
By Rolf Kranz - Own work, CC BY-SA 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=87080912


幼児虐殺

『幼児虐殺』
After &lt;a href=&quot;https://en.wikipedia.org/wiki/ja:%E3%83%94%E3%83%BC%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%91%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%B3%E3%82%B9&quot; class=&quot;extiw&quot; title=&quot;w:ja:ピーテル・パウル・ルーベンス&quot;&gt;&lt;span title=&quot;バロック期のフランドルの画家、外交官 (1577-1640)&quot;&gt;ピーテル・パウル・ルーベンス&lt;/span&gt;&lt;/a&gt; - &lt;a href=&quot;//commons.wikimedia.org/wiki/User:Jean-Pol_GRANDMONT&quot; title=&quot;User:Jean-Pol GRANDMONT&quot;&gt;User:Jean-Pol GRANDMONT&lt;/a&gt; (2013), パブリック・ドメイン, <a href="https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=26834842">リンク</a>による

『幼児虐殺』(Massacre of the Innocents)は、同名のものが2作品あります。「マタイによる福音書」など、聖書の幼児虐殺のエピソードに基づいたものである。

2002年7月10日にサザビーズで開催されたオークションで、新たにルーベンスの真作であると鑑定された『幼児虐殺』が、4,950万ポンド(約90億円、サザビーズの手数料を含む)で落札されました。落札したのはカナダの第2代トムソンオブフリート男爵ケネス・ロイ・トムソンで、オールド・マスターの作品についた値段としては当時の最高額でした。

『幼児虐殺』
José Luiz Bernardes Ribeiro, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=62338790による



フランドル

1477年のネーデルラント17州の地図。フランドルは西部に位置する(9番)。 原地域名: Vlaanderen(フラーンデレン) 英語名: Flanders(フランダース) 日本語名: フランドル 言語: フラマン語 原形態: 中フランク王国伯領 かつての領主: フランドル伯 創設年: 862年 通貨:ドゥニエ他
Denis Jacquerye - Original svg: [1], CC 表示-継承 2.5, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=337311による

フランドル(英語:Flanders)は、中世に毛織物業、金属細工業や商業を中心に経済が発達し、ヨーロッパの先進的地域となって繁栄した地域。旧フランドル伯領を中心としてオランダ南部、ベルギー西部、フランス北部にまたがって広がっていました。

「フランドル」の呼称は、元々フランス語(Flandre)から由来している地域名です。日本では英語由来のフランダースもよく使用されます。(フランダースの犬など)。

フランドルの歴史

843年、ヴェルダン条約によりフランク王国が分割されたが、のちにフランドルとなる地域は、中フランク王国に属することになり、フランス王家ヴァロワ家傍系のヴァロワ=ブルゴーニュ家の管轄となった。

ネーデルラント(「低地の国々」を意味し、現在のベルギー、オランダ、ルクセンブルクの3か国(ベネルクス)にあたる低地地域)においてフランドルの領域が定まったのは、862年、鉄腕伯ボードゥアン1世西フランク王シャルル2世の娘であるフランドルのユディトと結婚し、初代フランドル伯の位を得たときでした。

フランダース伯爵ボードゥアン1世の像。ブルージュの市庁舎(ベルギー)
By Zeisterre - Own work, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=6609695
ゲント大学図書館提供の「Flandria illustrata」に描かれた「フランダースのユディト」の詳細。
By Antonius Sanderus (1586 – 1664) - https://lib.ugent.be/viewer/archive.ugent.be:EEB84A32-D219-11DF-9DFE-FEF978F64438#?c=0&amp;m=0&amp;s=0&amp;cv=31&amp;r=0&amp;xywh=1379%2C-1870%2C12741%2C8446, CC BY-SA 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=65212884

当初はシャルル2世が結婚を認めなかったため、2人はローマ教皇ニコラウス1世に請願して婚姻許可を得ました。870年には、メルセン条約による中フランク王国の解消にともない大部分が西フランク王国に併合されました。フランドル伯は870年までにヘントの聖ペテロ修道院の指定修道院長の指定権を得、また、ワースラント伯領を併合しました。

1180年にはヘントにフランドル伯城が築造されフランドル伯が居住しました。

フランドル伯の紋章
Benzebuth198 - Wapenboek Gelre, Koninklijke Bibliotheek, Brussel, CC0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=20663021による


13世紀にはブルッヘにハンザ同盟の在外商館が置かれ、金融・貿易の一大拠点として繁栄しました。名門ブルセ家の邸宅に、毎日多数の商人が集まり取引所を形成していきました。取引所を意味するドイツ語の die Börse やフランス語の la bourse はこのブルセを語源としたものです。

