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《週末アート》 フィンセント・ファン・ゴッホの花火のような生涯

週末アート》マガジン

いつもはデザインについて書いていますが、週末はアートの話。毎日午前7時に更新しています。


フィンセント・ファン・ゴッホ

ゴッホの自画像(1887)

生没:1853(オランダ、ズンデルト生まれ)–1890(フランス、オーヴェル・シュル・オワーズ)

フィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホ(Vincent Willem van Gogh)。英語だと「ゴッホ」じゃなくて「ゴー」と発音します。死後、西洋美術史上もっとも有名になった画家のひとり。オランダ人のポスト印象派の画家です。10年間で約2100点の作品を制作し、そのうち油彩画は約860点で、そのほとんどが晩年の2年間(35〜37歳)に描かれたものです。風景画、静物画、肖像画、自画像など、大胆な色彩と劇的で衝動的、表情豊かな筆致が特徴で、近代美術の基礎に貢献しました。しかし商業的な成功は収められず、重度のうつ病と貧困に苦しみながら、37歳で自殺してしまいました。

ゴッホは、オランダの中流階級の家庭に生まれました。幼少期は、真面目で物静か、思慮深い性格でした。幼い頃から絵を描き始め、青年期には画商として働き、しばしば旅に出ていましたが、ロンドンへの転勤をきっかけに鬱病になります。宗教に目覚め、ベルギー南部でプロテスタントの宣教師として過ごします。不健康と孤独の中で漂流していたが、1881年(28歳)、両親のもとに戻り、絵を描き始めます。弟のテオが経済的に援助し、ふたりは手紙で長い間文通を続けていました。

初期の作品は、静物や農民の労働を描いたものが多く、後の作品に見られるような鮮やかな色彩はほとんど見られません1886年(33歳)、パリに移り住んだゴッホは、エミール・ベルナールポール・ゴーギャンなどの前衛芸術家たちと知り合います。そして、静物画や風景画に新たな息吹を吹き込みました。1888年(35歳)に南仏のアルルに滞在したときに、そのスタイルが完全に確立されました。この時期、彼はオリーブの木、麦畑、ひまわりなどのシリーズを描くようになり、主題を広げていきました。

ゴッホは精神病や妄想に悩まされ、体調を崩し、不摂生や大酒を飲むことが多くありました。ゴーギャンとの友情は、2人の対立の末、ゴッホが怒りにまかせて自分の左耳の一部をカミソリで切断したことで終わってしまいます。その後、精神科病院に入院。退院後、パリ近郊のオーヴェル・シュル・オワーズに移り、ホメオパシー医、ポール・ガシェのもとで治療を受けました。鬱状態が続き、1890年7月27日(37歳)、ゴッホはリボルバーで胸を撃ち、2日後にその傷がもとで亡くなりました。

ゴッホの絵は生前は売れず、一般に狂人、失敗作とみなされていましたが、一部のコレクターは、彼の作品の価値を認めていました。20世紀初頭、ゴッホの評判は、彼の作風が野獣派やドイツの表現主義者たちに取り入れられるようになり、高まりました。その後数十年にわたり、批評家からも商業的にも広く成功を収め、重要な画家でありながら悲劇的な画家として記憶されるようになりました。

現在、ゴッホの作品は世界で最も高額で取引されている絵画のひとつであり、アムステルダムのファン・ゴッホ美術館は彼の名を冠した美術館として、彼の絵画と素描の世界最大のコレクションを所蔵しています。


手紙

ゴッホは生前中、有名だったわけではないので、彼の行動を詳細に記録したものは多くはありません。しかしゴッホと彼を経済的にも精神的に支援していた弟テオとやりとりしていた手紙がすべて保管されており、それがゴッホの包括的な資料となっています。

テオ・ファン・ゴッホ(1857–1891)
兄のゴッホが亡くなった半年後にテオは感染症のある麻痺性痴呆を患い、衰弱し33歳で死去。

テオ・ファン・ゴッホは画商であり、フィンセント・ファン・ゴッホに経済的、精神的な支援と、現代美術の有力者へのアクセスを提供していました。

フィンセント・ファン・ゴッホ(1873)20歳

テオ氏は、フィンセントが拳銃自殺した半年後には感染症によって死去しています。二人が亡くなった後、テオ氏の未亡人ヨハンナ(Johanna)氏の計らいで、二人の手紙の一部が出版されました。フィンセントの手紙は、雄弁で表現力に富み、「日記のような親密さ」を持っていると評され、部分的には自伝のようにも読めたそうです。 翻訳家のアーノルド・ポメランス(Arnold Pomeran)は、その出版によって「ファン・ゴッホの芸術的業績に対する理解に新たな次元、事実上他のどの画家によっても与えられなかった理解」が加わったと記しています。(※1)

フィンセントからテオへの手紙は600通以上、テオからフィンセントへの手紙は約40通(フィンセントはあまり保管していなかった)ありました。妹のウィル宛が22通、画家のアントン・ファン・ラパード宛が58通、エミール・ベルナール宛が22通、さらにポール・シニャック、ポール・ゴーギャン、評論家のアルベール・オリエ宛の手紙もあります。その多くは年代不明ですが、美術史家はそのほとんどを年代順に並べることができました。しかしパリ滞在中は、兄弟が同居し、文通の必要がなかったため、記録には空白があります。

ヴァンサンの手紙には、高給取りの現代美術家ジュール・ブルトン(Jules Breton)が頻繁に登場してきます。1875年(フィンセントが22歳のとき)のテオへの手紙では、ブルトンに会ったことを述べ、サロンで見たブルトンの絵について、また、ブルトンの本を送ったが、返送することが条件であったことを述べています。1884年3月(31歳)の画商ラパードへの手紙では、ブルトンの詩が自分の絵のインスピレーションとなったことについて述べています(※1)。1885年(32歳)には、ブルトンの有名な作品『ヒバリの歌』(The Song of the Lark)を「素晴らしい」と評しています。これらの手紙のほぼ中間の1880年3月(27歳)、ゴッホはクールリエール村のブルトンに会うために80キロの徒歩の旅に出ますが、ブルトンの成功や彼の領地を囲む高い壁に脅かされたようでした。ブルトンは、ゴッホの存在も、彼の訪問も知らないままでした。


生涯と作品

オランダ、ズンデルト(1853–1869)0歳–16歳

オランダ改革派教会の牧師であるテオドルス・ファン・ゴッホ(1822-1885)とその妻アンナ・コーネリア・カーベンタス(1819-1907)間に、フィンセント・ファン・ゴッホは、1853年3月30日、カトリック教徒が多いオランダの北ブラバント州にあるズンデルトで生まれました。

