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創作意欲

不意に一人の時間が訪れると、何かを作りたくなってくる。

それはなんでもいい。ニットの帽子でも歌でも小説でも。

数ヶ月ぶりに製作を再開しようと思ったかぎ針編みのポーチは、途中のミスが発覚してすっかりやる気を失ってしまった。なぜもっと早く気づかなかったのか。過去の自分に問うてみても何も生まれない。困った。

編み物は良い。
人によってちまちまとした作業が苦手という人には勧めないが、同じ作業をひたすら繰り返したり、指示書の通りに作るのが好きな人には、出来上がった時の快感や作業中の黙々とした空気感がなんとも言えない。

高校時代、学校で編み物をしていたら一味違う人間に見られるかと思って始めたのがきっかけである。明るくてよく喋る親友に比べて、私は地味で目立たない存在だった。一緒に登校していることを、周りから不思議に思われるくらいの身分の差である。毎朝一番のりで登校する私たちは、朝のホームルームまでの時間、一緒に勉強したり、朝食を食べたりして過ごしていた。冬が近づくと、その時間に私は決まってマフラーを編んでいた。自分の物。父の物。祖母の物。元々学校は苦手で、毎日親友と待ち合わせをしないといけないという義務感があったから登校できていた私にとって、編み物は一種の精神統一の手段でもあった。親友は、日に日にのびるマフラーの長さに、感心はするが、特に興味を示すことはなかった。編み物をしていることで、誰か興味を示してくれるかと思ったが、残念ながらそんな人も現れなかった。何かを作るというのは、そういうものなのだろうか。出来上がったモノは、しっかり自分の中で満足感が残り、一つのモノとして用途が生まれて残ることになる。所詮自己満足なのだが、何かを作りたいと思う人はこういうことが好きなのだろうなと思う。


去年、初めて自分で曲を作ることができた。

シンガーソングライターと呼ばれる人々は、年がら年中コンスタントに曲を作って披露して、評価をされているのだから、本当にすごいと思う。曲を作るには、詞がありメロディーが要る。メロディーを作るためには、何かしらの楽器で、コード進行やら曲の構成、流れを考えなければいけいないし、詞を書くにも一筋縄ではいかず、それなりの文才やワードチョイスが求められる。曲が完成したとしても、音源化するとなればバンド編成や音源編集が必要で、とてつもない労力と時間がかかるものなのだ。(私は音源化までしたことはないのだけれど)

そして、音楽において残酷なのは、価値をつけられるということである。曲を披露するとなれば、誰かに聴いてもらうことになる。自分の中だけで楽しんでいる人もいると思うが、ある程度自信がついた段階でYouTubeに投稿したり、音楽をしていることが周囲に知られている場合、何かしらの場で披露することになったりする。そして、人前で披露した時の、客の反応や言葉かけに一喜一憂する。良い反応だった時には、”うれしい””もっと評価してもらいたい”と思い、いまいちな反応や自己評価が悪い時には、周りの人から「よかったよ」と言ってもらえても、”もっとできたはず””まだまだだな”とモヤモヤが続き、「もっと評価されて満足できる音楽を作りたい願望」に苛まれるのである。永遠に満足できないループの到来。最終的には音楽自体が楽しくなくなってきて、一旦休止することになる。有名なアーティストはそんな次元ではなくて、仕事として音楽を作る苦しさがあるのだろうけれど。なんにせよ、楽しく長く続けることはなかなか難しいし、かといってスパッとやめられるほど執着心や情がないわけでもないので、うまい具合に自分の才能に落とし所をつけて考えるしかないのである。編み物みたいに、目に見えるモノになったらまだ気が楽なのだけれど。。

音楽もしかり、小説やコラムなんかもそうだが、一つのモノを完成させるまでの忍耐力や意欲がないと出来上がらない。書き始めたはいいものの、終わりが見えない時はどうすりゃいいのかわからず、家事をしてみたり、コーヒーを飲んでみたりする。キリの悪いところで明日に回してしまった日にゃ、もう終わりは来ない。

何かを作り上げるというのは、なんでも苦しさが付き纏うものなのだろう。それでも何かを作りたいと思ってしまう。

たぶん、そういう感覚がどうしても好きなんだろうな。困った。


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