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《週末アート》 『岸辺露伴は動かない』にも出てくるニコラ・ド・スタールという画家

《週末アート》マガジン

いつもはデザインについて書いていますが、週末はアートの話。


『岸辺露伴は動かない』(漫画・ドラマ)

『ジョジョの奇妙な冒険』のスピンオフ『『岸辺露伴は動かない』はNHKでドラマ化され、2023年5月に映画化もされるということで注目を浴びています。

ドラマでも漫画でも漫画家、岸辺露伴がド・スタールという画家の画集について触れるシーンがあります。そこではド・スタールについてこのように語られています。

「55年没「ド・スタール」が描く絵は…
 抽象画でありながら、同時に風景画でもあってそのギリギリのせめぎ合いをテーマに描いている
こんな簡単な絵なのに光と奥行きと哀愁があって泣けるんだ」

漫画『岸辺露伴は動かない』より

今回は、このド・スタールがどんな画家なのかについて触れていきます。

ニコラ・ド・スタール

ニコラ・ド・スタール
sourcre: artshortlist.com

ニコラ・ド・スタールは、(Nicolas de Staël)は、ロシア生まれの画家です。1914年生まれ、1955年没。享年41歳。

ニコラ・ド・スタールは、ロシア出身のフランスの画家で、インパストという技法(impasto:絵画の技法の一つで、絵の具を厚く塗る)を使い、抽象度の高い風景画で知られています。コラージュ、イラストレーション、テキスタイルの分野でも活躍しました。

生い立ち

1914年 ニコラ・ド・スタールは、サンクト・ペテルブルクのロシア中将、ウラジミール・シュタール・フォン=ホルシュタイン男爵の家に生まれる。ド・スタール一家は、1919年、ロシア革命のためポーランドへの移住。父も継母もポーランドで死亡。孤児となったニコラ・ド・スタールは姉マリナと共にブリュッセルに送られ、ロシア人家庭で暮らすことになる。

キャリアの始まり

1932年(18歳) ベルギー、ブリュッセルのアカデミー・ロワイヤル・デ・ボザール(Académie Royale des Beaux-Arts)で装飾とデザインを、サンジル・アカデミー(the Académie de St Gilles)で建築を学ぶ。

1930年代にはヨーロッパ各地を旅行し、パリ(1934年/20歳)、モロッコ(1936年/22歳)(ここで初めて、同じく画家で1941年から1942年にかけて彼の絵の一部に登場することになる伴侶、ジャンヌ・ギユと出会う)、アルジェリアで暮らした。

1936年(22歳) ブリュッセルのGalerie Dietrich et Cieでビザンチン様式のイコンと水彩画の最初の展覧会を開く。

1939年(25歳) フランス外人部隊に入り、1941年(27歳)に復員。1940年のある時期に、後にディーラーとなるジャンヌ・ビュッヒャーと出会う。

第二次世界大戦中

1941年(27歳) フランス、ニースに移り住み、ジャン・アルプ、ソニア・ドローネ、ロベール・ドローネと出会い、これらの画家たちから最初の抽象画、「コンポジション」のインスピレーションを受ける。

1942年(28歳) ジーニーヌとニコラ・ド・スタールの間に娘のアンヌが誕生。

1943年(29歳)(フランスのナチス占領下) ド・スタールはジーヌとともにパリに戻るが、戦時中は非常に困難な状況にあった。戦争中、彼の絵はいくつかのグループ展に出品され、1944年(30歳)には、Galerie l'Esquisseで最初の個展を開催した。1945年4月(31歳)には、ギャルリー・ジャンヌ・ビュシェで個展を開き、5月には第1回サロン・ド・メ(Salon d'Automne)に出品。

1944年(30歳) パリでジョルジュ・ブラックと出会い親しくなり、1945年(31歳)には展覧会によって決定的な名声を得る。しかし、時代は厳しく、成功は遅すぎた。1946年2月(32歳)、栄養失調による病気でジーヌが亡くなる。

ニコラ・ド・スタールの成功


1946年(32歳) フランソワーズ・シャプトンとの出会いがあり、5月に結婚。1946年10月、1944年に出会った画家アンドレ・ランスキーとの親交により、ド・スタールは画商ルイ・カレ(Louis Carré)と契約を結び、ニコラ・ド・スタールが制作したすべての絵画を買い取ることにルイ・カレは同意した。