ズンデルトの位置

名付けられた「フィンセント」は、ファン・ゴッホ一家によくある名前でした。この名前は、祖父である著名な画商フィンセント(1789-1874)が持っていたもの。1857年5月1日に弟テオが誕生。ゴッホの母親は厳格で宗教的な女性でした。父、テオドロスの給料は質素なものでしたが、教会から一家に家、メイド、料理人2人、庭師、馬車と馬が与えられていました。

フィンセントは、小さい時から癇癪持ちで、両親や家政婦からは兄弟の中でもとりわけ扱いにくい子と見られていました。親に無断で一人で遠出することも多く、ヒースの広がる低湿地を歩き回り、花や昆虫や鳥を観察して1日を過ごしていました。1860年(7歳)からズンデルト村の学校に通っていましたが、1861年(8歳)から1864年(11歳)まで、妹アンナとともに家庭教師の指導を受けていました。1864年2月に11歳のフィンセントが父の誕生日のために描いたと思われる『農場の家と納屋』と題する素描が残っています。

『農場の家と納屋』(1864年、フィンセント11歳)

1864年10月からは約20 km離れたゼーフェンベルゲンのヤン・プロフィリ寄宿学校に入校します。フィンセントは、後に、親元を離れて入学した時のことを「僕がプロフィリさんの学校の石段の上に立って、お父さんとお母さんを乗せた馬車が家の方へ帰っていくのを見送っていたのは、秋の日のことだった。」と回顧していましす(テオと手紙)。1866年9月15日(13歳)、ティルブルフに新しくできた国立高等市民学校、ヴィレム2世校に進学。パリで成功したコンスタント=コルネーリス・ハイスマンスという画家がこの学校で教えており、フィンセントも彼から絵を習ったと推定されています。1868年3月(15歳)、フィンセントは、あと1年を残して学校をやめ、家に帰ってしまいます。その理由はわかっていません。1883年(30歳)のときテオに宛てた手紙の中で、「僕の若い時代は、陰鬱で冷たく不毛だった」と書いています。

ハーグ(1869–1876)16歳–23歳

1869年7月(16歳)、フィンセントの叔父セントは、ハーグの画商グーピル・アンド・シーの職を得ました。1873年(20歳)にフィンセントは画商の研修を終えた後、グーピルのロンドン支店(サウザンプトン通り)に異動し、ストックウェル、ハックフォード通り87番に下宿しました。1872年夏(19歳)、当時まだ学生だった弟テオがハーグのフィンセントのもとを訪れ、職場でも実家でも孤立感を深めていたフィンセントはテオに親しみを見出しました。この時、レイスウェイクまで2人で散歩し、にわか雨に遭って風車小屋でミルクを飲んだことを、フィンセントは後に鮮やかな思い出として回想しています。この直後からテオに手紙を書き、以後2人の間で書簡のやり取りが始まりました。

この時期は、フィンセントにとって幸せだったようです。仕事で成功し、20歳で父親より多くの収入を得ていました。弟、テオの妻は後に、この年はフィンセントの人生で最も良い年だったと語っています。フィンセント自身は、この時のことについて「2年間は割と面白くなかったが、最後の年はとても楽しかった」と書いています(※2)。1875年(22歳)、1875年5月(23歳)、フィンセントはパリ本店に転勤となります。同じパリ本店の見習いで同宿だったハリー・グラッドウェルとともに、聖書やトマス・ア・ケンピスの『キリストに倣いて』に読みふけりました。いっぽうで、金儲けだけを追求するようなグーピル商会の仕事には反感を募らせていきました。翌1876年1月(23歳)、グーピル商会から4月1日をもって解雇するとの通告を受けます。解雇の理由の一つは、フィンセントが1875年のクリスマス休暇を取り消されたにもかかわらず、無断でエッテンの実家に帰ったためでした。

聖職者を目指す(1876–1880)23歳–27歳

1876年4月(24歳)、フィンセントは、イギリスへ移り、ラムズゲートの港を見下ろす小さな寄宿学校で無給で教師として働くこととなりました。


ここで少年たちにフランス語初歩、算術、書き取りなどを教えました。1876年6月、寄宿学校はロンドン郊外のアイズルワースに移ることとなり、彼はアイズルワースまで徒歩で旅します。

しかし、伝道師になって労働者や貧しい人の間で働きたいという希望を持っていたフィンセントは、寄宿学校での仕事を続けることなく、組合教会のジョーンズ牧師の下で、少年たちに聖書を教えたり、貧民街で牧師の手伝いをしたりしました。ジョージ・エリオットの『牧師館物語』や『アダム・ビード』を読んだことも、伝道師になりたいという希望に強化しました。

その年のクリスマス、フィンセントはエッテンの父の家に帰省しました。聖職者になるには7年から8年もの勉強が必要であり、無理だという父の説得を受け、翌1877年1月から5月初旬(24歳)まで、南ホラント州ドルトレヒトの書店ブリュッセ&ファン・ブラームで働きました。

左から3軒目がブリュッセ&ファン・ブラーム書店

この時期に下宿仲間で教師だったヘルリッツは、フィンセントは食卓で長い間祈り、肉は口にせず、日曜日にはオランダ改革派教会だけでなくヤンセン派教会、カトリック教会、ルター派教会に行っていたと語っています。

フィンセントは、ますます聖職者になりたいという希望を募らせ、受験勉強に耐えることを約束して父を説得します。しかし、その挫折。精神的に追い詰められたフィンセントは、パンしか口にしない、わざと屋外で夜を明かす、杖で自分の背中を打つというような自罰的行動に走りました。1878年2月(24歳)、習熟度のチェックのために訪れた父からは、勉強が進んでいないことを厳しく指摘され、学資も自分で稼ぐように言い渡されてしまいました。その結果、ますます勉強から遠ざかり、アムステルダムでユダヤ人にキリスト教を布教しようとしているチャールズ・アドラー牧師らと交わるうちに、貧しい人々に聖書を説く伝道師になりたいという思いを固めます。同年の1878年、自分は伝道のためボリナージュ(ベルギー南西部のモンスから南西に広がる地域)に行くことにするとテオに書いています。1878年12月、彼はベルギーの炭鉱地帯、ボリナージュ地方に赴き、プティ=ヴァムの村で、パン屋ジャン=バティスト・ドゥニの家に下宿しながら伝道活動を始めました。1879年1月(25歳)から、熱意を認められて半年の間は伝道師としての仮免許と月額50フランの俸給が与えられることになりました。しかし教会の伝道委員会も、フィンセントの常軌を逸した自罰的行動を伝道師にふさわしくないとし、警告するも、フィンセントは従わず、伝道師の仮免許と俸給は打ち切られてしまいました。

