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外へ出るようになったのはなぜ?

「しほさんが、こうして外へ出ていろんな人と会うようになったきっかけは何ですか?」

他府県のある校長先生が一緒に飲んでいる時にこんな質問をしてくれた。この質問に対する回答は今の自分のスタンスの根幹にかかわっていると思うので、自分のためにもう一度きちんと整理して書きとめておこうと思う。
 


教師になって…

1986年、大学を出てすぐに中学校教諭になった。その後採用が激減し、10年くらい職員室の中では一番年下のままで、先輩方からかわいがってもらった。その間、がむしゃらになって教師という仕事に没頭した。いろんな学校業務を任せてもらう中で少々自信過剰にもなってきた。
 
20年くらいしたころから、違う学校で働いている同期の仲間の進路がいろいろ分かれ始めてきた。「できる」と言われてきた教師が教育委員会へ異動したり管理職選考を受験するケースが多く、彼らはまわりからはそれを出世のように言われ、私も漠然とそうとらえていたところがあって、恥ずかしながらちょっとした嫉妬を感じたりすることもあった。
 
そんな人たちのほとんどが、自分の意志に反してそうなっていることはよく聞いていた。それなのになぜか彼らに対して強い反発心をもつようになってきた。そして自分は違う形の生き方をしようと強く思うようになった。

そんな折、突然私にも指導主事として教育委員会への異動の声がかかった。40代前半のことで当時私は主幹教諭で2年生の学年主任だった。
 

大きな転換

教諭が選考試験を受験せずに教育委員会へ異動する流れについては詳しく書けないが、普通は3月の内示で初めて知らされて、自分の意志とは関係なく異動となる。ところが私の場合はたまたま年度途中に校長から打診があったおかげで、当時の教育長に対して直接お断りをするチャンスが与えられたのだ。その時に教育長とどんなやりとりがあったのかも詳しくは書けないが、少々尖っていた私にはとにかく変な意地もあったことはたしかで、はっきりとお断りし、次の4月からも教諭のままでいられることとなった。
 
ただ、その時に心に決めたのが働きながら「大学院へ行こう」ということだった。出世していくように見える同期に対するおかしな嫉妬心は、自分自身が理論武装することによって払拭できるのではないかと思ったのだ。今から思えばずいぶんヨコシマな大学院志望動機である。そしてもう一つ、教育委員会から声がかかるのを待つのではなく、学校現場で働くことを続けたいなら自分の意志で管理職選考を受験しようということだった。これも今となっては同期への変な対抗心からくるものだったと告白する。
 

働きながら大学院へ

2009年4月、大学院の門をくぐった。46歳だった。当時二人の我が子も大学生だったので3人分の学費は家計をかなり圧迫したが、家族はよく理解してくれたものだと感謝している。大阪教育大学大学院教育学研究科実践学校教育専攻の夜間大学院だった。天王寺キャンパスは職場から1時間だった。院生は同じように現場の先生や管理職、教員採用が決まっている大学生で、年齢の違う同志と一緒に学んだ。
 
実践学校教育の大学院は教職大学院とは違って、受講する講義とは別に、師事する教授のもとで研究生として学び、修士論文を書くことが最終目的だった。自腹で学費を工面するというのはものすごく学びのエネルギーが沸くもので、できるだけたくさんのことを学びたいと、1年目は月・火・木・土は講義を受けに通った。土曜日以外は学校が終わってからすぐに阪和線に飛び乗っていた。学校の校長先生や先生方の理解もあり、一度も欠席や遅刻もなく受講できた。
 
私は中学校の国語の教師だったが、子どもに教えることのない算数の講義を受け、教授との禅問答のような掛け合いを心から楽しんだ。土曜日は美術を受講し、直接授業とは関係のないデッサンを学びながら、そこでもデッサンの技術ではなく「ものの考え方」を深く学ぶことができた。
 
2年目は修士論文を書くことに没頭した。あこがれていた園田雅春教授の研究室で学校の話をするのは至福の時間だった。わざわざ中学校の現場も見に来てくださった。この2年間の大学院生活は本当にかけがえのない時間だった。学んだのは学校から外に出て人と出会い、人の話を聴くことがいかに大切かということだった。
 

何のために外へ出るのか

大学院に通うことが決まった時、教育委員会のある指導主事から「今さら大学院へ行って、何の資格をとるの?」と聞かれたことがあるが、大学院は決して資格をとるところではないと今は断言できる。また私が当初思い描いていたような理論武装をするための場所でもない。小さく狭くなってしまった教師の時間と空間を拡げるところなのである。
 
また、在学中に自らの意志で管理職選考も受け、これまでの教員生活で学んだことを活かして、めざしたい教頭像を思い浮かべるようになった。誰かへの嫉妬や対抗心などはまったくなかった。とにかく大学院での2年間の生活は私の教師としての考え方を大きく変えた。
 

若者に学べ

49歳になる年に教頭になった。その後、教頭5年、校長6年間で定年退職するまで、いろんなところへ出かけていき、いろんな人と出会うようになった。出張扱いにならないところへも自腹でどんどん出かけた。それのほうがむしろ得ることが多かった。とくに年代を超えた多様性を大事にしようと思った。
 
校舎改築の話があがり、若い先生方と一緒に全国の学校を視察するようになった。SNSからも積極的に情報を集めるようになり『学びあい』という手法で授業改革をすすめている若者たちと出会った。SEALs(自由と民主主義のための学生緊急行動)が国会議事堂前で声をあげているのをテレビで見ながら「若者をもっと知りたい」と思った。

知り合いの知り合いが知り合いになり、同じような考え方をしている同志が日本中にたくさんいることもわかってきたら、地元の教頭会や校長会に対してもクリティカルシンキングができるようになってきた。
 
これが私が外へ出ていろんな人と出会うことを大切にするようになった経緯である。今もこのスタンスは変わらず続けている。
 


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