フランドル伯は、1353年に同じくヘントのプリンセンホフに居を移しました。1384年にはフランドル女伯マルグリットがフランス王国のヴァロワ=ブルゴーニュ家の初代ブルゴーニュ公フィリップと結婚したことから、フランドル伯国は以後、ブルゴーニュ公国のブルゴーニュ領ネーデルラントの州となりました。その後ブルゴーニュ公兼フランドル伯はネーデルラント17州を徐々に掌握していきました。

フランドル女伯マルグリット
パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2141871

しかし1477年、シャルル突進公が戦死したときに後継の男子がおらず、シャルルの娘ブルゴーニュのマリーはハプスブルク家の神聖ローマ帝国の王マクシミリアン1世と結婚しました。これ以後フランドル伯国を含むネーデルラント17州はハプスブルグ家が継承することになりました。

しかしスペイン・ハプスブルク家神聖ローマ皇帝カール5世が、ローマを陥落させたのちの1531年に、ブラバント公国アントワープにアントワープ証券取引所を設立したこともあり、フランドル伯国は貿易拠点としては廃れていきました。

伝ティツィアーノ・ヴェチェッリオ画、1548年(アルテ・ピナコテーク蔵)
ウェブ・ギャラリー・オヴ・アート:   静止画  Info about artwork, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=15501814による

大航海時代が到来した16世紀、フランドルのプロテスタント勢力がスペイン・ハプスブルク朝と繫がりの深いカトリック教会に対して蜂起し、この暴動がネーデルラント北部に拡大しました(宗教改革、八十年戦争)。このときオラニエ公を始めフランドルの領主らはフランドル伯のフェリペ2世に暴動の責任を問われ財産を没収されたり死刑になりました。

オラニエ公
Adriaen Thomasz. Key - www.rijksmuseum.nl : Home : Info, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=69092による
フェリペ2世
アントニス・モル - http://www.patrimonionacional.es/retratos/obras_principales.htm, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=332712による

しかしプロテスタント勢力は北ネーデルラントを制圧し、のち講和条約のヴェストファーレン条約により、北部の州はネーデルラント連邦共和国(現在のオランダ王国の前身)として独立を果たしました。

一方、フランドルの大部分を含む南部の州はカトリック勢力が巻き返して元通りハプスブルク領に留まり、南ネーデルラントとなった(のちのベルギー、ルクセンブルクの地域とフランス・ドイツの一部地域)

ネーデルラント連邦共和国は1795年、フランス革命戦争のなかで伯領が廃止となり、フランドルの一部は一時はバタヴィア共和国の地域となりました(ナポレオン戦争が1815年に終わるまでフランス領でした)。

南ネーデルラントは1830年、ベルギー独立革命によりベルギー王国及びその統治下のルクセンブルクとなったことから、ほとんどの元フランドル伯国の地域は両国にまたがる形となっています。

1940年5月10日からオランダに侵攻したドイツ国防軍に対し、数十万のイギリス・フランス連合軍はフランドル地域で戦線を押しとどめようとしましたが、5月28日にベルギーが降伏すると連合軍は抵抗する目途が立たなくなりダンケルクへと撤退。フランドルはナチス・ドイツにより占領されました。


八十年戦争

八十年戦争(蘭: Tachtigjarige Oorlog)は、1568年から1648年にかけて(1609年から1621年までの12年間の休戦を挟む)ネーデルラント諸州スペインに対して起こした反乱です。これをきっかけに後のオランダが誕生したため、オランダ独立戦争と呼ばれることもあります。

この反乱の結果として、ネーデルラント17州の北部7州はネーデルラント連邦共和国として独立しました。北部7州は、1581年にスペイン国王フェリペ2世の統治権を否認し、1648年のヴェストファーレン条約によって独立を承認されました。


まとめ

ルーベンスは工房を経営して、貴族階級らに納品していました。このあたりは、日本の狩野派に似ています。しかも古典的知識を持つ人文主義学者であり、美術品収集家でもあり、七ヶ国語を話し、外交官としても活躍してスペイン王フェリペ4世とイングランド王チャールズ1世からナイト爵位を受けています。つまり超絶エリートです。

ルーベンスは53歳のときに結婚した16歳のエレーヌ・フールマン結婚したにぞっこんで、モデルにしまくり、そして子供をつくりまくっていました。元気。エレーヌ・フールマンをモデルにして描くようになって移行、とてもふくよかな女性を好んで描き、セルライトを精緻に表現しています。

不思議とルーベンスの絵を見ていると、このムチムチした体験が魅惑的に見えてきます。ルーベンス。エリートで元気で若い奥さん大好きで、戦争を終わらせたがった狩野派のように工房を構え、作品を作りまくった画家であり、外交官です。



関連記事



参照

※1

※2


*3 山田五郎さんのYoutube『【ルーベンス】「三美神」の女神がムッチリ太っている理由とは?【ポチャ】』


よろしければサポートをお願いします。サポート頂いた金額は、書籍購入や研究に利用させていただきます。