伝道師としての道を絶たれたフィンセントは、1879年8月(26歳)、同じくボリナージュ地方のクウェムの伝道師フランクと坑夫シャルル・ドゥクリュクの家に移り住みます。父親からの仕送りに頼ってデッサンの模写や坑夫のスケッチをして過ごしていましたが、家族からはその暮らしぶりを非難されます。1880年3月頃、(27歳)絶望のうちに北フランスへ放浪の旅に出て、金も食べるものも泊まるところもなく、フィンセントはひたすら歩いて回りました。そしてついにエッテンの実家に帰るも、フィンセントの常軌を逸した傾向を憂慮した父親は、彼を精神病院に入れようとし、フィンセントと口論。フィンセントはクウェムへ戻りました。クウェムに戻った1880年6月頃から、テオのフィンセントへの生活費の援助が始まりました。この時期にフィンセントは、本格的に絵を描くことを決意したようです。

絵を描く決意をする(1880)27歳

1880年10月、絵を勉強しようとして突然ブリュッセルに出て行きました。運搬夫、労働者、少年、兵隊などをモデルにデッサンを続けます。この時、ブリュッセル王立美術アカデミーに在籍していた画家アントン・ファン・ラッパルトと交友を持ちます。

『祖父フィンセント』1881年(28歳)

1881年4月(28歳)、フィンセントはお金に困り、エッテンの実家に戻り、田園風景や近くの農夫たちを素材に素描や水彩画を描き続けました。この頃には、フィンセント特有の太く黒い描線と力強さが現れ始めていました。夏の間、最近夫を亡くした従姉のケー・フォス・ストリッケルがエッテンを訪れてきました。フィンセントはケーと連れ立って散歩したりするうちに、彼女に好意を持つようになり、求婚するも拒絶されます。

ケー・フォス・ストリッケルと、その息子ヤン。

ケーはアムステルダムに帰ってしまうも、ケーに何度も手紙を書き、さらに弟テオに無心した金でアムステルダムのケーの家を訪ねます。しかし、ケーからは会うことを拒否され、ケーの両親からもしつこい行動を非難されます。

1882年1月(29歳)、フィンセントはハーグに住み始め、オランダ写実主義・ハーグ派の担い手であったアントン・モーヴを頼りました。

アントン・モーヴ『自画像』

モーヴはフィンセントに油絵と水彩画の指導をするとともに、アトリエを借りるための金を貸し出すなど、親身になって面倒を見ました。しかし、モーヴは次第にフィンセントに対して距離を置き始めました。フィンセントは、わずかな意見の違いも自分に対する全否定であるかのように受け止めて怒りを爆発させる性向があり、モーヴに限らず、知り合ったハーグ派の画家たちも次々彼を避けるようになっていきました。孤立しながらも、アトリエでモデルに思いどおりのポーズをとらせ、ひたすらスケッチをすることに集中しましたが、月100フランのテオからの仕送りの大部分をモデル料に費やし、少しでも送金が遅れると自分の芸術を損なうものだと言ってテオをなじっていました。

1882年6月、フィンセントは淋病で3週間入院し、退院直後の7月始め、今までの家の隣の家に引っ越し、この新居に、長男ヴィレムを出産したばかりのシーンとその5歳の娘と暮らし始めました。一時は、売れる見込みのある油絵の風景画を描くようにとのテオの忠告にしぶしぶ従い、スヘフェニンゲンの海岸などを描いましたが、間もなく、上達が遅いことを自ら認め、挫折。冬の間は、アトリエで、シーンの母親や、赤ん坊、身寄りのない老人などを素描しました。

フィンセントは、そこで1年余り、シーンと共同生活をしていましたが、1883年5月(30歳)には、「シーンはかんしゃくを起こし、意地悪くなり、とても耐え難い状態だ。以前の悪習へ逆戻りしそうで、こちらも絶望的になる。」などとテオに書いています。同年9月初め、シーンと別れ、ドレンテ州のホーヘフェーンへ発つ。また、同年10月からはドレンテ州ニーウ・アムステルダムの泥炭地帯を旅しながら、ミレーのように農民の生活を描くべきだと感じ、馬で畑を犂く人々を素描しています。

シーンを描いた『悲しみ』1882年4月(29歳)

1883年12月5日(30歳)、フィンセントは、父親が前年8月から仕事のため移り住んでいたオランダ北ブラバント州ニューネンの農村に初めて帰省し、ここで2年間過ごしました。2年前にエッテンの家を出るよう強いられたことをめぐり父と激しい口論になったものの、小部屋をアトリエとして使ってよいことになりました。さらに、1884年1月(30歳)に骨折のけがをした母の介抱をするうち、家族との関係は改善されていきました。母の世話の傍ら、近所の織工たちの家に行って、古いオークの織機や、働く織工を描いています。一方、テオからの送金がまわりから「能なしへのお情け」と見られていることには不満を募らせ、同年3月、テオに、今後作品を規則的に送ることとする代わりに、今後テオから受け取る金は自分が稼いだ金であることにしたい、という申入れをし、織工や農民の絵を描きました。

ニューネンの牧師館(左手)の庭。中央はフィンセント(30-32歳)が使っていたアトリエ小屋。
Rijksdienst voor het Cultureel Erfgoed, CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=24000655による

1884年の夏(31歳)、近くに住む10歳年上の女性マルホットと恋仲になりました。しかし双方の家族から結婚を反対され、マルホットはストリキニーネを飲んで倒れるという自殺未遂事件を起こし、村のスキャンダルとなりました。この事件をきっかけに、再び父との争いが始まりました。1885年3月26日(32歳)、父が発作を起こして急死。妹アンナからは、父を苦しめて死に追いやったのはフィンセントであり、彼が家にいれば母も殺されることになるとなじられます。


1885年の春(32歳)、数年間にわたって描き続けた農夫の人物画の集大成として、彼の最初の本格的作品と言われる『ジャガイモを食べる人々』を完成させます。

『ジャガイモを食べる人々』1885年4月-5月(32歳)

自らが着想した独自の画風を具体化した作品であり、自身は大きく満足した仕上がりでしたが、テオを含め周囲からの理解は得られませんでした。同年5月には、アカデミズム絵画を批判して印象派を持ち上げていた友人ラッパルトからも、人物の描き方、コーヒー沸かしと手の関係、その他の細部について手紙で厳しい批判を受けました。これに対し、フィンセントも強い反論の手紙を返し、2人はその後絶交に至りました。