1947年1月(33歳) ニコラ・ド・スタール一家は、知名度の向上と売り上げの増加により、より大きな部屋に引っ越す。1947年には、隣人のアメリカ人個人美術商セオドア・シェンプ(Theodore Schempp)と親しくなる。パリの新しいアトリエは、ジョルジュ・ブラックのアトリエに近く。1947年4月に、次女ローランスが生まれ、1948年4月(34歳)には長男ジェロームが生まれる。同年パリでドイツの画家ジョニー・フリードレインダー(Johnny Friedlaender)と長い交友を始める。ニコラ・ド・スタールの絵画は、世界中で注目されるようになる。1950年にはパリのジャック・デュブール画廊で個展を開催。シェンプはド・スタールの絵画をニューヨークに紹介し、アッパーイーストサイドのアパートで個展を開催した。彼はフィリップス・コレクションのダンカン・フィリップスを含む重要なコレクターに数点の絵画を売却した。

1950年代初頭には、アメリカやイギリスでも大きな成功を収めた。1950年、レオ・カステリはニューヨークのシドニー・ジャニス・ギャラリーで彼を含むグループ展を組織した。1952年(38歳)にはロンドン、モンテビデオ、パリで個展を開く。この展覧会は、商業的にも批評的にも成功を収めた。1953年(39歳)、ワシントンDCのフィリップス・ギャラリー(現在のワシントンDCのフィリップス・コレクション)で展覧会を開く。1953年にアメリカを訪れたド・スタールとフランソワーズは、MoMA、ペンシルベニア州メリオンのバーンズ財団、その他様々な重要な施設を訪問した。

パリに戻ったニコラ・ド・スタールは、ニューヨークを訪れた美術商ポール・ローゼンバーグ(Paul Rosenberg)と出会い、独占契約を持ちかけられる。ローゼンバーグがフランス人であったことと、ニューヨークの重要な画商であり、ニコラ・ド・スタールが敬愛するキュビズムの画家を多く紹介していたこともあり、ド・スタールはポール・ローゼンバーグと契約する

1953年末になると、ド・スタールの絵の需要が高まり、ローゼンバーグは値段を上げ、さらに絵を要求し続けた。1954年春(40歳)に予定されていた展覧会では、ローゼンバーグは15点の追加を要求した。この展覧会は、商業的にも批評的にも大成功を収めた。1954年4月、ド・スタールの第4子ギュスターヴが誕生した。この春、ド・スタールはパリのジャック・デュブール画廊で個展を開き、成功を収めた。抽象画から離れ、具象画、静物画、風景画に回帰した。

美術商ポール・ローゼンバーグ(Paul Rosenberg)
By MoMA, Fair use, https://en.wikipedia.org/w/index.php?curid=41649330

1954年秋、家族とともにアンティーブへ移住。

ニコラ・ド・スタールの死

1953年(39歳)になると、疲労困憊し、不眠症やうつ病に悩まされたため、ニコラ・ド・スタールは南仏(最終的にはアンティーブ)に隔離されるようになった。1955年3月16日(41歳)、批評家ダグラス・クーパーとの出会いに失望した彼は自殺した。アンティーブの11階にあるアトリエのテラスから飛び降り自殺した。

フランス、アンティーブ
Gilbert Bochenek - 投稿者自身による著作物, CC 表示 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2680992による

アンティーブ(Antibes)の場所

ニコラ・ド・スタールの作品

ニコラ・ド・スタール、パルク・デ・プランス(Les grands footballeurs)、1952年。2000万ユーロ(2200万ドル)で落札。提供:Christie's Images Ltd.
source: artsy.net
Les Musiciens, Souvenir de Sidney Bechet (1952-1953)
source: centrepompidou.fr
「Paysage Landscape(田舎風景)」(1953年/39歳)
Pedro Ribeiro Simões from Lisboa, Portugal - Paysage/Landscape (1953) - Nicolas de Stael (1914 - 1955), CC 表示 2.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=95138355による


