信者の存在は作者のためになるのか?
漫画だったり小説だったりゲームだったり、そういった作品の作者にはファンがいる。
ファンといっても作品やその作者に対する熱量は様々だけれども、中には作者のことを心酔していたり、その作者の言うことを全肯定したりする人達もいる。そんな人達のことをまるで神を崇めているかのようだということで信者と呼ぶ。
自分の好きなすばらしい作品を生み出した作者の言うことは正しいことに違いない。尊敬の念からそう考えてしまいがちで、その作者のことを人格者だと思い込んでしまう傾向にあるような気がする。
実際に私も、二十歳前後ぐらいまで――大体Twitterを始めたくらいまではそう思っていた。小説だったり音楽だったり、すばらしいなと思った作品の作者のことは無条件に尊敬していたし、この人の言うことはきっと無条件に正しいのだろうと何の根拠もなく考えていた。たぶん、神格化していたんだと思う。
少し話が逸れるのだけれども、SNSとか自分の考えとかを発信できるツールで一番人格が透けて見えるのはTwitterだと私は個人的に思っている。1ツイート140字以内という少ない文字数で発信できる気軽さから、なんでも即座に発信してしまいがちなので、毎日のようにそれなりにツイートする人に関してはそのツイートからその人の良いところ、悪いところがわりと分析できてしまう。
それで話を戻すのだけれども、私が尊敬していた作者達の中にはそれなりにTwitterに依存している人もそこそこいて、人格が垣間見えたりした。その結果、私が思ったのは、作者は全知全能な神様ではなく、所詮は自分と同じ人間だということだった。
自分と同じ人間だから、正しいとは思えないツイートをしたり、賛同しかねることを言うんだなと。あと、だからこそ良いところもあれば悪いところもあったり、人によっては人格者とはほど遠い、どちらかと言えばクズだったりすることもあるのだなという実感を得ていた。
けれども信者化している人達はそれでも作者のことを無条件で全肯定する。もしかしたら本当はおかしいなと思うこともあるのかもしれないけれど、面倒くさいしわざわざ気を損ねさせるのもなという考えもあるのかもしれないから結果的に全肯定している可能性もある。ただ、その辺りの意図はさておき、結果的に作者を全肯定していて、さらに人によっては崇めている。
そして自分の考えを全て肯定されて崇められた作者は自分のことを絶対神が如く自信を持つ。あと、何を言っても何をしても信者は肯定してくれるし、信者によっては多目的トイレで多目的な行為をするのも全然厭わないくらい望めばなんでもしてくれるから、自分は何をしても良い存在だと勘違いする。(何でもしてくれる信者というのは、クリエイターよりもどちらかと言うとYouTuberだとか芸能人だとかに発生しがちな気はするが)
良い考えだとか良いことに関してはもちろん肯定されて然るべきだし、その作者の作品がすばらしいものであればそれももちろん積極的に褒められるべきだと思う。
でも、良くない考えだとか良くないことに関しては作者のためにも、たとえ作者の気を害することになってしまったり、嫌われる原因になったりしても肯定するべきではないと私は思う。それらを肯定する信者達は作者にとっては気持ちの良い存在かもしれないけれども。
無条件の肯定というのは、自分の考えだとか作品の是非を考える機会を奪う。肯定すなわち是と捉えるからだ。だから、仮に非に当たることでも、信者が是と言えば作者も是だと思い込んでしまう。そして自分のことを顧みなくなる。すると、もし仮に悪い方向に進んでいる場合、「この作者、ヤバいな」ってライト層は感じて何も言わずに離れていくみたいな事態が起こる。
だから、信者の全肯定っていうのは無責任なんじゃないかと私は思う。まあ、実際に信者が責任を持つ必要性は全くないし、作者がどうなろうが信者はノーダメージだ。あえて痛手があるとすれば、場合によってはその作者の新作に触れることができなくなるだけだ。
話がまた少し逸れるのだけれども、Twitter上とかだとよく学校には無理して行かなくていいだとか仕事をやめてもいい、逃げても良いってことをつぶやく人がいて、それが賞賛されるってところがある。
それに対して
「それってその人が実際にどうしようがツイート主や賛同している人達は何の責任も被らないから安易にそう言えるだけ」
みたいな趣旨のことをつぶやいている人がいて、確かなと思ったことがある。
もちろん、生命の危機に脅かされている場合は学校からも仕事からも全力で逃げ出すべきだけど、それ以外の場合は余程優秀な人以外はほぼほぼ今後の人生において不利になる。
学校から逃げ出すっていうのは上手に対人関係を築く等の機会損失にもなるし、学力にも影響が出てくる。仕事に関しても、優秀な人は別だけれども、転職すれば転職する前よりも年収が下がったり等労働条件が悪化することもままある。あと、逃げ出す要因の度合いによっては逃げ癖がつく危険性もある。
そんなデメリットなどまるでないかのように言えるのは、所詮、そう主張している人達は何の責任も負わないし、またその義務もないからだ。
もう一つ別の話をしよう。昔、私が好きだった人で、こちらが褒めてもその人自身がそこは自分としては別に褒めてもらう基準を満たしていない考えている場合、すごく微妙そうな顔で疑いの眼差しを向けてくる人がいて、心から褒めてるのに! って思ったことがある。でも自分も逆だったら同様のリアクションを取るなとも同時に考えた。(どうでもいいけどこの時、逆の立場になって初めて褒めてくれる相手に対しては微妙な態度を取るべきではなく素直に感謝した方が自分も相手も快いのだなと思った)
現実でも他人はその場の空気とかを良くするためにお世辞とも定義される思ってもみないことを平気で言う。だからその賛辞を鵜呑みにはできないのだ。常に本当に自分は褒められるべき基準に到達できているのだろうかという悩みがつきまとう。
その判定基準としていつの間にか自分の中で、このラインを超えていないこのことは他人から褒められるのには値しないとかこれはここまでやっているのだから褒められるのは当然という独自の基準を作り上げ、他者の賞賛を常に本当にそのまま受け取るべきものなのかどうかを判断しているのだろう。だから、そのラインを超えていないことに関する褒め言葉は素直に受け取れない。
他人に対してなんて疑り深いのだろう! なんて自分を責めることも多々あるが、でも現代の、特に作者とファンと信者なんて昔はもっと距離があった間柄にはこの見方も必要なのではないかと思う。
自分の主張や行いは一般的に見て本当に肯定されるべきことなのか? 褒められるに足るべきことなのか?
もし万が一にでも、信者とも言えるファンがたくさんできた際には、特にTwitter等のSNSで様々な関係性の人達との距離が良くも悪くも近くなってしまった現代においては常にそれを意識していきたいと私は思う。
そうでないともしかしたら、とんでもない勘違いや思い上がりをしてしまうだろうから。
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