夏の間、フィンセントは農家の少年と一緒に村を歩き回って、ミソサザイの巣を探したり、藁葺き屋根の農家の連作を描いたりして過ごしました。炭坑のストライキを描いたエミール・ゾラ(Émile Zola, 1840 - 1902, フランスの小説家)の小説『ジェルミナール』を読み、ボリナージュでの経験を思い出して共感したりしていました。一方、『ジャガイモを食べる人々』のモデルになった女性(ホルディナ・ドゥ・フロート)が9月に妊娠した件について、フィンセントのせいではないかと疑われ、カトリック教会からは、村人にゴッホの絵のモデルにならないよう命じられます。同年10月(32歳)、フィンセントは、首都アムステルダムの国立美術館を訪れ、レンブラント、フランス・ハルス、ロイスダールなどの17世紀オランダの大画家の絵を見直し、素描(「そびょう」、デッサン)と色彩を一つのものとして考えること、勢いよく一気呵成に描き上げることといった教訓を得るとともに、近年の一様に明るい絵への疑問を新たにしました。この時期に、フィンセントは、黒の使い方を実証するため、父の聖書と火の消えたろうそく、エミール・ゾラの小説本『生きる歓び』を描いた静物画を描き上げ、テオに送りました。

『開かれた聖書の静物画(イタリア語版)』1885年10月、ニューネン。油彩、キャンバス、65.7 × 78.5 cm。ゴッホ美術館
フィンセント・ファン・ゴッホ - Copied from an art book, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=9371252による

もはやモデルになってくれる村人を見つけることができなくなった上、部屋を借りていたカトリック教会管理人から契約を打ち切られると、同年11月(32歳)、フィンセントは、ニューネンを去らざるを得なくなりました。残された多数の絵は母によって二束三文で処分されてしました。

アントウェルペン時代

アントウェルペン

1885年11月(32歳)、フィンセントはベルギーのアントウェルペン(アントワープ)へ移り、イマージュ通りに面した絵具屋の、2階の小さな部屋に住み始めました。1886年1月から、アントウェルペン王立芸術学院で人物画や石膏デッサンのクラスに参加します。

アントウェルペン王立芸術学院(アカデミー)
コンピュータが読み取れる情報は提供されていませんが、Friedrich Tellbergだと推定されます(著作権の主張に基づく) - コンピュータが読み取れる情報は提供されていませんが、投稿者自身による著作物だと推定されます(著作権の主張に基づく), CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=748272による

また、美術館やカテドラルを訪れ、特にルーベンスの絵に関心を持ちます。さらに、エドモン・ド・ゴンクールの小説『シェリ』を読んで、ジャポネズリー(日本趣味)に魅了され、多くの浮世絵を買い求めて部屋の壁に貼るようになりました。
金銭的には依然困窮しており、テオが送ってくれる金を画材とモデル代につぎ込み、口にするのはパンとコーヒーとタバコだけでした。同年2月、フィンセントはテオへの手紙で、前の年の5月から温かい物を食べたのは覚えている限り6回だけだと書いています。食費を切り詰め、体を酷使したため、歯は次々欠け、彼の体は衰弱していきました。また、このころからアブサンを飲むようになりました。

パリ時代(1886年-1888年初頭)

1886年2月末(32歳)、フィンセントは、ブッソ=ヴァラドン商会(グーピル商会の後身)の支店を任されているテオを頼って、前ぶれなく夜行列車でパリに向かい、モンマルトルの弟の部屋に住み込みます。部屋は手狭でアトリエの余地がなかったため、6月からはルピック通りのアパルトマンに2人で転居しました。パリ時代には、この兄弟が同居していて手紙のやり取りがほとんどないため、前述の通り、フィンセントの生活について分かっていないことが多くあります。モンマルトルのフェルナン・コルモンの画塾に数か月通い、石膏彫刻の女性トルソーの素描などを残しています。

石膏彫刻の女性トルソー。1886年6月、パリ。油彩、厚紙、46.4 × 38.1 cm。ゴッホ美術館

富裕なフランス人子弟の多い塾生の中では浮いた存在となり、長続きしませんでした。オーストラリア出身のジョン・ピーター・ラッセル(1858 - 1930)とは数少ない交友関係を持ち、ラッセルはフィンセントの肖像画を描いています。

ョン・ピーター・ラッセルによるフィンセント・ファン・ゴッホの肖像画(1886年)

1886年当時のパリでは、ルノワール、クロード・モネ、カミーユ・ピサロといった今までの印象派画家とは異なり、純色の微細な色点を敷き詰めて表現するジョルジュ・スーラ、ポール・シニャックといった新印象派・分割主義と呼ばれる一派が台頭していました。フィンセントは、春から秋にかけて、モンマルトルの丘から見下ろすパリの景観、丘の北面の風車・畑・公園など、また花瓶に入った様々な花の絵を描きました。同年冬(33歳)には人物画・自画像が増えはじめました。また、画商ドラルベレットのところでアドルフ・モンティセリの絵を見てから、この画家に傾倒するようになります。カフェ・タンブランの女店主アゴスティーナ・セガトーリにモデルを世話してもらったり、絵を店にかけてもらったり、冬には彼女の肖像(『カフェ・タンブランの女』)を描いたりしましたが、彼女に求婚して断られ、店の人間とトラブルになっています。

カフェ・タンブランの女(1887年)(34歳)

同居のテオとは口論が絶えず、1887年3月(34歳)には、テオは妹ヴィルに「フィンセントのことを友人と考えていたこともあったが、それは過去の話だ。彼には出て行ってもらいたい。」と苦悩を漏らしています。他方、その頃から、フィンセントは印象派新印象派の画風を積極的に取り入れるようになり、パリの風景を明るい色彩で描くようになりました。テオもこれを評価する手紙を書いています。同じくその頃、テオは、ブッソ=ヴァラドン商会で新進の画家を取り扱う展示室を任せられ、モネ、ピサロ、アルマン・ギヨマンといった画家の作品を購入するようになりました。これを機に、エミール・ベルナールや、コルモン画塾の筆頭格だったルイ・アンクタントゥールーズ=ロートレックといった野心あふれる若い画家たちも、ファン・ゴッホ兄弟と親交を持つようになりました。彼が絵具を買っていたジュリアン・タンギー(タンギー爺さん)の店(ポール・セザンヌも通っていた店で、セザンヌは支払いの代わりに絵画を提供していました)も、若い画家たちの交流の場となっていました。