「Krajina, Antibes(アンティーブ風景)」(1955年/41歳)
Tereza-ck - 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=100271614による

まとめ

ニコラ・ド・スタールの経歴や作品をざっと知った上で岸辺露伴のセリフを読み返してみましょう。

「55年没「ド・スタール」が描く絵は… 抽象画でありながら、同時に風景画でもあってそのギリギリのせめぎ合いをテーマに描いているこんな簡単な絵なのに光と奥行きと哀愁があって泣けるんだ」

漫画『岸辺露伴は動かない』より

ここにある「哀愁」は、ニコラ・ド・スタールの作品そのものから感じたものかもしれませんが、短すぎる彼の生涯に対して観るものが感じる哀愁、悲しみ、切なさも含まれているように思えます。

ニコラ・ド・スタールの絵は、ピート・モンドリアンやブラックに比べて、「とっつきやすさ」があります。色の明るさと「それが何かなんとなくわかる」度合いが高いことがこの「とっつきやすさ」を形成しているのでしょう。それゆえに、単純なのに複雑な感情が喚起されから不思議です。

ニコラ・ド・スタールの作品をみていると前回のヴァロットンの回で触れた「ナビ派」創設のエピソードを思い出します。ナビ派の誕生のきっかけは、1888年にパリのアカデミー・ジュリアンの学生監を務めていた画家ポール・セリュジエ(Paul Sérusier)が、ブルターニュを訪れたとき、ポール・ゴーギャンからこのような指導を受けたことでした。

「あの樹はいったい何色に見えるかね。多少赤みがかって見える? よろしい、それなら画面には真赤な色を置きたまえ……。それからその影は? どちらかと言えば青みがかっているね。それでは君のパレットの中の最も美しい青を画面に置きたまえ……。」

ポール・セリュジエ 「川岸の少年たち」 油彩・キャンバス ビクトリア国立美術館蔵(1906年)
By Paul Sérusier - The Bridgeman Art Library, Object 123362, Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=119862

見えているものを単純にするというのは、技術を要するものであり、抽象という力を必要とします。そう思うとド・スタールの絵の奥行きの深さを一層感じます。画集ほしいんですけど、ニコラ・ド・スタールの作品集は、ちょっと高い。



余談1『岸辺露伴は動かない』の英語タイトル

英語版『岸辺露伴は動かない』の表紙
画像引用:アマゾン

日本語版にもところどころ出てくる『岸辺露伴は動かない』の英語タイトル、“Thus Spoke Rohan Kishibe”。これ「動かない」じゃなさそうな英語ですが、Thusは文語的な英語で、Thus Spokeといえば、『Thus Spoke Zarathustra』が有名なタイトルで日本語では『ツァラトゥストラはかく語りき』と翻訳されています。ドイツの(私見ですが不健全な)哲学者、フロードリッヒ・ニーチェの著書タイトルです。

そこからの借用だと思われるので、英語でのタイトルの意味としては

『幸田露伴はかく語りき』

となるでしょう。ちなみに『ツァラトゥストラはかく語りき』は、どのような内容かというとゾロアスター教の開祖であるツァラトゥストラ(「ザラスシュトラ」のドイツ語読み)が自分の思想の語り続ける体裁で、ニーチェによる「神の死、超人、永劫回帰」の思想を論じたもの。あまり売れなかったようです。


余談2 岸辺露伴の名前は「幸田露伴」から

幸田露伴 / Japanese writer/essayist Rohan Kōda (1867–1947)
不明 - http://www.kirinholdings.co.jp/company/history/person/beer/28.html, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=48395244による

幸田 露伴(こうだ ろはん)(1867- 1947年)は、日本の小説家。江戸(現東京都)下谷(台東区)生れ。『風流仏』で評価され『五重塔』『運命』などの文語体作品で文壇での地位を確立。尾崎紅葉(おざき こうよう)とともに紅露時代と呼ばれる時代を築きました。「露伴、漱石、鷗外」と並び称され、日本の近代文学を代表する作家の一人。岸辺露伴の名前は、この幸田露伴から借用したと思います。



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参照

※1

https://en.wikipedia.org/wiki/Queen_Anne_style_architecture

※2


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