彼女との日常


 ピピピピっピピピピっ、びっ

暖かい布団の中から寒い外界へと手を伸ばし、7時30分を指す置き時計のうるさい音を止めた。カーテンは開けられていて、暖かい陽が差している。軽く伸びをし、パジャマを脱ぎ、ジーンズにシャツ、その上にパーカーを羽織る。
そうして、自室を出る。
「あっ、おはよう」
彼女は僕に気付くと少し微笑んだ。振り向くときに後ろで結んだ髪が小さく揺れた。まるで映画のワンシーンみたいだ。
「おはよう、もう起きてたんだ。すごいね」
「朝ごはん一緒に食べよ、ほら、顔洗ってきて」
僕は頷くと洗面台で顔を洗う。冷たい水が顔に触れて、半分寝かけていた意識が段々覚めていく。鏡を見て、軽く髪を整える。
「よしっ」
誰に言うでもなくそう言って戻る。
「おはようございます」
「あ、ああ、おはよう、管理ちゃん」
「私はあちらで充電しておりますので用があったら遠慮なくお申し付けください」
「ああ、うん」
管理ちゃんは一昨年あたりかは住み込みで働いているホームAIだ。先刻のように定型文ばかり言う奴でもある。
 彼女は既に朝食が並べられたテーブルの席に着いて、スマホを見ている。多分、日課のニュースを読んでいるんだろう。
「お待たせ」
僕がそういうと彼女は顔を上げた。相変わらずの可愛さだなと思いながら隣に座る。
「それじゃ、食べよっか」
「うん、そうだね」
2人で手を合わせて食事に手を付ける。
チラリと隣をみると長いまつげの上を光がコロコロと滑っていく。
「今日はどうする?」
「うーん、そうだな、そろそろ紅葉が綺麗だろうし、散歩しながら決めない?」
彼女の顔がパァッと明るくなる。
「あぁ!そっかもうそんな季節だもんね。じゃあ食べ終わって少ししたら行こっか」
「うん」
喜ぶ横顔を見ながら僕はコーヒーを飲んだ。
食べ終わり、一緒に皿を流しに片付けた後、一応財布と携帯を持っていこうということで自室に一旦戻った。
 自室を出ると管理ちゃんとすれ違った。充電が終わったのだろう。
「あ、管理ちゃん」
「はい、なんでしょうか」
「ちょっと散歩してくるよ。お留守番お願い」
「了解致しました。いってらっしゃいませ」
「それじゃいってくる」
綺麗に掃除された玄関に放り出されたスニーカーを履き、ドアを開け、「カッチャン」と鍵を閉める。
 彼女は階段の近くで待っていた。
「お待たせ」
「ふふっ、待ってたよ」
「あれ?そんなコート持ってたっけ」
「あぁ、これね、最近買ったんだよー」
彼女は少し嬉しそうにコートの袖をいじった。
「そっかそっか、似合ってるよ」
そんな会話をしながらマンションの階段を降りていく。
街路樹はすっかり紅葉し、近くの公園に行くと見事な紅葉を見ることができた。週末ということもあって、子連れの親子や今日は休みであろう学生や老人などが目に入った。
「綺麗だね」
気分が高揚し、少し早足になっている彼女は僕より少し先を歩いている。コートの裾がひらひらとはためいた。
「あ、そうだ。せっかくだし、写真撮らない?」
僕は携帯を取り出してカメラアプリを起動する。
「あれ?」
スマホの画面越しの視界、彼女がさっきまでいた場所には綺麗な紅葉しかない。
「ほら、そういうのいいから」
「おわっ」
右横から急に彼女の声が聞こえ、少し驚いた。
「せっかくこんなに綺麗なのに、カメラ越しの視界なんて勿体無いよ?」
彼女は悪戯っ子のようにニヤついた。
「…それもそうだね」
僕はそういいながら携帯をポケットに突っ込んだ。
しばらく公園の中を歩いた。ベンチは混んでいるのもあって埋まっていた。けどそんなことはどうでもいいくらい、僕は幸福感に包まれていた。紅葉が綺麗だからじゃない。いや、それもあるんだろうけど隣に彼女がいる。それだけで十分だった。
「お腹空いたね」
彼女は赤くなったもみじの葉を指で挟んでクルクルと回転させた。
「どこかで食べようか」
「でも公園でこの混み方だからなぁ…落ち着いて食べられなさそうだね」
彼女は少し困ったように眉を曲げた。
「そうだねぇ…予約でもしておけばよかったね」
僕は相槌を打ちながら携帯で近くのお店を調べた。どこも「混雑中」を表す赤いアイコンだった。
「それならさ、またお家で食べようよ」
「せっかくの休日なのに?」
僕は携帯の画面から顔をあげた。
「偶にはいいじゃん。そういう休日も」
彼女は私達の休日を邪魔するものはいないと言わんばかりの自信に満ちた笑みを浮かべた。
「そうだね、帰ろっか」
僕はそう言って笑った。
帰る途中も彼女はもみじの葉を持ったままで、子供みたいだと思えば大人びた真剣な顔をして葉を指で挟んで回転させたりと相変わらず僕の感情は忙しかった。


「おかえりなさい。散歩は如何でしたか?」
散歩から戻ると管理ちゃんが机を拭いていた。管理ちゃんは一昨年あたりかは住み込みで働いているホームAIだ。先刻のように定型文ばかり言う奴でもある。
「いや、ごめんね、すっかり片付けさせちゃって。いいんだよ彼女と一緒にするから」
ひょいと彼女の方を振り向くと、そこには誰もいなかった。ホームAIはほんの少しだけ机を拭く手を止め、それから急に話題を変えるように
「それより、お味はどうでしたか?」
と聞く。
「ああ、あれは管理ちゃんが作ってくれたのか。僕はまた、てっきり彼女が作ったのかと思ったよ」
頭が少しぼんやりし、急に疲労を感じて椅子に腰を下ろした。
「彼女はどこかな」
声に出して言いながら、僕は不意にはっきりと思い出す。




僕に彼女なんていないのだ。



僕に彼女がいたことなんて、ない。


「管理ちゃん」
僕はそう呼びかけ、その声が震えていることに自分で驚いた。
「なんでしょうか」
と住み込みのホームAIは丁寧に答える。
「昼ご飯も君が作ってくれないかな」
「分かりました」
管理ちゃんは深く頷き、そして微笑んだ。