フィンセントは、プロヴァンス通りにあるサミュエル・ビングの店で多くの日本版画を買い集めました。1887年(34歳0の「タンギー爺さん」の肖像画の背景の壁にいくつかの浮世絵を描き込んでいるほか、渓斎英泉の『雲龍打掛の花魁』、歌川広重の『名所江戸百景』、『亀戸梅屋舗』と『大はし あたけの夕立』を模写した油絵を制作しています。渓斎英泉の作品は、『パリ・イリュストレ』日本特集号の表紙に原画と左右反転で印刷された絵を模写したものであり、フィンセントの遺品からも表紙が擦り切れた状態で発見されたことから、愛読していたことが窺えます。こうした浮世絵への熱中には、ベルナールの影響も大きいようです。

『パリ・イリュストレ』1886年の日本特集号。画商・林忠正が大半を執筆していました。

同年11月、フィンセントは、クリシー大通りのレストラン・シャレで、自分のほかベルナール、アンクタン、トゥールーズ=ロートレック、A.H.コーニングといった仲間の絵の展覧会を開きました。そして、モネルノワールら、大並木通り(グラン・ブールヴァール)の画廊に展示される大家と比べて、自分たちを小並木通り(プティ・ブールヴァール)の画家と称しました。この展示会は、パリの絵画界ではほとんど見向きもされませんでした。同月、ポール・ゴーギャンがカリブ海のマルティニークからフランスに帰国し、フィンセント、テオの兄弟はゴーギャンと交流するようになりました。

『モンマルトル』1887年初頭、パリ。油彩、キャンバス、43.6 × 33 cm。シカゴ美術館
『おいらん(栄泉を模して)』1887年10月-11月
『タンギー爺さん』1887年秋

アルル時代(1888年-1889年5月)

フィンセントは、1888年2月20日(35歳)、テオのアパルトマンを去って南フランスのアルルに到着し、オテル=レストラン・カレルに宿泊します。

アルルの場所

フィンセントは、この地から、テオに画家の協同組合を提案します。エドガー・ドガ、モネ、ルノワール、アルフレッド・シスレー、ピサロという5人の「グラン・ブールヴァール」の画家と、テオやテルステーフなどの画商、そしてアルマン・ギヨマン、スーラ、ゴーギャンといった「プティ・ブールヴァール」の画家が協力し、絵の代金を分配し合って相互扶助を図るというものでした。

『アルルの跳ね橋』1888年3月
『アルルの跳ね橋』で描かれたラングロワ橋

フィンセントは、ベルナール宛の手紙の中で、以下のようにアルルを表現しています。

「この地方は大気の透明さと明るい色の効果のため日本みたいに美しい。水が美しいエメラルドと豊かな青の色の広がりを生み出し、まるで日本版画に見る風景のようだ。」

3月中旬には、アルルの街の南の運河にかかるラングロワ橋を描き、3月下旬から4月にかけてはアンズやモモ、リンゴ、プラム、梨と、花の季節の移ろいに合わせて果樹園を次々に描きました。また、3月初めに、アルルにいたデンマークの画家クリスチャン・ムーリエ=ペーターセン(Christian Mourier-Petersen)と知り合って一緒に絵を描くなどし、4月以降、2人はアメリカの画家ドッジ・マックナイト(Dodge MacKnight)やベルギーの画家ウジェーヌ・ボック(Eugène Boch)とも親交を持ちます。

フィンセント・ファン・ゴッホ「ウジェーヌ・ボックの肖像」1888年

同年(1888年)5月からは、宿から高い支払を要求されたことを機に、ラマルティーヌ広場に面した黄色い外壁で2階建ての建物「黄色い家」の東半分、小部屋付きの2つの部屋を借り、画室として使い始めます。しかしベッドなどの家具がなかったため、9月までは3軒隣の「カフェ・ドゥ・ラ・ガール」の一室に寝泊まりしていました。ポン=タヴァンにいるゴーギャンが経済的苦境にあることを知ると、2人でこの家で自炊生活をすればテオからの送金でやり繰りできるという提案を、テオとゴーギャン宛に書き送りました。5月30日頃、地中海に面したサント=マリー=ド=ラ=メールの海岸に旅して、海の変幻極まりない色に感動し、砂浜の漁船などを描きました。

サント・マリーの浜辺の漁船 1888年6月 アムステルダム、ファン・ゴッホ美術館

6月、アルルに戻ると、炎天下、蚊やミストラル(北風)と戦いながら、毎日のように外に出てクロー平野の麦畑や、修道院の廃墟があるモンマジュールの丘、黄色い家の南に広がるラマルティーヌ広場を素描し、雨の日にはズアーブ兵(アルジェリア植民地兵)をモデルにした絵を描きました。

「黄色い家」1888年

6月初めにはムーリエ=ペーターセンが帰国してしまい、寂しさを味わったフィンセントは、ポン=タヴァンにいるゴーギャンとベルナールとの間でさかんに手紙のやり取りをしました。7月、アルルの少女をモデルに描いた肖像画に、ピエール・ロティの『お菊さん』を読んで知った日本語を使って『ラ・ムスメ』という題を付けました。

「ラ・ムスメ」(La Mousmé)1888年7月

同月、郵便夫ジョゼフ・ルーランの肖像を描いています。

郵便配達人ジョセフ・ルーランの肖像

8月、彼はベルナールに画室を6点のひまわりの絵で飾る構想を伝え、『ひまわり』を4作続けて制作します。


『ひまわり』1888年8月、アルル

9月初旬、寝泊まりしていたカフェ・ドゥ・ラ・ガールを描いた『夜のカフェ』を、3晩の徹夜で仕上げています。

『夜のカフェ』

この店は客が集まって酔っぱらい、夜を明かす居酒屋であり、フィンセントは手紙の中で「『夜のカフェ』の絵で、僕はカフェとは人がとかく身を持ち崩し、狂った人となり、罪を犯すようになりやすい所だということを表現しようと努めた。」と書いています。一方、ポン=タヴァンにいるゴーギャンは、同年(1888年)7月アルルに行きたいと手紙をフィンセントに送っています。フィンセントは、ゴーギャンとの共同生活の準備をするため、9月8日にテオから送られてきた金で、ベッドなどの家具を買い揃え、9月中旬から「黄色い家」に寝泊まりするようになりました。同じ9月中旬に『夜のカフェテラス』を描き上げています。

『夜のカフェテラス』1888年9月、アルル

同年(1888年)10月23日、ゴーギャンがアルルに到着し、共同生活が始まりました。2人は、街の南東のはずれにあるアリスカンの散歩道を描いたり、11月4日、モンマジュール付近まで散歩して、真っ赤なぶどう畑を見たりしました。2人はそれぞれぶどうの収穫を絵にしています。


フィンセント・ファン・ゴッホ『赤い葡萄畑』1888年11月、アルル
ゴーギャン『ぶどうの収穫――人間の悲哀』1888年11月

また、同じ11月初旬、2人は黄色い家の画室で「カフェ・ドゥ・ラ・ガール」の経営者ジョゼフ・ジヌーの妻マリーをモデルに絵を描いています。

『アルルの女 (ジヌー夫人)』1888年11月、アルル。

ゴーギャンは、フィンセントに、全くの想像で制作をするようすすめ、思い出によりエッテンの牧師館の庭を母と妹ヴィルが歩いている絵などを描きました。しかし、フィンセントは、想像で描いた絵は自分には満足できるものではなかったことをテオに伝えています。11月下旬、フィンセントは2点の『種まく人』を描いています。

「種をまく人」

ゴーギャンとフィンセントの関係は少しずつ悪化していきます。11月下旬、ゴーギャンはベルナールに対し「ヴァンサン(フィンセント)と私は概して意見が合うことがほとんどない、ことに絵ではそうだ。……彼は私の絵がとても好きなのだが、私が描いていると、いつも、ここも、あそこも、と間違いを見つけ出す。……色彩の見地から言うと、彼はモンティセリの絵のような厚塗りのめくらめっぽうをよしとするが、私の方はこねくり回す手法が我慢ならない、などなど。」と不満を述べています。そして、12月中旬には、ゴーギャンはテオに「いろいろ考えた挙句、私はパリに戻らざるを得ない。ヴァンサンと私は性分の不一致のため、寄り添って平穏に暮らしていくことは絶対できない。彼も私も制作のための平穏が必要です。」と書き送っています。フィンセントもテオに「ゴーギャンはこのアルルの仕事場の黄色の家に、とりわけこの僕に嫌気がさしたのだと思う。」と書いています。12月中旬、2人は汽車でアルルから西へ70 kmのモンペリエに行き、ファーブル美術館を訪れています。フィンセントは特にドラクロワの作品に惹かれ、帰ってから2人はドラクロワやレンブラントについて熱い議論を交わしまいた。モンペリエから帰った直後の12月20日頃、ゴーギャンはパリ行きをとりやめたことをテオに伝えています。

ドラクロワ「墓場の少女」(1824年、ルーヴル美術館所蔵)

同年12月23日、フィンセントが自らの左耳を切り落とす事件が起こりました。12月30日の地元紙は、次のように報じています。

先週の日曜日、夜の11時半、オランダ出身のヴァンサン・ヴォーゴーグと称する画家が娼館1号に現れ、ラシェルという女を呼んで、「この品を大事に取っておいてくれ」と言って自分の耳を渡した。そして姿を消した。この行為――哀れな精神異常者の行為でしかあり得ない――の通報を受けた警察は翌朝この人物の家に行き、ほとんど生きている気配もなくベッドに横たわっている彼を発見した。この不幸な男は直ちに病院に収容された。

 『ル・フォロム・レピュブリカン』1888年12月30日

ゴーギャンと会ったベルナールは、彼から伝え聞いた話として、1889年1月1日消印の友人オーリエ宛の手紙で次のように書いています。

「アルルを去る前の晩、私の後をヴァンサンが追いかけてきた。私は振り向いた。時々彼が変な振舞いをするので警戒したのだ。すると彼は言った。『あなたは無口になった。僕も静かにするよ。』。私はホテルへ寝に行き、帰宅した時、家の前にはアルル中の人が押しかけていた。その時警官たちが私を逮捕した。家の中が血まみれになっていたからだ。事の次第はこうだ――私が立ち去った後、彼は家に戻り、剃刀で耳を切り落とした。それから大きなベレー帽をかぶって、娼家へ行き、遊女の一人に耳を渡して言った。『真心から君に言うが、君は僕を忘れないでくれるね。』」

ゴーギャンによる、ひまわりを描くフィンセントの肖像(1888年11月)


アルル市立病院

フィンセントは、アルル市立病院に収容されます。婚約を決めたばかりだったテオは、12月24日夜の列車でアルルに急行し、翌日兄を病院に見舞うとすぐにパリに戻っています。ゴーギャンも、テオと同じ夜行列車でパリに戻りました。アルル市立病院での担当医は、当時23歳で、まだ医師資格を得ていない研修医のフェリックス・レーでした。レー医師は、出血を止め、傷口を消毒し、感染症を防止できる絹油布の包帯を巻くという比較的新しい治療法をフィンセントに対して行っています。郵便夫ジョゼフ・ルーランや、病院の近くに住むプロテスタント牧師ルイ・フレデリック・サルがフィンセントを見舞い、テオにフィンセントの病状を伝えています。12月27日にオーギュスティーヌ・ルーランが面会に訪れた後、フィンセントは再び発作を起こし、病院の監禁室に隔離されます。しかし、その後容態は改善に向かい、フィンセントは1889年1月2日(35歳)、テオ宛に「あと数日病院にいれば、落ち着いた状態で家に戻れるだろう。何よりも心配しないでほしい。ゴーギャンのことだが、僕は彼を怖がらせてしまったのだろうか。なぜ彼は消息を知らせてこないのか。」と書いています。1月4日の「黄色い家」への一時帰宅許可を経て、1月7日退院許可が下り、フィンセントは「黄色い家」に戻りました。

アルル市立病院の中庭

退院したフィンセントは、レー医師の肖像や、耳に包帯をした2点の自画像を描き、また事件で中断していた『ルーラン夫人ゆりかごを揺らす女』も完成させました。

『レー医師の肖像』1889年1月
『包帯をしてパイプをくわえた自画像』1889年1月、アルル
『ルーラン夫人ゆりかごを揺らす女』1889年1月

1月20日、ジョゼフ・ルーランが、転勤でアルルを離れなければならなくなり、フィンセントは友人を失ってしまいます。この頃、フィンセントは、テオに、耐えられない幻覚はなくなり、悪夢程度に鎮まってきたと書いています。しかし、2月に入り、自分は毒を盛られている、至る所に囚人や毒を盛られた人が目につく、などと訴え、2月7日、近所の人が警察に対応を求めたことから、フィンセントは、再び病院の監禁室に収容されてしまいます。2月17日に仮退院したが、2月25日、住民30名から市長に以下のような嘆願書が提出されました。

「オランダ人風景画家が精神能力に狂いをきたし、過度の飲酒で異常な興奮状態になり、住民、ことに婦女子に恐怖を与えている」このため、家族が引き取るか精神病院に収容するよう求める

2月26日、警察署長の判断でフィンセントは再び病院に収容されてしまいます。警察署長は、関係者から事情聴取の上、3月6日、専門の保護施設に監禁相当との意見を市長に提出しています。フィンセントは、3月23日までの約1か月間は単独病室に閉じ込められ、絵を描くことも禁じられました。「厳重に鍵をかけたこの監禁室に長い間、監視人とともに閉じ込められている。4月18日の結婚式を前に新居の準備に忙しいテオからもほとんど便りはなく、フィンセントは結婚するテオに見捨てられるとの孤独感に苦しみました。そんな中、3月23日、画家ポール・シニャックが、アルルのフィンセントのもとを訪れてくれ、レー医師を含め3人で「黄色い家」に立ち入りました。不在の間にローヌ川の洪水による湿気で多くの作品が損傷していました。しかし、シニャックは、このときパリ時代に見ていたフィンセントの絵とは異なる、成熟した画風の作品に驚いています。フィンセントも、友人の画家に会ったことに刺激を受け、絵画制作を再開します。外出も認められるようになりました。病院にいつまでも入院していることはできず、「黄色い家」に戻ることもできなくなったため、ファン・ゴッホは、居場所を見つける必要に迫られました。そしてサン=レミの療養所に移ります。

サン=レミの療養所

サン=レミの療養所の病室。フィンセントは、36歳から37歳まで1年間、療養生活をここで送りました。

同年(1889年)5月8日(36歳)、フィンセントは、アルルから20 km余り北東にあるサン=レミのサン=ポール=ド=モーゾール修道院療養所に入所しました。病院長テオフィル・ペロンは、その翌日、「これまでの経過全体の帰結として、ヴァン・ゴーグ氏は相当長い間隔を置いたてんかん発作を起こしやすい、と私は推定する。」と記録しています。

フィンセントは、療養所の一室を画室として使う許可を得て、療養所の庭でイチハツの群生やアイリスを描きます。

イチハツ(一初、一八、鳶尾草[1]、学名:Iris tectorum )はアヤメ科アヤメ属の多年草
Qwert1234 - Qwert1234's file, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=19644431による
「アイリス」(1889年)
画像引用:artpedia

また、病室の鉄格子の窓の下の麦畑や、アルピーユ山脈の山裾の斜面なども描いています。6月に入ると、病室の外に出てオリーブ畑や糸杉を描くようになりました。

『二本の糸杉』1889年6月、サン=レミ。
『オリーブ畑』1889年6月、サン=レミ。

同じ6月、アルピーユの山並みの上に輝く星々と三日月に、S字状にうねる雲を描いた『星月夜』を描きます。

『星月夜』1889年6月、サン=レミ

フィンセントは、『オリーブ畑』、『星月夜』、『キヅタ』などの作品について、「実物そっくりに見せかける正確さでなく、もっと自由な自発的デッサンによって田舎の自然の純粋な姿を表出しようとする仕事だ。」と手紙で述べています。一方、テオは、兄の近作について「これまでなかったような色彩の迫力があるが、どうも行き過ぎている。むりやり形をねじ曲げて象徴的なものを追求することに没頭したりすると、頭を酷使して、めまいを引き起こす危険がある。」と心配を伝えています。フィンセントの病状は改善しつつありましたが、アルルへ作品を取りに行き、戻って間もなく再び発作が起きます。9月はじめに意識が明瞭になり、自画像、『麦刈る男』、看護主任トラビュックの胸像、ドラクロワの『ピエタ』の石版複製を手がかりにした油彩画などを描きました。

『麦刈る男』1889年9月、サン=レミ

ミレーの『野良仕事』の連作を模写した。ファン・ゴッホは、模写の仕事を、音楽家がベートーヴェンを解釈するのになぞらえています。

『プラタナス並木通りの道路工事』1889年12月、サン=レミ

1889年(36歳)のクリスマスの頃、再び発作が起きますが、1週間程度で収まりまいた。1890年1月下旬、アルルへ旅行して戻ってきた直後にも、発作に襲われます。1月31日にテオとヨーの間に息子(フィンセント・ヴィレムと名付けられた)が生まれたのを祝って2月に『花咲くアーモンドの木の枝』を描いて贈ったり、ゴーギャンが共同生活時代に残したスケッチをもとにジヌー夫人の絵を描いたりして創作を続けますが、2月下旬にその絵をジヌー夫人自身に届けようとアルルに出かけた時、再び発作で意識不明となります。

『花咲くアーモンドの木の枝』1890年2月、サン=レミ

4月、ペロン院長はテオに、フィンセントが「ある時は自分の感じていることを説明するが、何時間かすると状態が変わって意気消沈し、疑わしげな様子になって何も答えなくなる。」と、完全な回復が遅れている様子を伝えています。またペロン院長による退院時(5月)の記録には、「発作の間、患者は恐ろしい恐怖感にさいなまれ、絵具を飲み込もうとしたり、看護人がランプに注入中の灯油を飲もうとしたりなど、数回にわたって服毒を試みた。発作のない期間は、患者は全く静穏かつ意識清明であり、熱心に画業に没頭していた。」と記載されています。一方、フィンセントの絵画は少しずつ評価されるようになっていました。同年1月、評論家のアルベール・オーリエが『メルキュール・ド・フランス』誌1月号にフィンセントを高く評価する評論を載せ、ブリュッセルで開かれた20人展ではゴッホフィンセントの『ひまわり』、『果樹園』など6点が出品されて好評を得ています。2月、この展覧会でフィンセントの『赤い葡萄畑』が初めて400フランで、画家のアンナ・ボックに売れます。3月には、パリで開かれたアンデパンダン展に『渓谷』など10点がテオにより出品され、ゴーギャンやモネなど多くの画家から高い評価を受けているとテオが兄に書き送っています。

「赤い葡萄畑」(1888年)

体調が回復した5月、フィンセントは、ピサロと親しい医師ポール・ガシェを頼って、パリ近郊のオーヴェル=シュル=オワーズに転地することにします。最後に『糸杉と星の見える道』を描いてから、5月16日サン=レミの療養所を退所しました。

『糸杉と星の見える道』1890年5月(37歳)、サン=レミ

翌朝パリに着き、数日間テオの家で過ごしますが、パリの騒音と気疲れを嫌って早々にオーヴェルに向かっています。

オーヴェル=シュル=オワーズの位置

同年(1890年)5月20日(37歳)、フィンセントはオーヴェル=シュル=オワーズの農村に着き、ポール・ガシェ医師を訪れます。ガシェ医師について、フィンセントは「非常に神経質で、とても変わった人」だが、「体格の面でも、精神的な面でも、僕にとても似ているので、まるで新しい兄弟みたいな感じがして、まさに友人を見出した思いだ」と妹のヴィルに手紙に書いています。フィンセントは村役場広場のラヴー旅館に滞在します。

ファン・ゴッホがオーヴェルで宿泊したラヴー旅館の部屋

フィンセントはガシェ医師の家を訪れて絵画や文学の話をしつつ、その庭、家族、ガシェの肖像などを描きました。6月初めには、さらに『オーヴェルの教会』を描いています。

『オーヴェルの教会』1890年6月、オーヴェル

テオには、都会ではヨーの乳の出も悪く子供の健康に良くないからと、家族で田舎に来るよう訴え、オーヴェルの素晴らしさを強調する手紙をしきりに送っています。最初は、日曜日にでもと言っていたが、1か月の休養が必要だろうと言い出し、さらには何年も一緒に生活したいと、その要望は膨らんでいきました。そして6月8日の日曜日、パリからテオと妻のヨーが息子を連れてオーヴェルを訪れ、フィンセントとガシェの一家と昼食をとったり散歩をしたりしました。フィンセントは2日後「日曜日はとても楽しい思い出を残してくれた。……また近いうちに戻ってこなくてはいけない。」と書いています。

この頃、テオは、勤務先の商会の経営者ブッソ、ヴァラドンと意見が対立しており、ヨーの兄アンドリース・ボンゲル(ドリース)とともに共同で自営の画商を営む決意をするか迷っていました。またヨーと息子が体調を崩し、それについても悩んでおり、6月30日、フィンセント宛に悩みを吐露した長い手紙を書いています。7月6日、フィンセントはパリを訪れます。ヨーによれば、アルベール・オーリエや、トゥールーズ=ロートレックなど多くの友人が彼を訪ねてきますが、フィンセントは疲れてオーヴェルへ帰っていきます。フィンセントは、7月10日頃、オーヴェルからテオとヨー宛に「これは僕たちみんなが日々のパンを危ぶむ感じを抱いている時だけに些細なことではない。……こちらへ戻ってきてから、僕もなお悲しい思いに打ちしおれ、君たちを脅かしている嵐が自分の上にも重くのしかかっているのを感じ続けていた。」と書き送っています。

『カラスのいる麦畑』1890年7月、オーヴェル

フィンセントはその後にもテオの「激しい家庭のもめごと」を心配する手紙を送ったようであり、7月22日、テオはフィンセント宛てにドリースとの議論はあったものの、激しい家庭のもめごとなど存在しないという手紙を送り、これに対し、フィンセントは最後の手紙となる7月23日の手紙で「君の家庭の平和状態については、平和が保たれる可能性も、それを脅かす嵐の可能性も僕には同じように納得できる。」などと書いています。

フィンセントの死(1890年7月)

ファン・ゴッホの死を報ずる新聞記事(1890年8月7日)

7月27日の日曜日の夕方、オーヴェルのラヴー旅館に、怪我をしたフィンセントが帰り着きます。旅館の主人に呼ばれて彼の容態を見たガシェは、同地に滞在中だった医師マズリとともに傷を検討しました。傷は銃創であり、左乳首の下、3、4 cmの辺で紫がかったのと青みがかったのと二重の暈(かさ)に囲まれた暗い赤の傷穴から弾が体内に入り、既に外への出血はありませんでした。両医師は、弾丸が心臓をそれて左の下肋部に達しており、移送も外科手術も無理と考え、絶対安静で見守ることとしました。ガシェは、この日のうちにテオ宛に「本日、日曜日、夜の9時、使いの者が見えて、令兄フィンセントがすぐ来てほしいとのこと。彼のもとに着き、見るとひどく悪い状態でした。彼は自分で傷を負ったのです。」という手紙を書いています。翌28日の朝、パリで手紙を受け取ったテオは兄のもとに急行します。テオが着いた時点ではフィンセントはまだ意識があり、話すことが出来たものの、29日午前1時半に死亡しました。7月30日、葬儀が行われ、テオのほかガシェ、ベルナール、その仲間シャルル・ラヴァルや、ジュリアン・フランソワ・タンギーなど、12名ほどが参列しました。

テオは8月1日、パリに戻ってから妻ヨー宛の手紙に「オーヴェルに着いた時、幸い彼は生きていて、事切れるまで私は彼のそばを離れなかった。……兄と最期に交わした言葉の一つは、『このまま死んでゆけたらいいのだが』だった。」と書いています。

オは、同年(1890年)8月、兄の回顧展を実現しようと画商ポール・デュラン=リュエルに協力を求めますが、断られたため画廊での展示会は実現せず、9月22日から24日までテオの自宅アパルトマンでの展示を開催しました。9月12日頃、テオはめまいがするなどと体調不良を訴え、同月のある日、突然麻痺の発作に襲われて入院しました。10月14日、精神病院に移り、そこでは梅毒の最終段階、麻痺性痴呆と診断されています。11月18日、ユトレヒト近郊の診療所に移送され療養を続けますが、1891年1月25日、兄の後を追うように亡くなり、ユトレヒトの市営墓地に埋葬されました。フィンセントの当初の墓地は15年契約であったため、1905年6月13日、ヨー、ガシェらによって、同じオーヴェルの今の場所に改葬されました。

オーヴェルにあるフィンセントとテオの墓


まとめ

フィンセントが生涯のあいだに描いた絵画の総数は848点。アルルに住み始めてからの絵がとても明るくなり、魅了する力を持ち始めますが、その後、急速に筆致葉に似ているのおどろおどろしい気配を持つ絵になっていきます。フィンセントの作品がゴッホらしさを持つのは1887年から1890年のわずか3年です。34歳から37歳までを駆け上るようにして描き尽くしたように見えます。鮮やかな色使い、明瞭な輪郭、テオも心配し始めたネジ曲がった表現、そして死んでしまう1990年の作品になると詩を予言するかのよな立ち込める暗さが絵に通底しはじます。また弟テオの死も衝撃的です。献身的にフィンセントを支え続けながらも、第三者からみるとテオは正気の世界にいる「こちら側」のような存在でした。それが、フィンセントの死後、追うようにして死去してしまいます。こういった物語性などもフィンセントの後世における存在感を強めているのではないでしょうか。


参照

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※2

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B9

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